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ラスト・ドロップ(最後の飴 )〜90歳のおばあちゃんが遺した錆びた缶と、私を縛る呪い〜

自分の人生を決めるのが、怖くてたまらないあなたへ。

2026年、病室で対峙する90歳の祖母と18歳の孫娘が、90年の時を超えて「生きる意志」を繋ぎ直す、魂の和解の物語です。

全5回の連載形式でお届けします。

第1話:錆びた缶と呪いの真実

白く無機質な病室には、規則的な電子音だけが響いていた。

人工的な風を送るエアコンの音が、微かにシーツを揺らす。ベッドに横たわる祖母・ハルは、驚くほど小さく、まるで子供に戻ってしまったかのようだった。

「お前のためを思って言っているんだ」

かつて家庭を支配していたあの厳格な威厳は、もうどこにもない。ただ白髪を枕に散らし、深い皺を刻んだ顔で静かに眠っている。

(おばあちゃんをこんな風にしたのは、私だ……)

孫娘の千尋(ちひろ)は、パイプ椅子に腰掛けたまま、自分の膝をきつく握りしめた。

今春、大学進学を控えた千尋は、人生で初めてハルに反抗した。東京の大学へ行き、自分で決めた部屋で一人暮らしをしたい——そう告げた瞬間、ハルは激高し、**「思い込みは命取りだよ!」**と叫んだ。

その心労が引き金となったのか、ハルは急激に体調を崩し、そのまま入院してしまったのだ。

「自分で決める」という選択は、そんなに悪いことなのだろうか。おばあちゃんの言う通り、私のわがままがこの状況を招いたのだろうか。重い自責の念が、千尋の胸を塞ぐ。

手持ち無沙汰さに耐えかね、千尋は隅に置かれたハルの荷物を整理し始めた。 着替えやタオルを整えていると、カバンの底に、ずしりと重い違和感があった。

引き出してみると、それは古びた小さな鉄の缶だった。全体が赤茶色の錆に覆われ、触れると指先がカサカサと汚れる。

蓋を回そうとすると、金属の擦れ合う嫌な音が病室に響いた。力を込めると、不意に小気味よい音を立てて蓋が開く。

缶の底に転がっていたのは、すっかり溶けて固まった、濃い茶色い飴の塊だった。かつては甘かったのだろうが、今は金属の錆と混ざり合い、ひどく泥くさい。

そしてその横に、小さく折り畳まれた一枚の紙切れがあった。 黄ばみ、触れれば千切れてしまいそうなメモ用紙。そこには消え入りそうな鉛筆の跡で、昭和二十一年の日付と、千尋の知らない名前が書かれていた。

「……千尋。それを見つけたのかい」

かすれた声に、千尋は肩を震わせた。 ベッドの上のハルが、うっすらと目を開けていた。かつての鋭さはなく、ただじっと、千尋の手元を見つめている。

「おばあちゃん、起きて大丈夫? 看護師さんを……」 「いいんだよ。それより……その缶のこと、話しておかなきゃね」

ハルは弱々しく息を吐き出し、遠い、遠い空を見つめるように視線を彷徨わせた。その瞳は、2026年の白い病室を通り抜け、八十年前のあの焼け野原を見つめているようだった。

「それはね、私の妹の形見だよ」 「妹……?」

千尋は息を呑んだ。おばあちゃんに妹がいたなんて、一度も聞いたことがなかった。

「昭和二十一年。私は十歳だった」

ハルの声は、乾いた秋の葉が擦れ合うように静かだった。

「戦争が終わった翌年さ。周りはどこを見ても、真っ黒に焦げた焼け野原。家もなくて、食べるものなんて何もなかった。毎日毎日、お腹が空いて、妹はいつも泣いていたよ。そんな時、本当に奇跡みたいに、配給で甘い飴が手に入ったんだ」

ハルは一度目を閉じ、あの日、手のひらに乗った一粒の光を思い出すように、指先を微かに動かした。

「嬉しくてね、すぐにでも妹の口に入れてやりたかった。でもね、私は**『思い込んで』**しまったんだよ」 「思い込んだ……?」

千尋が問い返すと、ハルの瞳に、絞り出すような苦悶の光が走った。

「そうさ。当時、焼け跡の大人たちはみんな言っていたんだ。**『飢え死にしかけている人間に、急にそんな強い甘みや食べ物を与えたら、弱りきった胃腸が受け付けずに激しい下痢を起こす。そうなったら一発で死んじまうぞ』**ってね。お腹を壊したら、もう二度と立ち上がれないって。それが当時の、私たちの『常識』だった」

ハルの乾いた手が、シーツの上でぎゅっと握りしめられる。

「だから私は、あの子を死なせたくない一心で、頑なに信じ込んでしまった。**『今すぐ食べさせてはいけない。明日、もし少しでもお粥が手に入ったら、その後に、薬のように一滴ずつ舐めさせよう。あの子を生かすために、今は絶対に隠しておかなきゃいけない』**ってね。

妹がどれほど今、その飴を欲しがっているか分かっていたのに、私はその生身の声を、ただの子供のわがままだと切り捨てた。私の『正しい判断』で、あの子を無理やり抑え込んで、錆びた缶の底に飴を隠し通したんだ。……だけどね」

ハルの瞳から、一筋の涙が、深い皺を伝ってこぼれ落ちた。

「お粥なんて、明日になっても手に入らなかった。そしてあの子は、その飴の甘さを一度も知ることもなく、冷たくなってしまったんだよ。あの子の名前がね、そのメモに書いてある」

千尋は手元の錆びた缶を見つめた。溶けて固まった茶色い塊が、急に痛々しいものに見えてくる。

「良かれと思った私の『正しいはずの思い込み』が、世界で一番大切なあの子から、最後の喜びを奪って殺したんだ。あの日から八十年、私は自分が許せなかった。自分で決めることが、何かを正しく判断しようとすることが、恐ろしくてたまらなくなったんだよ

ハルはカサカサに乾いた手を伸ばし、千尋の手を握ろうとした。その力は驚くほど弱かった。

「お前が決めるのを、私がいつも頭ごなしに怒ったのはね、千尋……お前が間違った判断をして不幸になるのが、死ぬほど怖かったからなんだ。私が代わりに正しいレールを敷いてあげなきゃ、お前もあの時の妹のように、私のせいで失われてしまうんじゃないかって、毎日怯えていたんだよ。お前を守りたい一心で、私はまた、自分の意見を押し付けてしまっていたんだね……」

千尋は絶句した。喉の奥に、じわりと苦いものがこみ上げてくる。

おばあちゃんの「思い込みは命取り」というあの厳格な口癖は、自分を縛るための悪意などではなかった。

戦後という地獄の底で、自分の決断を信じられなくなった少女が、八十年間抱え続けてきた「妹への懺悔」と、千尋への「狂おしいほどの祈り」だったのだ。

千尋は、甘さを失って固まった飴の缶を握りしめたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。

おばあちゃんの悲しみの深さに、胸が張り裂けそうだった。

📖 第2話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n4473482b1ae4
🌐 英語版 :https://note.com/ttukumoo/n/n86ee0cee0d09     

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。💗  

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