共愉──クィアの難問を解く生き方
伏見憲明氏が<ヘ◯タイ>宣言(注1)を書いたのは1991年であったが、その思想は今や「クィア・セオリー」という実践的な理論に活かされ洗練され深化し、LGBTQ+の思潮を先導して来た。
「クィア (queer)」については、その問題性も含めて、神名龍子氏 (注2) が次のように論評していた。
「1.『おかま』『変態』『奇妙な』等の意味の語から、従来のゲイ理論に対する批判をモチーフとして生まれた概念。『同性愛者(ゲイ)』というアイデンティティを持つことが、
1)他のセクシャルマイノリティに対する排除や差別を生み出してしまう
2)『性』の揺らぎや流動性、グラデーション性を無視して枠にはめ込み、その可塑性を切り捨ててしまう
3) 同性愛差別の原因である『同性愛・異性愛』の二項対立図式を再生産してしまう。
などの理由で好ましくないものであるとし、アイデンティティ(自己同一性、自己中心性)の廃止を主張する。したがって、具体的には同性愛者、バイセクシャルのみならず、トランスジェンダーや、異性愛の強制に異議を唱える異性愛者等を広く包括する用法が提案されている。この思想の骨子はいわゆるポストモダン思想に由来する。
しかし現実には、例えば自分を『ゲイ』と規定しなければ『ゲイ』に特有の問題を解く事が出来ず、広い意味での『クィア』にこだわる限り、単に『あらゆる問題はすべて解決されなければならない』という以上のことを何も主張し得ないことになってしまう。具体的な概念(やカテゴリー)を排除する以上、その必然的な帰結として、具体的な問題解決は不可能になる。これは、ポストモダン思想があらゆるもの(こと)を批判しながら結局は何事も解決し得ないことと、論理的にも現実的にも相似形をなしている。
2. なお、ゲイにして『QUEER JAPAN』(勁草書房) 編集長の伏見憲明氏は、上記とは異なり、各カテゴリーがそれぞれのアイデンティティを保持しつつ、相互を結ぶ緩い記号として『クィア』の語を用いているようである。この意味で使用される場合には、単なる『セクシャルマイノリティ』の代替語でもなく、ヘテロセクシャルに対しても『開かれた』概念となっている。古くからの『マジョリティ vs マイノリティ』の対抗図式の乗り越えを意図しているという点で、むしろ評価すべき姿勢といえる。」(注3)
1については、野口勝三氏が詳述している。(注4) クィア理論は、いわゆるポスト構造主義と相似しているが故に同じ難問(アポリア)を抱え込んでしまっているというのだ。次も神名氏の解説。すなわち──
「この種の思想は必然的にある種の矛盾、難問(アポリア)に突き当たります。それは何かというと、簡単に言えば『一』と『多』の問題です。個々の定義を廃止すれば個々の差異は問題にならない代わりに『全体』というひとまとまりの像が浮かび上がります。つまり、『●●も△△も関係ない、みんな同じ◆◆じゃないか』という話になる。逆にこの『全体』を否定あるいは相対化しようとすれば、それを分割するための個々の定義が必要になります。つまり『みんな同じ◆◆だといっても、その中には●●もいれば△△もいるじゃないか』という話になる。これは単純な例ですが、要するにある定義を相対化するために、新しい定義を創り出してしまうという、矛盾した循環運動を続ける事になるのです。」(注5)
神名氏の「クィア」の解説の、1の‘クィアの難問’を解くために、2の伏見氏のような立場に立つ柔軟性が必要なのだと思う。(注6) この難問を解くためには、all peopleといった漠然と一まとめにした人々全てでも、all the peopleと特定の集団を一まとめにして全体を把握する立場でも、each oneのように「めいめい」が個々に単独で孤立した立場にあるのでもなく、everyoneやeverybodyのように「各々一人ひとり全て」(注7)が、相互にそれぞれの多様な立場を認め合いながら、出会い関わり共に愉しめる生き方を、単なる机上の空論ではなく、日々、無理なく実践できるような 、今・ここ(now・here)の場 (トピア) の構築が必要なのだと思う。
ところで、 イヴァン・イリイチが提出した、「コンヴィヴィアリティ (conviviality)」という言葉がある。(注8) 現在、「共愉」という絶妙な言葉に訳されて、見直されている。
元々、「コンヴィヴィアル (convivial)」という言葉は、例えば、気心が知れた仲間同士が、和気あいあいと共に円卓を囲み愉しく飲み食いして宴 (うたげ )を愉しむ様子を示すような意味合いの日常語だった。(注9)
僕は、主義主張(イデオロギー)がまずあって、それぞれの立場の人々が使命感を抱いて連帯するとか、あるいは何か今・ここにはない‘ユートピア(utopia=nowhere 理想郷)’を措定して、その目標に向かって小異を捨てて大同につくといった堅苦しい窮屈な関係性ではなく、人々それぞれ皆が個々に多様な特異性(ユニークさuniqueness)を示すが故に、その魅力に惹きつけられ、愉しいから共に関り、共に関れば関る程、なお一層、お互いが共に愉しく陽気に生き生きとできるという意味合いの、今・ここ (now・here) の関係性を示すものとして、この言葉を用いたいと思う。
そして、この「共愉」する生き方により、‘クィアの難問’を解くことができるのではないかと僕は感じているのだが、どうだろうか?(注10)
(注1)
『プライベート・ゲイ・ライフ ポスト恋愛論』(1991・学陽書房)8頁より
「ぼくは<ヘンタイ>が好きだ。自分のことを<ヘンタイ>って言えちゃう人が好きだ。だってそれは、自分を基準値に近づけようとしたり、規格化されることから降りちゃった人のことだからね。(ちなみに漢字の<変態>は、他人に迷惑をかけるのが好きな人のこと)
<ふつう>っていう、実ははっきりしていない中心点から距離をはかりながら生きるのは疲れるし、知らず知らずのうちに既成社会のヒエラルヒーに組み込まれてしまう。それは<個>であろうとすることとは、逆のベクトルを指している。そんなのはもう、やめたほうがいいんじゃないのかな?降りてしまえばいい。
だから、ぼくはゲイと呼ばれてるマイノリティーだけど、『ぼくだって<ふつう>なんだ!』と呼ぼうとは思わない。それよりは『あなたもあなたであろうとすれば、<ヘンタイ>なんだ』とメッセージしたい。<ふつう>っていう言葉はその向かう側に、永遠に<ふつう>でないものを用意し、差別していくような気がするんだよね。目指すところが同じでも、ぼくは<ヘンタイ>という言葉を選び取りたい。
みんなが自分のやり方を見つけて、自由にやっていけばいいんだ。<ふつう>をつくる必要なんてないでしょ?それが無いことに耐えられない人は、セルフリスペクトが足りないんだと思う。もっともっと自分を愛してみようよ。自分に語りかけてみようよ。
そしてその<ヘンタイ>と<ヘンタイ>が、どうやって折り合いをつけながらいっしょに生きていくのかが、<関係>ということ。一方的に自分らしさを押しつけあっていたら、<共生>することはできないからね。そう簡単にはいかない。
ぼくは今、捜しているんだ。多様な人間ができるだけリラックスしながら、寄り合って生きていくための、<関係>のありようを。」
(注2)
神名龍子氏プロフィール
神名 龍子(じんな りゅうこ、1964年-)は、日本の男性女装家・在野の哲学者。東京都生まれ。
略歴
1990年~1999年まで、パソコン通信にて女装家向けの「EON」を展開する。1500名ほどの会員の「場」を形成し、当時の会員には三橋順子、宮崎留美子、野宮亜紀など、その後のトランスジェンダーの人権運動を担う人物が多数在籍した。
1998年から西研、竹田青嗣に師事し、哲学、特にフッサールを中心とした現象学を学び、フェミニズムにおける対抗主義(告発・糾弾に頼る社会運動)や、男女の性差を無視する従来のジェンダー学の矛盾を指摘した。
2002年から2004年にかけて、性同一性障害者の当事者団体、「性同一性障害をかかえる人々が、普通にくらせる社会をめざす会」(gid.jp)に参加。性同一性障害特例法の制定をめざす活動などを行う。
2004年大阪経済法科大学 「東京麻布台セミナーハウス」にて、特別講座「セクシャルマイノリティの人権と共生」と題して、松村比奈子、野口勝三とともに講師として参加する。
2005年筑波大学マスコミ工学研究会主催の講演会において、『性的マイノリティとメディア -現象学の視点から』と、題して講演を行う。
EON/W 復刻版
(注3)
「クィア」 引用するに当たって、見やすくするために行を加えたり、番号の付け方を工夫し変更した。
(注4)
「クィア理論とポスト構造主義──反形而上学の潮流として」『 クィア・ジャパン(Vol.3 特集・魅惑のブス)』勁草書房
(注5)
「クィアの難問(アポリア)」
(注6)
伏見憲明氏の生き方そのものの記録であると言える『ゲイという[経験]』の書評で野口勝三氏はこう記している。「著者はゲイという少数者の問題に深く身を沈めていくことで、性と生の普遍性に達した。その思考の軌跡は、わたしたちに生存の技法に関する多くの示唆を与えるだろう」。
(注7)
⇒肥満論:サイズアクセプタンスの思想
(注8)
I・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』日本エディタースクール出版
I・イリイチ『政治的転換』日本エディタースクール出版
I・イリイチ『生きる思想──反=教育/技術/生命』藤原書店
(注9)
僕はイリイチの論文の翻訳の下訳を手伝った関係で、直接イリイチに尋ねたことがあるが、”conviviality”は、”living together”という意味に捉えて良いと彼は言っていた。
(注10)
イバン・イリイチを日本に紹介することに貢献した山本哲士氏は、安易にイリイチの「コンヴィヴィアリティ」概念を前面に押し出し、問題構成する立場を批判し、そのような日本の潮流に与しないと言っていた。具体的に誰を思い浮かべているか僕も知っているが、まさにその批判は当たっていると思う。でも、彼が批判しているような事態に陥らないためにも、それでもやはり「実践」しかないのでは?と僕は思うわけだ。
「旧来の思想枠のまま新しい思考をとりいれようとする日本の知的な潮流は、自らの諸関係ないし合理性の存在根拠を問いかえすことなく、コンヴィヴィアリティを『共生』とし、さらにバナキュラーなものにそれを合致させ、エコロジー運動を正統化し、共生の『プラクシス=実践』論を主唱するという思考の転倒をやってのける」。(山本哲士『ジェンダーと愛──男女学入門』新曜社、241頁。)
⇒肥満論:序文
⇒肥満論:サイズアクセプタンスの思想
⇒ビートルズの"オブラデ・オブラダ”はドラァグクィーンを歌った曲!?
⇒シンディ・ローパーとLGBTQ+コミュニティ
⇒ドンチャン騒ぎには耐えられない!
