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ノートルダムの鐘を鳴らすのはあなた④

皆さまこんにちは。

ノートルダムの鐘についてのnoteもあっという間に④
おかしい。終わる気配が感じられない。

今回は、①のキリスト教について,②の当時のヨーロッパの状況について,③のテーマとキーワードを踏まえて【キャラクターそれぞれの役割と特徴】について書いていきたいと思います。

突然ここから読み始める方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんので念のため。
・わたしのわたしによるわたしのための考察・解釈です。(といいつつ少しは誰かの何かの役にたったらいいなという気持ちはあります)
・人には人の乳酸菌でよろしくお願いいたします。

カジモドについて

フロローの弟ジェアンとジプシー(現在は差別用語に当たり、「ロマ」と呼ばれていますが物語の登場人物説明のため使用いたします。)の息子。
カジモド(Quasimodo)という名前の由来は拾われた日(復活祭の翌日の日曜日)と“不完全”“未完成”です。
原作では
・背中と目の上にこぶ
・背中が曲がっている
・たこのできた唇
・外股

ミュージカルでは
・大きく前傾に傾く背中
・片目をすぼめて、顔に墨を塗り表現された歪み

とあります。こぶや歪みは恐らく先天性のものであり、曲がった背骨は原題『The Hunchback of Notre Dame』にある"The Hunchback"=せむし男に理由があります。

せむしも現在は差別用語に指定されていますが、体形を指す言葉です。
原因のひとつとして挙げられるのが“くる病“という病気です。ビタミンDやカルシウム、日光不足によって起こる骨の病気で、骨を成長させる過程で充分に栄養が得られず障害された結果完成していない骨が増加してしまうものです。これによって脊椎の変形やX脚、O脚が生じます。
カジモドのものが先天性か後天性かは明言されていませんが、充分に生育されなかったであろう新生児期とフロローの元に行ってからも暗い聖堂の塔で育てられたことを踏まえると後天性の可能性もあるのではないかな…

また中世ヨーロッパでは病気は“犯した罪の結果““神からの罰“であると考えられていたそうなので、初めてカジモドを見たフロローが「怪物だ!お前へ(ジェアン)の神の裁きだ!裁かれぬ悪などない!」と叫ぶのは、まさにここからです。

外見的な症状に加え、大きな鐘をつき続けていたことで難聴にもなってしまいます。
力が強いのは重い鐘をつき続けていたからかな…

Out There(意:外に,外の世界に)(日題:陽ざしの中へ,僕の願い)

ミュージカルはやはり歌に祈りが込められていると思いますのでそれぞれのメインナンバーにも触れていきたいと思います。
ていうかもうタイトルがサ…「あそこいきたい」とか「行きたいところ」とかじゃなくて「“外の世界”に」なのがサ…つまり今は“外に”いないんですよ…建物の中や光のないところにいることを強調している…

「陽ざしの中へ」も、あえて“陽”なのだと思うんですよ。“日”じゃないんです。
一応調べるとどちらの漢字も大きく意味が変わることはないのですが、
日=太陽そのもの,強い光,夏
陽=日の当たる場所,ひなた,春や冬
っていう印象の違いがあります。なので、同じ太陽の光の下でも「陽ざしの中へ」だと「あたたかく明るいところに行きたい」っていう心からの望みなのではないかな…と思って今ちょっと泣きそうになっているわけですが。

歌詞も

And out there, living in the sun . Give me one day out there
(外の世界,太陽の下で生きること 1日だけでいいんだ)
All I ask is one to hold forever
(ただ僕が望むのはひとつだけ…永遠に抱きしめて生きていくから)
Out there, where they all live unaware
(外の世界,彼らは皆なにも知らずに暮らしている)
What I′d give, what I′d dare. Just to live one day out there!
(何でもするから、勇気を出すよ。ただ1日だけでいいから外の世界で生きたいんだ)

Apple Music/『Out There』 ノートルダムの鐘(アメリカ公演 キャストレコーディング)1999年

っていう一節がありまして、ここがとにかく彼の願いをギュギュッと凝縮しているなと思っています。
“人々が当たり前にしていることこそが、幸せなのにまるで皆気がついていない。自分ならそんな平凡な幸せを毎日噛み締めて大切にするのに…どうか、どうか1日だけでもいいから外の世界へ、太陽の光が差す明るいところで生きたい”
という願い。

罪と罰

罪:キリスト教の教えに基づいて考えると十戒のひとつである⑥殺してはならない(一応⑨の偽りの偽証をしてはならない もですかね…エスメラルダのためではありますが…)

罰:彼自身が作中、自分に対してこれは罰なんだとか神の裁きなんだと明言した部分はないので作中で罰は受けていない
(生きている間のことは神は介入していないので、死んだあと地獄に行ったのかエスメラルダの亡骸を抱きながら己の罪を悔いて神の赦しを得たのかは分からず)

これがちょっと難しくて…というのもあの塔でカジモドは“愛”がなんたるかを知っていたのでしょうか。
わたし、色々なところで言っている自論があって
“人間は貰ったものしか人に与えることができない“と思っています。
その貰う先は家族であり、友人でありときには他人であり。
彼の人物紹介のところには「優しく純粋な心をもち」と記載してあります。
優しく、純粋であることと愛を知っていることは=ではないとわたしは思っていて。
彼の優しく純粋というのは性格というよりも幼さが故の性質だと思います。“子ども”ということです。
スタートラインに立ったままの状態なのでここからどの道に進むかは環境と関わった人次第。

なので、彼は途中まで4つの愛も、自己愛(自己肯定感)も持っていないと思います。
フロローとの関係性は親子というより主人と召使。
新約聖書にある「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というキリストの言葉は自己愛を否定していません。
自分を愛することとエゴは明確に区別している。
カジモドは、1番最初に人間が得られるはずのストルゲー(家族愛/血縁に基づいた愛情)も得られず、そこから段階的に得られるはずのフィリア(友愛/兄弟愛)も知らないのです。
人から愛されたことがないから自分の愛し方も、よく分からない。
(フロローの支配を“愛“だと認識していた可能性はあります。)

ただ彼は、一度出た外の世界で人々から受けた差別と迫害で「フロローの言うとおりだった」と現実を知ると同時にエスメラルダと出会います。彼女と共に塔の上で歌うのが『Top of the World(世界の頂上で)』

Seeing life from the top of the world
(世界の頂上から人生を見たら)
Nothing needs fighting And no one needs pity
(争いは必要ないし、誰も哀れみを必要としない)
Thanks for giving this moment to me
(この瞬間を私にくれてありがとう)
When just for a moment things stop
(ほんのひととき、すべてが静止するとき)
Here at the top of the world
(ここ、世界の頂上で)

Apple Music/『Top of the World』ノートルダムの鐘(アメリカ公演 キャストレコーディング) 1999年

わたしここの場面の2人がすごくキラキラしていて好きなのですが、カジモドは初めて自分と目線を合わせてくれる人とちゃんと会話をして同じものを観て、共有して、素敵だと言ってくれる時間を過ごせたしエスメラルダは誰にも追われず、馬鹿にされず、蔑まれず、外見を見て評価をされることもない本当に2人だけの時間を過ごせた唯一の場面だからです。

ガーーーーーーーーツ(?)

そして彼は、その後エスメラルダを守るために初めてフロローに嘘をつきます。
エスメラルダを守るために、を分解するとフロローへの忠誠心よりもエスメラルダを守りたいという自分の意志が打ち勝ったということ。彼は親の言うことより自分の欲望を優先させることで精神的な親殺しをしたわけです。
これは1人の大人になるため(自立)のプロセスのひとつです。
また作中何度か登場する聖アフロディージアスはノートルダム大聖堂の彫刻にもなっている人物でエジプト人の大司祭。
キリストと聖母マリア、義父のヨセフ(聖家族)を匿ったことで異教徒に斬首されました。
自己犠牲の象徴です。歌の中で「その選択がこの凄惨な殉教を招くとは思いもしなかったが、(知っていたとしても)わたしの選択は変わらない」「聖母である彼女に避難所を提供した。カジモド、君にもできるはずだ」と言っていて、まさにカジモドがこの後することですよね。

自分の行動が原因でエスメラルダが捕えられ自暴自棄になるカジモドですが、判決が下ったところでまた行動を起こします。
彼は、外の世界の残酷さを知ると同時に本来人生で何年もかけて獲得していくものであるフィリア(友愛)とストルゲー(家族愛)アガペー(無償の愛/隣人愛)を出会いを通して学び、気づきそれを人に与えました。

フロローから学んだ「悪人は罰を受ける」
聖アフロディージアスから学んだ「自分がどうなったとしても困った人を助ける」
そしてエスメラルダがくれたアガペー。
芽生えたフィリア。
気づく自分の中にあったフロローに対するストルゲー。

「僕の愛した人は皆、横たわっている…」

怒りと復讐心に燃えてフロローを持ち上げるときカジモドは曲がったままだった背骨をピンと伸ばしますよね。
それは文字通り骨を砕くようなもので、筋肉や神経をも傷めます。
それによって身体がどうなるか分からなかったはずはないと思うんですよね。
もう、自分のことはどうでも良かったのだと思うとあまりに切なく胸にくるものがあります。

人こそ殺してしまいましたが、彼は“優しくて純粋“だけであった人から本当の意味で“誰かを愛することができる”人になれたのではないでしょうか。

聖域と大聖堂

カジモドにとっては幼い頃から育った我が家でもあり、誰も手出しができない避難所でもあるノートルダム大聖堂。
彫刻たちと鐘に囲まれ、彼にとっては唯一自分らしくいられる場所でもあります。

終盤エスメラルダに、「ここにいればいいよ」と話すのは単に自分と一緒にいてほしいという意味の他に“ここにいれば安全だ“という自らの経験からそう言ったんじゃないかなと思います。

ジプシーだからと馬鹿にされることも、居場所を追われることも無い。
亡くなった後亡骸を抱いて聖堂に残るのも誰からも干渉されないように、尊厳を守るために共に残る選択をしたのだと思います。(③で書いたとおり聖堂は誰にとっても平等に避難所としても機能していました)

彼にとっての、聖域は彼女といる聖堂だから。


いやマジで違う。想定外。
この④で少なくともカジモドとフロローは終えるはずだったのね。
1人でこんなに使っちゃったらね。⑧とかが見えてしまうワケ。

最初⑤で終わると思ってた🎶

ということで今回はカジモドについてでした…
長くなりますが…お付き合いいただけますと…

それではまた次回お会いしましょう。

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