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みのミュージックの真の問題点は、彼が「音楽自体を語っていること」ではなく「音楽自体を語れていないこと」だ。

みのミュージックの一連の話題で記事を書くのは6本目になります。自分でもさすがに固執しすぎだとも思ってしまいますが、どうしてももう少しだけ書いておきたくなってしまい、良ければお付き合いくださいませ。

前回の僕の記事では、特に2026年3月10日にみの氏によってXとnoteに投稿された「J-POPはアニメの下請けになったのか? 」という記事に対する違和感を表明してみました。そこでは、論点の主軸の1つとして「みの氏に通底するアニメ文化への無意識の蔑視」を挙げて話を展開しましたが、この点については、僕が指摘せずともアニメファンや業界人を中心として多くの方が指摘していた点でもありました。

そのため、そういったアニメ界隈の立場とひっくるめて、僕の立場も「アニメ文脈との接続を強要する非音楽・アニオタ側」だと読まれた方も多いかもしれませんが、前回記事にもきちんと明記してあるように、僕は別に、すべての批評に「アニメ文脈の言及が必須だ」とは主張しているわけでは決してない、ということを、まずここで再度念押ししておきます。

音そのものと付随要素との結び付きかたはケースバイケースであり、個人の聴き方もまた人それぞれ自由であるが、あくまで「批評」を行うのであれば、対象作品についてきちんと「実態に即した認識」を前提にしなければならないだろう、ということを僕は言っているわけです。


みの氏側の主張は、ある意味徹底して一貫しています。

彼が繰り返し述べている不満は非常に単純で、「音楽自体の内在的批評をしたいのに、“外在的要素を踏まえろ” という圧力がうるさいよ~」ということに尽きます。

しかし、みの氏側がこの不満を強く押し出すことによって、議論全体が、「音楽 vs アニメタイアップ」「内在的批評 vs 外在的批評」という構図設定に引きずり込まれてしまっていること自体、そもそもズレているようにも僕は感じてしまいます。

みの氏の行う批評には、タイアップ問題に限らない複合的な問題点があり、僕を含めて一定数の読者・視聴者が「何となくのモヤモヤ」を抱えたことだと思います。ただ、読者・視聴者側も当然、音楽的な専門知識を必ずしも有しているわけではなく、批評のどこがどう間違っているかを細かく指摘できるわけではありません。 その結果、最もわかりやすい批判点として「タイアップ文脈の欠如」という論点に意見が集中してしまった側面があったのではないかな、とも思ってしまうのです。

みの氏はその部分をここぞとばかりにフォーカスして取り上げ、大仰に反論することで、「自分は音楽自体を語りたい側だ」というポジショニングを強固なものにし、自論の正当化を果たした形といえるでしょう。

みの氏がどうしてここまで「外在的要素の排除」という態度の表明に固執してしまっているかという部分に関しては、実は僕はある程度共感・理解できる部分があります。みの氏の批評スタンスの背景には、ロキノン的な批評文化へのカウンター意識があると見受けられるからです。

日本の従来の音楽批評、特にいわゆる「ロキノン系」の批評文化においては「自分語り」や「社会的文脈との接続」ばかりが強調され、肝心の音楽そのものの内容がほとんど語られないという状況が長年続いていました。作品の音楽内容そっちのけで、独特の文体によって書き手の妄想する物語に音楽を当てはめた「痛々しいポエム」が理想とされる風潮が続いてきた結果、日本の音楽批評では実際の作品から離れた「外野の戯言」のような文章ばかりが量産されてきた、という問題が確かにありました。

みの氏が志向している「内在的批評」への欲望自体は、こうした状況に対するカウンターとして理解することができます。

実際、みの氏のYouTubeチャンネル〔みのミュージック〕では、ロキノン系諸雑誌の代表的ライターであり、雑誌『Snoozer』の編集長でもあった田中宗一郎(通称:タナソー)氏と(ある種プロレス的ですが)対立するような動画が投稿されていることからも、みの氏の「対・ロキノン批評」の立場は明確です。

ちなみにタナソーは、学生時代にレコード店で万引きをしたことをSNS上で自慢し、さらに「レコードを万引きしたことのない連中は信用できない」とまで投稿して大炎上したことのある人物です。レディオヘッドのディスクレビューにおいては、「助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。お助平。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。」という怪文を掲載したことも有名で、その痛々しさがご理解いただけるかと思います。

同じくロキノン文化を象徴する批評家として宇野惟正氏も挙げられます。 彼もまた、ナルシシズム全開の発信を繰り返し、幾度となく炎上してきた人物です。僕はXをブロックされています。笑

こうした人物たちが象徴するロキノン的批評文化は、「作品そのものよりも、自分の感情が前面に出た自己陶酔的なポエム」「社会との強引な接続」という特徴を持っており、みの氏はまさにそうした「外在派」への反発として「内在的批評」を掲げているのだと考えられます。そして、この問題意識には、僕も共感しています。

つまり、もし「 “ロキノン的批評観の蔓延” という前提のもとで」「内在的批評か外在的批評か」という二択を迫られるのであれば、僕は「内在的批評」をむしろ支持したいのです。

「じゃあ、なんで今回おまえはみの氏を叩いているんだよ!?」というと、それには「何故ロキノン的批評が問題だったのか」という部分が関わってきます。

ロキノン的批評の問題の本質は、「実際の作品」が置き去りになった批評は的外れだ、という点にあります。肝心の対象作品そのものがほとんど語られず、作品の実態と関係のない外野の戯言が「批評」として流通してしまう。そこにこそ問題があったはずなのです。

みの氏はそこへの反動として「内在的批評」を掲げたのだと思いますが、その実践において、本来第一目的であるはずだった「作品の実態に寄り添う」という姿勢はおざなりになり、ただただ「音そのものだけを勝手な解釈で説明する」ことに終始していった結果、「音楽」を捉えるために本来必要な構成要素・付随情報までもをみの氏は切り捨ててしまいました。僕から見れば、これらも広義の「内在的要素」として「作品の本質」を構成する一部なのに、です。

結果、みの氏の批評は「作品の実態を無視した外野の戯言」に成り下がってしまいました。「音楽そのもの」に寄り添うつもりが、皮肉にも従来のロキノン批評とまったく同じ構造を引き継いでしまったのです。みの氏の抱える問題点の一番の本質はここにあると感じます。

つまり、みの氏の問題は「音楽自体を語ろうとしていること」ではありません。むしろ逆で、「音楽自体を適切に語れていないこと」にあるのです。

みの氏は「音楽そのものを語りたい」と言いながら、 実際には当事者たちが享受している本質的部分を含めた “音楽作品” を適切に語るための必要要素の言及を拒否してしまっている。だから批評が浅くなり、肝心の「現場の当事者たち」からの同意が得られず、 結果として「タイアップ文脈を無視している」という批判が最も目立つ形で噴出してしまったのではないでしょうか。


このような考えを整理していた矢先、YouTubeにみの氏による新たな動画が上がっていました。


「J-POPはアニメの下請けになったのか?」という、先行note記事と全く同じ動画タイトルで、内容も基本的にnote記事の焼き直しではありましたが、炎上を受けて弁明・補足を入れながらの説明となっており、配慮しながらの主張となっていました。

この動画を観た感想としては、「まあ、これなら分からんでもないな」というものでした。どこまでが本心かわかりませんが、誤解を解こうと丁寧に補足された部分も相まって、記事で読むよりも幾分か理解できる内容になっていたとは思いました。これが炎上を受けてからの後付けの言い訳ではなく、本当に当初からそういう問題意識だったのであれば。

しかし、発端を振り返ると、もともと「音楽ジャーナリズムの死」発言から始まった一連の流れは、そもそもアニメタイアップ論に焦点を当てたものではなかったはずです。仮に真の問題意識が当初から一貫していたとしても、それならば文面上での伝え方は相当悪かったと思います。

一連の批評に対するSNS上での実際の反応を見ても、「批評じゃなくてただのぼやき」「流行歌の批評に必要な知識が不足していてお粗末」「オールドロック好きが無理してアニソンに言及しているだけ」など、納得感の低さが目立ちます。

みの氏の全肯定ファンは、「読者側の読解力不足だ」とか「みの氏はあえて意図的に挑発するような言い回しで書いているため、その奥にある本旨を読み取るべきだ」などと擁護する向きもありますが、動画を見る限り、みの氏は単に自身の思慮の浅さによって各所の反感を買う言い回しをナチュラルにしてしまっただけのように僕は感じます。これはあくまで憶測でしかありませんが。

振り返ってみても、今回の流れの出発点である「音楽ジャーナリズムの死」を扱った動画の段階では、特に問題はなかったと思います。その次に公開された「怪獣批評」についても、内容としてはその分析内容の浅さから疑問を感じる部分はあったものの、その取り組みの姿勢自体は十分良かったと思います。

明らかに余分だったのが、その後のXでの発言やnote記事です。

「音楽ジャーナリズムを改革する」というような、大仰な問題意識で行動を起こしたわりに、アニメ蔑視と受け取られて仕方のない表現や、(少なくともその文面上だと)あまりに的外れで幼稚(と感じてしまうよう)な低レベルなタイアップ論で露骨に反感を買うような発信を展開してしまい、これでは「炎上商法」「暴走」と断じられても仕方のない状況となってしまったと感じます。

要するに彼のSNSやnoteの投稿においては、「実際の作品や現場への理解が感じられないまま愚痴のような言葉が並んでいる」という印象を与えてしまった。外野の人間が作品の実態を見ないままぼやきを並べ、それを「批評」と呼んでいるように見えてしまった。少なくとも文章発信においては、そうした印象を与えてしまっています。これは結局のところ、ロキノン的批評と同じ過ちを繰り返しているに過ぎません。

このように、みの氏の文章での発信では動画での発信に比べて一定数の読者に誤解や違和感を与える書き方が続いてしまっている点を鑑みるに、みの氏はスキルとして文章執筆にあまり向いていないのではないか、と感じてしまいます。YouTuberならばYouTuberらしく、動画上で誠実な語りに専念しておいたほうがまだ、「音楽批評の建設的な活性化」という第一目的の面では有益な流れに出来たのではないのでしょうか。SNS上での短絡的な炎上商法に走ってしまった(ように見える)のは非常に残念です。


以前の記事でも指摘しましたが、みの氏は問題意識や入り口の着想そのものは悪くないことが多いのに、肝心の実践段階になると、的外れな方向に進んでしまう傾向があります。その実践内容の粗雑さや稚拙な言い回しに起因する批判が集中し、みの氏はそれを「取り組みや問題意識自体を全否定された」「誤解されている」というふうに(意図的か否かはわからないが)論点をズラした議題設定で釈明することで、自己正当化する。いつもこのパターンです。

みの氏が以前、「邦楽通史」の書籍を発表したときに巻き起こった炎上も、今思えばそのような性質を持っていたと思います。あの当時は、僕自身も「日本音楽史の通史記述」という全く同じような試みをまさに取り組もうと頑張っている最中だったこともあって、企画の立て付け自体を全面封殺するような批判意見・風潮には僕も強い憤りを感じ、みの氏をむしろ擁護する側に回っていましたが、根本的には今回の炎上と構造は同じだったのかもしれないな、と現在は感じています。

今回の問題は「音楽を音楽として語ろうとしたこと」ではありません。音楽を語ろうとしているはずなのに、実際にはその音楽の実態に寄り添えていなかったことです。しかし、その部分に対してのクレームを、みの氏は「外在的要素への言及の要求」とすり替えて、「自分は自律した音楽を守っているのだ」というふうに立場を強化してしまった。この点は、非常にタチの悪さを感じてしまった点です。

実際の問題点はそのような「音楽 vs アニメタイアップ」「内在的批評 vs 外在的批評」の二項対立の構図では説明できません。みの氏は「音楽自体を語っているから炎上した」のではなく、 「音楽自体を語れていないから炎上した」のです。


さらにもう一つ記事を書きました。


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