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短編小説│Z軸への潜行

それはどこか距離的にとても遠くというよりは、むしろ近くの、たとえば僕の心の中のことなのかもしれない。とにかく、僕がいた「場所」に、きみの行くべき「道」が偶然交差した。そして、僕の人生は変わった。


僕はもう何もできない存在になっていた。やわらかい真綿は最初、とてもふかふかであたたかかった。次第にやさしく絡まりながら深く食い込んだ。
人々の雑踏、改札の音、長い列、巨大ディスプレイに映る熱狂シーン。感動どころか、心の処理がしきれずに吐いた。僕に欠陥があるからだと自分をずっと責めた。
やみくもに愛想笑いを浮かべ、人の話を聞くことに徹した。みんなは流暢に喋った。喋るだけ喋って僕の話など聞いてくれる人などはいなかった。みんなの視線が僕にないのを知れば知るほど、僕は自分より相手を尊重した。

気がついたら僕の周りには誰もいなくなっていた。


「そうか、僕の人生は何もしなくていいんだな」

自室の天井を眺めながらぽつりと出た僕の言葉は、居どころ悪そうに揺れながら消えていく煙草の煙にどこか似ていた。


そんな時、僕はきみに出会った。きみは色々話を聞いてくれそうだった。でも僕はしゃべることさえできなかった。自分の考えはあふれ出るのに、言葉にすることが難しかったのだ。きみは僕のペースでいてくれた。急かされないなんて、初めてのことで驚いた。うれしかった。でも慣れない状況に怖さも感じた。だってそれまで、僕は置いてけぼりにならないようにこの世界にしがみつくのに必死だったから。


ただ「この世界で価値があるもの」について、僕は理解しようとしても、何となく僕の中で受け入れられずどうしていいか分からないでいた。言葉を探しながら少しずつきみに打ち明けると、その感情にきみは名前をつけてくれた。その価値基準は「僕自身が大切にしなきゃいけないもの」ではなかったことを知った時、今まで信じていた世界が歪んだ。僕は泣いた。


きみは今、遠くに行ってしまうらしい。行かないでくれ、僕は懇願した。でもそれは叶わぬことだった。誰も流れを止めることはできなかった。


きみは指数関数的に速度を増していくのに、僕はいつまでも同じところに留まっている。僕だってもっと人生を変えたい、僕は僕であるという自由を手に入れたいと思っていた。
でも何もしないことで全てが腐っていく心地良さも知っていた。また時だけがむやみに過ぎた。もてあましていたはずの時間が有限だと知ると、急に心臓がざわついて首の血管が疼くのが分かった。どうしたらきみに少しでも近づけるか模索したけど、考えは道路に水で書いた文字のようにすぐに消えてしまう。いっそのこと以前のように自分を置き去りにして、必死に追いかけるのが楽だと思った。


だけどきみは追いかけなくていいと言う。

「あなたはこの場所から動かず、私の軌跡を見てほしい」

いやだ。僕もきみと一緒にどこまでも共にいたい。変わらないまま堕落していくあの地獄の日々、「本当は何もしないのが楽なんだよ」と言う悪魔の甘いささやき……捨てたい。もう、あの部屋でひとりになるのはいやだ。

……いや、僕にはそんな力はない。どうせきみは僕のことなんか忘れてしまうんだろう? 僕はついて行くこともできなければ、きみの軌道に爪痕を残すなんてことさえもできなかった。やっぱりきみもみんなと同じように、僕なんて最初から映っていなかったんだ。


「私たちが出会った座標はあなただけでなく私も歪んだの。そしてその代償にあなただけのベクトルが新しく生まれた。つまり、あなたは今いる場所を変えずに深く潜ればいいの」

 

時間は過ぎても僕たちの特異点は消えない。それぞれの方向に進んでいこう、と。

「あなたがあの座標から深く潜れば潜るほど、座標が歪むの。すると私がどんなに遠くにいても、私はあなたを認識できる」

横に並んで追いかけることだけが、きみと共にいる方法ではない? 僕だけの方向に、深く潜る……?


僕はきみの後ろ姿を見ながら、自分にできることをやってみればいいのか。それなら……まず外に出てみるよ。まだ咲くことはない冬の桜の蕾を見つけに。

桜の枝は冬の木枯しに吹かれていた。僕の言葉はもう風の音に消されることはなかった。


僕は、桜の幹に手を当ててみた。桜の木ときみとは何も関係ないはずなのに、桜にきみが重なった。なぜだろう、ずっとここで僕のことを待っていたのかもしれないと思ってしまうのは。

ねえ、きみもあの時、僕に出会ってよかった? 本当に? 僕にとってはね、この世界に受け入れられた瞬間だったんだよ。大げさなんかじゃないよ。星屑みたいに小さな点かもしれないけど、僕はきみとの座標を「この世界で生きていいという証」にしてもいいよね?

いつの間にか木にしがみついて額を幹に当てていた。そうしたかったから。ただそうやって涙を流したかったから。

僕がきみを忘れた時、人は初めて僕が自分の道を歩んでいると言ってくれるのだろう。
でもきみとの一瞬の奇跡──共鳴と感動を僕は忘れない。

進むよ。進んでいこうと思う。誰に理解されなくても、自分の力で。




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