映画『象は静かに座っている』とフー・ボー監督のこと
先日書いた記事で、2018年の中国映画『象は静かに座っている』について触れた。
この映画を観て強く思ったのは、今の日本からはこのような種類の傑作は生まれず、しかし中国ではつくられるのだ、ということだった。内容面においても予算面においても、日本から出てきてもおかしくないような作品であるにもかかわらず。そのことは自分にとって結構な衝撃だった。もっと中国のこと、特に80年代以降に生まれた世代による文化がどうなっているのかを知らないといけない、と思うようになったきっかけだ。
監督のフー・ボーは映画公開前の2017年に29歳という若さで自死したが、その存在と彼の残した一本の長編映画はその後も私の中に残り続けている。監督が私と同じ1988年の生まれであることも心のどこかで引っかかっているのかもしれない。
映画の制作背景や自死にいたった理由については、今まであえて調べたりはしていなかった。しかし先日、たまたま目に留まったリンク先の記事を見てその詳細を知り、強いショックを受けた。
この記事からは、繊細で孤独な芸術家、そして一人の人間としてのフー・ボーのリアルな姿が見えてくる。
詳しくはリンク先の記事を読んでいただきたいが、重い内容を含むものでもあるのでその点は少し注意を。
この記事は前編と後編に分かれており、前編では高校から大学までのフー・ボーが自身の表現を不器用に模索する様が、後編では『象は静かに座っている』の具体的で詳細な制作背景と自死に至る流れが書かれてある。
映画を見た印象からも、この監督は非常にナイーブな、周囲からすれば厄介とも感じられる性格の持ち主ではないかという想像がついたが、実際この記事で書かれていた彼の姿は私のイメージによく合っていた。何の成果もあげないうちから周囲の人間を小馬鹿にする尊大さ、それでいてSNSのフォロワー数を気にする姿。どこにでもいるような、痛々しいような自意識を抱えた、しかし人間らしい姿だ。
そしてこの記事における核心部だと思われるのが、彼の才能を見込んで『像は静かに座っている』のプロデュースを買って出た、ワン・シャオシュアイとの間に起きた軋轢だ。
ワンはもともとフーが尊敬していた第六世代の名監督であるが、撮影の進行、そして編集作業での意見の食い違いを繰り返す中で、その溝は深まり、ついには抜き差しならないものになっていく。
その一つが、ラストシーンの解釈の違いにある。ワンが自身の望む形での修正の指示をしたその内容に、同作のカメラマンはこのように述べている。
王は何を表現したいんだ?彼はこれで十分悲しみが表現されていると考えているようだけど、世の中にはより大きな悲しみがあることを知らないんだ。これが第六世代らしいリアリズムなのさ。まったくダサいね。
国家と個人との間に立ってぎりぎりの着地点を模索する中国の第六世代の監督の仕事には個人的に強い敬意を持っているが、一方で直に関わりを持つ国内の下の世代にはこのように見えるのだな、という強いリアリティを感じられるコメントである。表現の核心を、社会のあり方に置くのか、個人の内的世界に置くのか、という世代間のスタンスの違いがここに明確に表れている。
さらに最大の確執となったのが、商業的理由により、映画を本来の4時間の長尺から上映しやすい2時間にまとめるよう、ワン側が要請したことだ。
そのままの完成品に自信があった監督にとっては苦しい状況であるが、そんな彼を支えたのがアート映画の巨匠タル・ベーラだった。フー・ボーはタル・ベーラを自らの両親よりも大事に思っていたというが、プロデューサーに無許可で完成版フィルムを見せたところ、ベーラは大絶賛し、カットを要求したプロデューサーを強く批判したという。このことが監督とプロデューサーの方向性の違いをさらに決定的なものにした。
離れたところから俯瞰的に見ている自分にとって、記事にあるプロデューサー側のワンの言動は、社会知に長けた大人の行動とも映る(ワンの監督作である『在りし日の歌』という優れた作品を見たこともあるために、少し肩入れしてしまう気持ちがあるのかもしれない)。ワン自身もアート映画を観客に届けること、そして中国という苛烈で理不尽な社会で作品を完成させることの困難を身をもって経験してきたことからの、一連の助言でもあったのだろう。
しかし対立を繰り返す中で、ある時点から両者の関係は個人的な嫌悪を含んだものになっていったように思える。
記事内で流出したチャットが貼られており、その文面が非常に生々しい。
あの長尺版はまったくの駄作だ。分かるか?俺は監督で投資家、プロなんだよ。その俺がこれだけ心血注いだ作品がこんな駄作だなんて、俺の名がすたる。俺だってメンツが大事だ。恐ろしいのはおまえがこれほど身の程知らずだってことだ。表現だって?おまえの表現したがってる内容が薄っぺらだってことがバレないとでも思ってるのか?それほど他人をアホだと思ってるのか?世界がクソだって罵ってるだけのおまえの表現が、失笑ものだってことくらい誰でもわかるぞ。まあ、俺も投資家との面会で忙しいし、特に意見も無いよ。もう手の施しようも無いしな。お偉い方々がおまえの長尺版をお褒めなら、彼らに金を出してもらえ、俺は退散するよ。
あと、おまえの錯乱ぶりについてだが、ホント医者に行くことをお勧めするよ。既に病気の域だぞ。注意しとけ。
そして『象は静かに座っている』の完成は一旦棚上げされ、また別の作品の企画が進む中、監督は命を絶った。
『象は静かに座っている』という作品が持つ決定的な重さは、もしここで彼がそうした極端な行為に出なかったら、おそらく今見る形であの映画が世に出ることはなかっただろう、というところにある。我々が今アクセスできる4時間の無編集版は、死後に作品の権利が監督の家族に無償で譲渡された結果なのだ。そして本作は公開され、世界的な評価を獲得した。世界をクソだと罵るだけの作品が成しえた快挙である。この事実について、簡単に何かを言うことはできない。
この記事のコメントに、
『象は静かに座っている』を観て、僕にはどうしても他人事の映画とは思えませんでした。
とあったが、自分もまったく同感だ。この映画が描く閉塞感や絶望感、そしてその中にある詩的な美は、ある特定の国の特定の時代、というものを越えて多くの人の心に届くと思う。太宰治の小説がそうであるように。監督が生きていたら、このあとどのような作品を撮っていたのだろう?
ところでこの映画を彩る名曲「坏孩子的天空」は、北野武の『キッズ・リターン』の中国語表記である。(話はそれるが、音楽を担当した花伦の、そのバンド名は「ちびまる子ちゃん」の花輪くんからとっている、というのも面白い)
実際『象は静かに座っている』は、90年代の北野作品が持っていたような、あの狂気すれすれの詩情を受け継いでいると思う。フー・ボー監督が北野映画を好んでいたかは知らないが、こうやって別の国、別の時代で自分の好きな作品の精神に触れられることに感慨深さをおぼえる。
この映画の登場人物たちが目指した場所、満州里にいつか行ってみたいなあと思う。それとも、あえて行くことのないままに、映画の詩的なイメージの内に留めておくことの方がいいのだろうか?
