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ラスト・ドロップ(最後の飴)〜スマホのない東京で、おばあちゃんが戦った〜

【前回のあらすじ】東京での大学進学と一人暮らしを前に、おばあちゃんのハルと激しく衝突してしまった千尋。 心労から倒れて入院したハルの病室で、千尋は錆びついた鉄の缶を見つける。そこに入っていたのは、昭和二十一年の焼け跡の飢えの中、正しいと信じた判断(思い込み)のせいで、十歳のハルが妹に与えられないまま死なせてしまった「泥のように苦い飴」だった。 おばあちゃんを縛っていた呪いの言葉「思い込みは命取り」の裏にある悲しい真実を知った千尋は、言葉を失い立ち尽くす——。

第2話:濁流の東京と、揺れる足元

病室の空気は、おばあちゃん、ハルが語った「昭和二十一年」の重みで満たされていた。

千尋は、錆びた鉄の缶を両手で包み込んだまま、声を絞り出す。

「ごめんなさい、おばあちゃん。私……そんなことも知らずに、おばあちゃんが私を縛り付けたいだけなんだって、自分勝手に思い込んで、反発して……」

ハルは白髪交じりの頭をゆっくりと横に振った。その顔には、千尋を責める色などひとかけらもない。

「いいんだよ、千尋。お前は何も悪くない。おばあちゃんが、自分の心の傷をお前に押し付けていただけなんだ。お前が『東京に行く』と言い出したとき、私の中のあの錆びた缶が、またけたたましく音を立てて鳴り響いたんだよ。……東京なんて、恐ろしいところだからね」

ハルのその言葉に、千尋は喉の奥で、小さく反発の息を漏らした。

(まただ、とおばあちゃんは東京を怖がらせようとする)

千尋の胸には、東京での生活に対する、きらきらとした、根拠のない自信が確かにあった。

憧れの街。おしゃれなカフェ。自由な一人暮らし。スマホがあれば、乗る電車も、美味しいお店も、家賃の安いアパートの探し方だって、何でも調べられる。

バイトをして、自分の好きな服を着て、誰にも文句を言われずに生きていく。

「自分で決めて、自立する」ということは、そんなに大ごとではなく、ただもっと自由で、思い通りになる世界へ飛び出すことだと思っていた。

「大丈夫だよ、おばあちゃん。私、もう子供じゃないんだから」

千尋は少し胸を張り、おばあちゃんを安心させるように、あるいは自分の全能感を誇示するように言った。

「東京のこと、ネットでもたくさん調べてるし、バイトの候補だっていくつか見つけてある。友達だって向こうに何人か行くし、そんなに大げさに心配しなくても、ちゃんと一人でやっていけるよ」

ベッドのハルは、千尋のそんな「強がり」と、その裏にある「無知ゆえの全能感」を、すべて見透かしたように、ただ静かに、慈しむような目で見つめた。

「そうだね。お前はもう大きい。何でも自分で調べられる。……でもね、千尋。調べればわかることなんて、本当の生きることの半分にも満たないんだよ」

「え……?」

「おばあちゃんもね、同じだった。自分は何でもできる、自分で決めて、この街で生きていくんだって、根拠のない自信だけを抱えて、東京へ出たんだ。……お前のお母ちゃん——私の娘を産んだばかりの、昭和三十年代のことさ」

ハルの瞳の奥に、かつての東京の喧騒が蘇る。

「あの頃の東京はね、今の綺麗な東京とは全然違っていたよ。毎日が工事のすさまじい爆音と砂埃で満ちていた。昨日まであったバラックの空き地が、次の日には巨大なコンクリートのビルになって、昭和三十九年のオリンピックに向けて、空の上に高速道路が、地面の下には地下鉄が、まるで生き物のようにうごめきながら伸びていった。

みんなが『もっと豊かになるんだ』と狂ったように、取り憑かれたように前だけを見て、ものすごい速さで坂道を駆け上がっていた」

ハルは一度、深く息を吸い込んだ。

「そんな濁流のような都会の片隅で、おばあちゃんは、お前のお母ちゃんを抱えて一人きりだった。戦後の焼け野原から命だけは繋いだけれど、お金もない、頼れる親もいない。お腹をすかせた幼い我が子を目の前にして、毎日が『決断』の連続だったよ」

ハルは、カサカサに乾いた自分の手のひらを見つめた。

「どの闇市に行けば、傷んでいない、この子に食べさせられる米が手に入るか。どれだけ働けば、この泥水のような東京で、この子を病気にさせずに育てられるか。……スマホなんてない。誰も答えを教えてくれない。間違えれば、今度こそこの小さな命が消えてしまう。

おばあちゃんが自分の頭で考えて、決めて、実行しなければならなかった。昭和二十一年の、あの妹の冷たい体が、いつも私の頭をよぎりながらね」

千尋は、言葉を失った。

おばあちゃんが語る「自立」と、自分の思い描いていた「自立」の、あまりの解像度の違いに、背筋がすっと寒くなった。

自分が考えていた東京での一人暮らしは、ただの「おしゃれなおままごと」に過ぎなかったのではないか。

スマホの画面に映る綺麗な東京の裏側にある、本当の「生きることの過酷さ」を、自分は何も理解していなかった。

誰にも頼らず、自分の判断一つに、自分や、誰かの命の全責任を負うこと。

それが「自分で決めて生きていく」ということの、本当の重さだったのだ。

千尋の胸を満たしていた、あの根拠のない自信が、砂の城のように足元から崩れていく。

「……私、本当は、何もわかってなかった。自分で決めるなんて、簡単に言ってたけど……本当の東京も、生きることも、私、何も理解してなかった」

千尋の強がりが剥がれ落ち、震える声が漏れた。

ハルは、そんな千尋の手を、その皺だらけの温もりで包み返した。

「怖くなったかい、千尋」 「……うん。怖い。おばあちゃんの話を聞いたら、私、東京で一人でやっていけるなんて、言えなくなっちゃった」

「それでいいんだよ」

ハルは、柔らかく微笑んだ。

「怖さを知らないうちは、ただの『思い込み』さ。本当の怖さを知って、自分の足元がどれほど頼りないかを知って、それでも進もうとすること。それが本当の『決断』なんだよ。

お前の中にはね、あの激動の東京を、怯えながら、迷いながらも、自分で決めて、自分の足で踏みしめて生き抜いた、おばあちゃんの血が流れているんだ。

怖がったままで、迷ったままでいい。その怖さを忘れないまま、自分の決断を信じて、最初の一歩を踏み出してごらん」

おばあちゃんの言葉が、千尋の震える心の底に、静かで確固たる熱を灯していく。

自分の無知を知り、本当の「畏れ」を知った千尋の足元に、今、本物の「覚悟」が芽生えようとしていた。  

📖 第3話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/nef961e6cc8b2 
📖第1話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n90d933e330ff 
🌐英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n16f2e2fe9e66 

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。💗

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