【勝瑞城】残念すぎる日本の名城 第123回|鉄工所の下からよみがえった、三好氏の幻の都
はじめに
徳島県藍住町(あいずみちょう)にある勝瑞城(しょうずいじょう)は、石垣も天守もない平城です。見性寺(けんしょうじ)の境内に残る城跡は意外なほど小さく、初めて訪れると「続日本100名城なのに、もう見終わったのだろうか」と戸惑うかもしれません。
しかし、県道を挟んだ南側まで歩くと、印象は一変します。そこには、三好氏の居館だった広大な勝瑞館跡が広がっているからです。

かつて勝瑞は、阿波の政治・経済・文化を動かした四国有数の都市でした。「最初の天下人」と呼ばれることもある三好長慶。その飛躍を支えた一族の拠点が、この勝瑞です。

(勝瑞攻めの戦没者を慰霊)
さらに興味深いのは、館跡の一部が、操業中の鉄工所の敷地を発掘したことで発見された点です。何もないように見える広場の下に、戦国時代の館と現代の工場、二つの時間が重なっています。
1.勝瑞城の歴史
勝瑞には、室町時代後半から阿波国守護・細川氏の守護所が置かれました。旧吉野川などの河川に囲まれ、水運を利用しやすかったことから、人や物資が集まる阿波の中心地として発展します。
細川氏の家臣だった三好氏は、やがて主家をしのぐ力を持つようになりました。三好長慶は畿内へ進出し、室町幕府の政治を動かすまでになります。一方、阿波では弟の三好実休らが勝瑞を守り、長慶の活動を支えました。

現在の勝瑞城跡は、長く細川氏や三好氏の居館そのものと考えられていました。しかし発掘調査により、出土遺物の年代から16世紀末(1580年前後)に築かれ、短期間しか使われなかったことが判明します。長宗我部元親の侵攻に備え、三好実休の子で十河家を継いだ十河存保が築いた、最後の防衛拠点だったと考えられています。

(見性寺)
天正10年(1582年)、中富川の戦いに敗れた十河存保は勝瑞城へ退きました。しかし、大洪水にも苦しめられ、やがて讃岐へ撤退します。勝瑞は長宗我部氏の攻撃を受けて焼亡しました。
その後、蜂須賀氏が徳島城と新しい城下町を築くと、阿波の中心は徳島へ移ります。にぎわいを失った勝瑞は、いつしか田畑や住宅の下に眠る「幻の都」となりました。
2.残念すぎる勝瑞城
2.1 城跡だけを見ると、驚くほど小さい
勝瑞城跡は東西約105メートル、南北約90メートル。見性寺の境内を中心に、水堀と土塁が残っています。

壮大な石垣や櫓台があるわけではなく、境内を歩くだけなら、それほど時間はかかりません。続日本100名城を巡っている人ほど、その小ささに拍子抜けしそうです。
ただし、ここは勝瑞の全盛期を支えた居館ではなく、長宗我部氏の侵攻を前に急いで築かれたとみられる防御施設です。小ささの奥には、三好氏が追い詰められていた戦国末期の緊張感が隠れています。
2.2 「城跡」と「館跡」が離れていて分かりにくい
勝瑞城を理解するには、見性寺にある城跡と、県道の南側にある勝瑞館跡の両方を歩かなければなりません。
両者を分けているのは、徳島県道14号松茂吉野線です。城跡は県道沿いにありますが、館跡は道路からマンションの裏手へ少し入った場所にあります。城跡だけを見て帰ってしまうと、勝瑞最大の見どころを逃してしまいます。

一つの史跡が道路と現代の町並みによって分断されているのは残念ですが、逆にいえば、戦うための「城」と、政治や生活の舞台だった「館」の違いを実際の距離で体感できる場所でもあります。
2.3 かつての大都市が、ほとんど見えない
勝瑞城館跡は、標高約2.5メートルの低い微高地にあります。山城のように高所から城下を見渡せる場所はなく、周囲に広がるのは住宅や道路、田畑です。
かつてここが阿波の首都であり、四国有数の都市だったと聞いても、現在の静かな風景から往時のにぎわいを想像するのは簡単ではありません。

館跡を中心とする遺跡の推定範囲は直径約300メートルに及びますが、その全体像はまだ完全には分かっていません。都市が大きかったからこそ、現在の町の下へ広く溶け込んでしまったのです。
2.4 水に恵まれ、水に苦しめられた
勝瑞が栄えた理由の一つは、旧吉野川をはじめとする河川の存在でした。水運によって物資や人が行き交い、京都や瀬戸内海方面とも結ばれていました。
ところが、低い土地は洪水の影響を受けやすいという弱点も抱えていました。天正10年(1582年)、城に退いた十河存保に追い打ちをかけたのも大洪水です。防御の要であるはずの立地が、そのまま弱点になってしまいました。

勝瑞を豊かにした水が、最後には城を苦しめました。水堀を眺めていると、この土地と水との複雑な関係が見えてきます。
3.それでも魅力的な勝瑞城の見どころ
3.1 見性寺を囲む水堀と土塁
見性寺の周囲には、上幅約13メートルの堀と、基底部の幅約12.5メートル、高さ約2.5メートルの土塁が確認されています。

石垣のような華やかさはありませんが、土と水でつくられた防御施設は、平地の城らしい姿をよく残しています。発掘調査では大量の瓦も見つかり、瓦葺きの施設があったと推定されています。
境内には、三好之長、元長、実休、長治のものと伝わる墓碑も並びます。城跡と菩提寺が重なったことで、三好氏の記憶が現在まで守られてきました。
3.2 広大な館跡と、雅やかな二つの庭園
勝瑞館跡は、東西約120メートル、南北約150メートル。幅10~15メートル、深さ3~3.5メートルもの大きな堀によって区画されていました。
館内では、客を招いて宴会や接待を行った「会所」のほか、館の主人が普段の生活を送った「常御殿」とみられる建物跡も見つかっています。儀式、接待、日常生活の場所を別々の建物に分け、渡り廊下で結ぶ構成は、京都の将軍邸や細川管領邸にならったものです。

庭園に据えられた景石は12個。阿波の青石と呼ばれる緑泥片岩が9個、砂岩が2個、チャートが1個です。いずれも50センチから1メートルほどの小ぶりな石で、それらを組み合わせずに一つずつ単独で配置している点に特徴があります。
東側からは、東西約40メートル、南北約30メートルの池泉庭園も発見されました。池には中島があり、岸の一部では石積みも見つかっています。発掘された庭園としては全国最大級とされ、館の主の権威を示す空間だったと考えられています。
武力だけでなく、茶や宴会、庭園鑑賞によって客をもてなす文化があったことも、勝瑞館跡の大きな魅力です。
3.3 三好長慶の天下を支えた一族の故郷
三好長慶は畿内で勢力を広げ、将軍や管領をしのぐほどの権力を握りました。しかし、その活躍は長慶一人の力だけで成し遂げられたものではありません。
弟の三好実休らは阿波を治め、勝瑞を拠点として長慶の政権を支えました。勝瑞は長慶本人の城というより、三好一族の根であり、中央へ飛躍するための背骨だった場所です。

華やかな京都や大阪から遠く離れた阿波に立つことで、三好長慶の天下を支えた土台が見えてきます。見性寺に並ぶ一族の墓は、勝瑞が三好氏の精神的な故郷であったことを静かに伝えています。
3.4 鉄工所の下からよみがえった、幻の館
現在、広々とした史跡公園となっている勝瑞館跡には、かつて長尾鉄工所の工場がありました。この一帯は周囲よりわずかに高く、昔から「お山」と呼ばれていたそうです。
転機となったのは平成9年(1997年)です。当時操業していた長尾鉄工所の協力を得て敷地内を発掘したところ、礎石建物跡や溝、大量のかわらけ、国内外産の陶磁器、銭などが見つかりました。

見性寺に残る小さな城跡とは別に、三好氏の政治と暮らしを支えた広大な館が存在していたことが、ここで明らかになったのです。その後、土地の公有化と発掘調査が進められ、会所、常御殿、枯山水庭園、大規模な池泉庭園などが次々と姿を現しました。
池泉庭園の発掘写真には、庭園跡を横切るように工場建物の基礎が並んでいます。工場の基礎によって確認できない部分がある一方、鉄工所の協力がなければ、館跡の存在は今も知られないままだったかもしれません。
目の前の広場に、鉄工所の機械音が響いていた時代と、その下に眠っていた戦国時代を重ねてみてください。何もないように見えた空間が、急に雄弁になります。
4.残念ポイントを逆手に取った楽しみ方
4.1 「城跡」と「館跡」の落差を歩く
最初に見性寺の水堀と土塁を見学し、次に県道を渡って勝瑞館跡へ向かいましょう。
小さな防衛拠点から、広大な政治・文化の空間へ。その規模の落差を自分の足で確かめることが、勝瑞城めぐりの醍醐味です。「城跡が小さい」という最初の残念な印象が、館跡に着くころには驚きへ変わります。
4.2 土地のわずかな高低差を探す
勝瑞では石垣を探すのではなく、堀の水面、土塁のふくらみ、道路の曲がり、周囲より少し高い土地に注目してみてください。

山城なら尾根や谷が城の形を教えてくれますが、勝瑞では数十センチほどの高低差が手がかりになります。「お山」と呼ばれた鉄工所の土地も、そのような微高地の一つでした。
4.3 展示室で、見えない都市を完成させる
勝瑞館跡の南側には、史跡勝瑞城館跡展示室があります。灰色の建物の外階段を上った2階が展示室で、エレベーターも利用できます。開館は9時から17時まで(12月29日~1月3日は休館)、入館料も駐車場も無料です。続日本100名城のスタンプもここに置かれています。

発掘写真や出土品、復元図を見てからもう一度館跡へ戻ると、広場の見え方が変わります。何もない地面の上に、堀、御殿、会所、庭園を頭の中で組み立てられるようになるからです。
勝瑞城は、残された建物を見る城ではありません。失われた都市を、発掘成果と想像力でよみがえらせる城なのです。
まとめ
勝瑞城は、分かりやすい城ではありません。見性寺に残る城跡は小さく、広大な館跡は県道の向こう側にあり、かつての都市は住宅や田畑の下へ消えています。
しかし、水堀と土塁、三好氏の墓、復元された庭園、発掘写真に残る鉄工所の基礎を一つずつ結んでいくと、阿波の政治と文化を担った都市の姿が浮かび上がります。
とりわけ、操業中の鉄工所の敷地から三好氏の館が発見された物語は、勝瑞ならではです。現代の機械音のさらに下で、戦国時代の宴や政務の声が眠っていました。
勝瑞城は、消えてしまったからこそ想像力をかき立てる城です。何もない広場に立ち、三好氏が畿内へ伸ばした視線と、幻の都が重ねてきた時間を感じてみてください。
参考資料
#勝瑞城 #残念すぎる日本の名城 #徳島県 #藍住町 #デジタル城下町 #続日本100名城 #城めぐり #城巡り
#三好長慶 #三好実体 #長曾我部元親
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします!
