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六道の辻の犬釘

エピローグ

夜明けの走行音:不完全な選択と、手渡されたバトン

【エピローグのあらすじ】 おばあちゃんの壮絶な過去語りが終わり、静まり返る病室。 90歳の祖母・ハルが背負い続けてきた「弱さと悔恨の記憶」は、現代の迷路で立ち往生していた25歳の孫・千尋の心を激しく揺さぶります。 「絶対に失敗したくない」とスマホの画面に正解を求め、傷つくことを恐れて一歩も動けずにいた千尋。 お互いの不完全さを受け入れ、泥だらけのまま昭和の激動を生き抜いた祖父母の生き様は、千尋に「選択する勇気」を与えます。 夕暮れから夜へと移り変わる京都の街で、千尋が踏み出した最初の一歩とは――。


「……神様も仏様も、私たちの弱さを知ってはる。完璧じゃなくていい。私たちは傷だらけのまま、二人で生きていこう」

ハルが語り終えたとき、病室の窓の外は、すっかり濃紺の夜の闇に包まれていた。 遠くで街灯の明かりがぽつぽつと灯り、ガラス窓にハルと千尋の姿を静かに映し出している。

千尋はしばらく言葉を失い、自分の膝の上に重ねられたハルの、小さくしわがれた手を見つめていた。

おばあちゃんの細い指先、浮き出た血管、触れると伝わってくる、かすかだけれど温かい拍動。 この手が、かつてあの薄暗い道具屋で、震えるおじいちゃんの手を包み込み、あの恐ろしい錆びた犬釘を一緒に新聞紙で包んだのだ。 そして、この手が、己の浅ましい恐れから神仏の供養を裏切り、他者を巻き込んでしまったという「消えない罪の記憶」を、八十年近くも静かに抱え続けてきたのだ。

「千尋」

ハルが、布団の中から千尋の顔を優しく覗き込んだ。

「静かになってしもて、どうしたん。おばあちゃんの昔話、ちょっと怖すぎたか?」

「ううん……」

千尋は首を横に振ったが、声がかすれてうまく出なかった。 胸の奥から、言葉にならない感情がせり上がってきて、喉の奥をきゅっと締め付ける。

千尋は、ベッドの脇に放り出されたままの自分のスマートフォンに目を落とした。 暗転した黒い画面。 そこに反射して映る自分の顔は、ひどく頼りなく、怯えているように見えた。

――失敗したくない。 ――どっちの道が、私にとって「100点満点」の正解なの?

さっきまで、千尋の頭の中はその疑問だけで一杯だった。 転職先を選ぶこと。自分のこれからのキャリアを決めること。 今の時代,ネットを開けば「失敗しないための転職術」「後悔しないキャリア選択」なんていう言葉が溢れている。 SNSを開けば、自分と同世代の友人たちが、まるで最初から完璧な一本道を迷いなく歩んでいるかのように、眩しい成功の記録を競い合っている。

それを見るたびに、千尋は息が詰まりそうになっていた。

一度でも間違った選択をしたら、自分は「負け組」になってしまうのではないか。 取り返しのつかないドブに落ちて、二度と這い上がれなくなるのではないか。 まるで、自分の人生のすべてが、一歩の踏み外しで粉々に砕け散る薄氷の上のキャッチボールのように思えて、怖くて、怖くて、指先一つ動かせなくなっていた。

けれど。

「おばあちゃん……」

千尋は、消え入りそうな声で呟いた。

「私ね、自分が情けなくて、恥ずかしいよ。 おばあちゃんやおじいちゃんが、生きてるか死んでるかの瀬戸際で、銃口を向けられながら、それでも必死に、泥だらけになってお互いを守ろうとしていたのに……。 私はただ、どっちの会社に行けば『コスパが良いか』とか、『どっちがちょっと楽か』なんてことばっかり気にして……。 スマホの画面の、どこの誰が書いたかもわからないクチコミを何時間も眺めて、怖がって、ただただ立ち往生してた」

千尋の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、ハルの手の甲を濡らした。

「傷つくのが、怖かったの。 間違えて、後悔するのが、死ぬほど怖かった。 手遅れになるのが怖くて、情報の十字路の真ん中で、進むことも退くこともできなくなってた。 でも、そんなの……そんなの、おばあちゃんたちの抱えてきた重さに比べたら、本当にちっぽけで、贅沢な悩みだよね」

ハルは、千尋が落とした涙を、カサついた親指の腹でそっと拭った。 その手元は驚くほど優しく、そして包み込むように温かい。

「千尋。ちっぽけな悩みなんて、この世にはあらへんよ。 あんたにとっては、今の迷いが、人生のすべて。それは当たり前のことや。 ……でもな、おばあちゃんが言いたいのは一つだけや」

ハルは、千尋の目をまっすぐに見つめた。 その瞳の奥には、激動の昭和を、戦後の焼け野原を、道具屋として必死に生き抜いた歳月を、そしてあの六道の辻の悪夢を潜り抜けてきた、底知れない「生(せい)」の力が宿っていた。

「私たちはな、お寺への供養を裏切ってしもた。 仏様を最後の最後まで信じ抜くことができへんかった、本当に浅ましくて、弱い人間や。 おじいちゃんも、おばあちゃんも、完璧なヒーローなんかやあらへん。 私たちは、間違いだらけの選択をして、死ぬまで消えない傷と罪悪感を背負って生きてきた」

ハルは、一度言葉を区切り、病室の天井を見上げた。 そこには、悔恨と、それ以上に深い、静かな赦しが満ちていた。

「でもな、千尋。 神様や仏様はな、そうやって傷を負うたまま、泥にまみれたまま、それでも傷だらけで生きようとする私たちを、ずっと見捨てずにいてくれはった。 朝陽はな、完璧に正しい人間だけに照るんと違う。 間違えて、逃げて、泣きじゃくっている弱虫のところにも、等しく、温かく差し込んでくるんや。 人はな、どれだけ間違えても、逃げ出したとしても……生きてさえいれば、何度でもやり直せる。何度でも、歩き出せるのよ」

「……何度でも、歩き出せる?」

「そうや。一歩間違えたら人生終わり、なんてな、そんなヤワなもんやない。 おじいちゃんもおばあちゃんも、あの朝、お互いの弱さをぜんぶ分け合って、半分ずつ背負って歩き始めた。 完璧な正解なんて、この世のどこを探してもあらへん。 そやからな、千尋。 スマホを閉じて、あんた自身の足で、泥を踏みしめなさい。 間違えたってええ。そこからあんたの道が、新しく始まるんやから」

ハルの言葉が、千尋の胸の奥の、一番冷え切っていた場所に、じわりと温かい灯火を灯していくようだった。

絶対に失敗しない「正解」なんて、最初からどこにもなかったのだ。 もし間違えて、ドブに落ちて、泥だらけになったとしても、その泥を一緒に背負ってくれる誰かがいる。 おばあちゃんたちが、そうして不完全なまま寄り添い合って生きてきたように。

千尋は、ゆっくりと息を吐き出した。 胸を締め付けていたあの息苦しさが、嘘のように消えていく。

「……うん。おばあちゃん。私、もうスマホを見るの、やめる。ううん、見るのをやめるっていうか……これに答えを教えてもらおうとするのを、やめる。これからは、スマホを持ってたとしても、私はもう迷わない。自分の足で進んで、自分で決めるよ」

千尋は、ベッドの上のスマートフォンを手に取り、そっとバッグの奥深くへとしまい込んだ。 画面が消えたその暗いガラスには、さっきまでの怯えた姿ではなく、少しだけ前を向いた自分の瞳が映っているような気がした。

千尋は、ハルの手をもう一度、今度はしっかりと、力強く握りしめた。

「自分で決めるよ。どっちに行っても、きっと大変だけど……間違えたら、その時は泥だらけになって、また歩き直す。私、おばあちゃんとおじいちゃんの孫だもんね」

ハルは、満足そうに目を細め、ふふっと少女のように笑った。

「そうや。あんたは、あの見栄っ張りで優しかった源蔵さんの孫や。 間違えることの何が怖いの。思いっきり、迷いながら進みなさい」

病室を出ると、廊下には夜の静けさが満ちていた。 千尋は病院の玄関を出て、京都の夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。

冷たい秋の風が、火照った頬に心地よい。

暗い夜空を見上げると、六道の辻の方向には、いにしえのあの世とこの世を繋ぐ闇が、今も静かに横たわっている。 けれど、もう千尋の心に恐怖はなかった。

駅へと向かって歩き出す千尋の耳に、どこからか遠く、けれどはっきりと、力強い音が響いてきた。

――ガタゴト、ガタゴト、ガタゴト……。

それはかつて、おばあちゃんたちを恐怖に陥れた怨霊の地鳴りではない。 暗い夜を切り裂き、新しき朝(あした)へと向かって力強くレールをひた走る、夜明けの走行音。 不完全な人間たちの、弱さと、愛と、生き抜く意思を乗せて、未来へと進み続ける列車の響きだった。

千尋は小さく微笑み、バッグの紐をきゅっと握りしめて、夜の京都の街へと力強く一歩を踏み出した。

(『六道の辻の犬釘』 全四話・エピローグ 完)

📖第4話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n342c8058c0a9                           
📖 第1話:https://note.com/juicy_laelia8513/n/n194fc5c77d7c                                 
🌐 英語版:https://note.com/ttukumoo/n/n97f7db091415  

最後までお読みいただき、ありがとうございます。💗

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