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『闇の中国語入門』を読みながら、私が中国語を学ぶ理由を思う

先日、半年間にわたるNHKラジオの『まいにち中国語』の受講を終えた。ごく基本的なものではあるが、ほんの少しは中国語を理解できるようになったことがうれしい。また中華圏へ旅行に行く日が楽しみだ。

次なる学習に何かいいものはないかと探し、今回手にとったのが、ちくま新書の『闇の中国語入門』だ。

この本の「はじめに」から、まず面白い。

著者の楊駿驍が大学で中国語を教えることになり、その参考にするために大量の中国語の教科書を読んだところ、その会話例に出てくる人物や話題があまりに「ポジティブ」なものばかりで、強い違和感を覚えたという。

正直、私はこのような世界に生きたことがありません。
(中略)
外国語を学習することは世界を広げることであるとよく言われますが、これで本当に世界が広がるかどうか、そこに多様性があるかどうか、疑問を感じざるをえませんでした。
(中略)
時には異質な者同士をつなげ、理解し合うきっかけとなるのは、仲良くなりたいという意志、理解しようとする心構え、または知的な好奇心といったポジティブなものではなく、むしろ悩み、恨み、悲しみ、不確実さ、災厄、恐怖などのネガティブなものに対する共感だと考えているのです。

著者のこうした考え方に私は共感する。というのも、そもそも私が現代中国に関心を持ち、少しでも理解を深めるために中国語を勉強しようと思ったのは、ある種の「ネガティブ」な表現を突き詰めた作品と出会ったことがきっかけだったからだ。

私の知らなかった現代中国を描く、新世代の表現者たち

その作品は、2019年に日本で公開された中国映画『象は静かに座っている』だ。

この映画を見る以前から、いわゆる第五世代(文革以降の世代)のチャン・イーモウや、第六世代(改革開放以降の世代)のジャ・ジャンクーらの監督の中国映画はよく見ていたし、実際に中国を旅する中でその映画の現場にも足を運んだりもした。(『単騎、千里を走る。』の麗江など)

だがこの『象は静かに座っている』は、明らかに私がそれまで触れてきた中国映画とは異なるものだった。それは異国というよりも、むしろ自分が生きていて感じる心象に非常に近いものだった。というか、それが強く増幅されたものだった。

映画冒頭のコーマック・マッカーシーの引用、そして劇伴を手掛けるhualun(花伦)の胸がざわつくような不穏なポストロックサウンド、どこにも行けない地方都市の閉塞感。PM2.5も混じったような、日の射さないグレーの陰鬱な世界を4時間という長尺を通して旅するような、重苦しくも詩的な映画体験だった。私が10代・20代の間に同時代の日本映画で見たいと思いながら見れなかった映画世界がそこにあった。

このたぐいまれな感性を持ったフー・ボー監督は、自作映画の編集への介入に心を痛めてか、映画公開を待たずに29歳の若さで自殺してしまった。
そのようなバックグラウンドも含め、この映画には「ネガティブ」な要素がとても多いと言える。でもその強烈なネガティブさを通じて、自分は初めてちゃんと現代中国について知りたい、という気持ちを持つにいたったのだ。

音楽を手掛けたhualunの拠点であり、アングラのパンクカルチャーが根付いているという武漢という土地に興味を持ち、今度はここに行ってみようかと思った矢先にその武漢からパンデミックが起こった。

そして旅行がお預けになる間、さまざまな中国映画、小説に触れた。ビー・ガン、ディアオ・イーナン、ロウ・イエらの優れた作品群、そしてようやく見られたチアン・ウェンの『太陽の少年』。小説では郝景芳の『1984年に生まれて』、そして劉慈欣、などなど。

それらの冴えわたった表現から伝わってくる中国像は、日々のニュースを通してうかがえるそれとはまったく異なるものだった。フー・ボーから始まった現代中国探求には、まだまだ豊かな世界がいくらでも広がっていそうだった。

そして私は『闇の中国語入門』を手に取ったのだ。

ネガティブの乱打による、閉塞状況の一点突破

冒頭にも記したように、この本が掲げるのは一般の語学教科書にあるような前向きで健全な成長というよりは、後ろ向きな内省や停滞からの、人間観の成熟だ。

「心酸(悲しみがこみ上げる)」「孤单(ひとりぼっちである)」「吃醋(やきもちを焼く)」「冷漠(冷たく無関心である)」「娇气(ひ弱である)」…などなど、目次にずらりと並ぶネガティブ・ワードの羅列。なるほど、まず間違いなくNHKラジオでは習わないような単語ばかりだ。そしてそれらのワードに付された著者の小エッセイからは、競争社会の苦しさ、人間関係の悩み、将来への焦り、実存的不安など、様々な「闇」を抱える人間の実像がまざまざと浮かび上がってくる。

ここには『絶望名人カフカの人生論』などの、頭木弘樹の一連の絶望本に近い思想がある。自身が陥った閉塞状況を、ネガティブの乱打により一点突破しようとするような、これはがむしゃらなあがき(挣扎)なのである。

そして「挣扎」とは、急激な変化を余儀なくされる20世紀初頭の中国人の苦しい立場を表す上で、魯迅が用いた言葉でもあるらしい。その同じ言葉が、現代の中国のQ&Aサイトではこのように用いられる。

人生一直如此艰难,为什么还要挣扎?
人生がずっとこんなにも苦しくつらいなら、なぜもがきつづけなければならないのだろうか?

因为挣扎挣扎着,你会找到你需要前进的方向。
なぜならあがくうちに、自分の進むべき方向が見えてくるからです。

AI翻訳によってSNSなどで言語の壁が壊れつつある今、「ネガティブ」による他者の発見、そして異文化理解はより一般化し、大きな影響を持つようになっていくのかもしれない。そこから先は想像もできない世界だ。

今後も、勉強もかねて中国関連の記事をいろいろ書いていけたらと思う。

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