轟孝夫
轟孝夫の『存在と共同』において、ミットザイン(Mitsein、共存在)は、単に「他者と一緒にいること」を意味する概念ではない。それは、人間の存在そのものが本質的に共同的であることを示す存在論的構造である。ハイデガーは近代哲学のように、孤立した主体がまず存在し、その後に他者との関係を築くという考え方を退ける。むしろ、人間は最初から他者とともに世界の中に存在しており、共同性の内部でしか自己を形成できない存在なのである。
その理由は、人間が生きる「世界」が、単なる物理的空間ではなく、意味のネットワークとして成立しているからである。私たちは言語を用い、道具を使い、社会の慣習や歴史を前提として思考し、行動している。日本語を話すこと自体、自ら作り出した体系ではなく、他者から受け継いだ共同的な営みである。机を見ても、それは木材の塊ではなく、「勉強するための机」「仕事をするための机」という社会的意味を帯びて現れる。この意味世界そのものが共同的に成立している以上、現存在は世界内存在であると同時に、共存在でもある。
さらにハイデガーは、この共同性が日常生活において「世人(Das Man)」という形をとることを明らかにした。私たちは自分で考えているつもりでも、「世間ではこう言われている」「みんながそうしている」という匿名的な共同性の中で判断していることが多い。ミットザインは、人間が共同体によって支えられていることを示すと同時に、その共同体が人間を没個性的な存在へと埋没させる危険も示しているのである。
しかし、本来性とは共同体から離れて孤独に生きることではない。本来性とは、共同性の内部に生きながらも、その匿名性に流されず、自らの可能性を引き受けて存在することである。したがって、ミットザインは共同体の否定ではなく、共同体の中でいかに自己として存在するかという問いへとつながっていく。
轟孝夫の独自性は、このミットザインを『存在と時間』の概念として閉じるのではなく、1928年以降のハイデガーのメタ存在論へと接続し、共同体論へ発展させている点にある。存在とは、人間だけではなく、自然や歴史を含む世界全体が開示される出来事である。そして、人間の共同性もまた、人間どうしが勝手に作り出したものではない。私たちは言語や歴史、文化、慣習といった、すでに開かれている世界の中に生まれ、その世界を共有することで初めて他者と共同して生きることができる。つまり、共同体は個人の契約によって後から作られるものではなく、存在が開く共通の世界を人々が分かち合うことによって成立するのである。したがって、存在論は単なる抽象的な哲学ではなく、人間共同体の根拠を問う哲学へと展開していくのである。
このように轟は、ミットザインを近代哲学の主体中心主義を乗り越える鍵概念として位置づけている。デカルト以来の哲学では、「私」がまず存在し、その後に社会や共同体が形成されると考えられてきた。しかしハイデガーは逆に、共同性こそが先にあり、その共同性の内部で初めて個人が成立すると考える。この発想の転換こそがミットザインの本質であり、『存在と共同』全体を貫く中心的な思想なのである。
