大学教授

私が大学の世界で信じられなかったことの一つは、国際関係論を専門としながら、英語しかできない研究者が有名大学の教授になっていることだった。

国際関係論とは、少なくとも二国以上の関係を扱う学問である。日本の周辺だけを見ても、中国、韓国、ロシアがある。本気で東アジアの国際関係を研究するなら、中国語、韓国語、ロシア語のすべてができるのが理想だろう。少なくとも一つは、自由に運用できなければならない。

しかし、語学ができるというだけでは、まだ入口に立ったにすぎない。

外国の政治や社会について専門家として発言するなら、その国で最低三年は過ごすべきだと思う。しかも、大学や研究所に客員研究員として滞在するだけでは足りない。現地の組織に入り、職業を持ち、現地語で仕事をし、現地の人間と同じように責任を負う必要がある。

外国に住むことと、その社会の中で働くことは違う。

留学生や研究者には、受け入れ機関があり、外国人としての保護がある。言葉に不自由しても助けてもらえるし、失敗しても「外国人だから」で済まされることがある。しかし、職業を持てばそうはいかない。期限までに成果を出し、上司に説明し、同僚と調整し、取引相手と交渉し、自分の判断に責任を負わなければならない。

そこで初めて、その社会の本当の仕組みが見えてくる。

命令がどのように伝わるのか。責任は誰が取るのか。規則と現実の間にどれほど距離があるのか。学歴や家柄や人脈がどのように働くのか。役所がどのように動き、会社がどのように意思決定し、人々が何を恐れ、何を当然だと思っているのか。

こうしたことは、新聞を読んだだけでは分からない。論文を集めても分からない。インタビューを数回した程度でも分からない。自分がその仕組みの中に組み込まれ、失敗し、叱られ、交渉し、責任を引き受けて、ようやく分かる。

英語で書かれた論文だけを読み、英語圏の研究者が整理した中国やロシアの情報を使って、その国について論じる。それでは、英語圏を経由した中国像、英語圏を経由したロシア像を研究しているにすぎない。

現地語ができても、現地社会で働いた経験がなければ、外から眺めた理解であることに変わりはない。

これは国際関係論だけの問題ではない。日本の大学には、フランス文学を専門としながらフランス語を十分に運用できない研究者や、ドイツ文学を専門としながらドイツ語で意思疎通できない研究者がいる。

外国文学の教授が対象言語を使えることは、特殊な才能ではない。専門職としての最低条件である。ここで「読む能力と話す能力は別だ」と理解を示す必要はない。

私はドイツ文学を専攻し、ドイツ語を話した。大学教授でも研究者でもなく、一人の学生としてそれを身につけた。外国文学の教授が、その水準すら下回ってよいとは思わない。それでは順序が逆である。

だが、学問に対する厳しさは、その程度のものでもない。

語学ができるのは当然である。そのうえで、対象社会に入り、その言語で生活し、その言語で働き、その社会の規律と責任を自分の身に受けなければならない。外国について専門家として発言するなら、それくらいの経験は必要である。

戦前から戦後初期の技術者や作家を見ると、この最低条件さえ、現在よりはるかに厳しく考えられていたことが分かる。

『風立ちぬ』のモデルとなった堀越二郎は、ドイツ文学者ではない。三菱の航空技術者である。それでも欧州へ渡り、ドイツの航空機技術を直接学んだ。専門資料を読み、現地の技術者と意思疎通しなければ、仕事にならなかった。

三島由紀夫もドイツ文学者ではない。小説家である。それでもドイツ語を学び、ドイツ語の詩を読み、自分で訳した。専門外の作家が、外国文学に触れるために原語へ向き合っていたのである。

専門外の技術者や作家がそこまでしていた。

そう考えると、外国文学、地域研究、国際関係論を専門とする大学教授に、対象言語の運用能力を求めることは、厳しい要求ではない。あまりにも当然の要求である。そのうえで、現地で長期間生活し、現地社会の中で仕事をした経験を求めるべきなのである。

旅行したことがある。留学したことがある。学会に参加したことがある。それだけで、その国を知ったことにはならない。

外国社会を論じる資格は、その社会の中で責任を負った経験から生まれる。

仕事をすれば、その国の制度が自分に作用する。上司の命令に従い、部下や同僚に説明し、役所と交渉し、期限を守り、失敗の責任を取る。そこで初めて、制度は本の中の概念ではなく、生活を拘束する現実として理解される。

それを経験せずに外国を論じることはできる。しかし、それは旅行記や読書感想に近い。大学教授という肩書を与え、社会に対して専門的見解として語らせるべきものかどうかは、別の問題である。

私が問題にしているのは、外国文学や国際関係論だけに過大な要求をしているのではない。むしろ逆である。他の分野では当たり前に求められている世界水準の競争を、なぜ外国を研究対象とする分野だけ免除されるのか、ということである。

経済学では、一流大学の教授ともなれば、アメリカの大学や研究所でフェローや研究員として研究し、世界中の研究者と競争してきた人が少なくない。英語で論文を書き、セミナーで批判を受け、査読を通し、世界標準の評価にさらされる。

その水準に達した研究者なら、アメリカに残って職を得る可能性もある。それでも日本に戻り、日本の大学で研究と教育を担う。つまり、世界で通用する能力を持ちながら、あえて日本に帰ってくるのである。

そこまでして、ようやく一流大学の経済学教授になる。

そうした研究者と同じ大学に、対象言語すら十分に使えず、現地で働いた経験もなく、世界の研究者と直接競争したこともない外国文学や国際関係論の教授が並んでいるとすれば、それは明らかに不均衡である。

経済学では世界市場で能力を証明することが求められる。ところが文学部や地域研究では、国内の人事と肩書だけで専門家になれる。それでは、同じ「大学教授」という肩書の中に、まったく異なる基準が混在することになる。

外国文学や国際関係論だけが甘くてよい理由はない。

むしろ外国を研究対象とする以上、要求される基準は高くて当然である。対象言語を運用し、現地社会で働き、世界の研究者と直接議論し、そのすべてに耐えたうえで、ようやく専門家として発言する資格が生まれる。

もちろん、すべての研究者が同じ経歴を持つ必要はない。しかし、外国社会について断定的に語り、政策や世論に影響を与える立場に立つなら、自分が何を直接知り、何を文献から推測しているのかを厳密に区別すべきである。

語学もできない。現地で働いたこともない。世界の研究者と競争したこともない。それでも外国研究の教授として、その国の社会や政治を断定的に論じる。それを認めれば、学問の水準が下がるのは当然である。

専門家とは、知識を多く持つ人ではない。対象に接近するための訓練を受け、現実の中で自分の理解を試し、世界の基準によって評価され、その限界を知っている人である。

肩書を守るために基準を下げてはいけない。学問を守るためには、一線を引かなければならない。

語学は最低条件である。

現地で暮らし、その国の言葉で働き、その社会の中で責任を負い、世界の研究者と競争して初めて、外国について語るための発言権が生まれる。

学問とは、本来それほど厳しい世界である。

いいなと思ったら応援しよう!