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「現実性こそ神である」入不二哲学における神

入不二基義の哲学に熱を入れ始めたときの感覚を、見事に言い表してくれている言葉がある。作家の金子薫さんが『現実性の問題』を読んだ感想として記した次のような投稿だ。

スピノザを長く読んできた私もまた、この感覚に深く頷かされる。

入不二の「現実性」に触れたとき、まるでスピノザの「実体」が現代的に姿を変えて、再び私の前に立ち現れたように感じたからである。

今回は、この『現実性の問題』における核心的なテーゼ――「現実性こそ神である」という一文を取り上げてみたい。

このテーゼが登場するのは、『現実性の問題』の「おわりに 現実性こそ神である」の章である。もちろん、本書には、そこに至るまでのさまざまな論考が収められており、それらを追うことで最終的なテーゼの意味はより厚みを帯びてくる。

しかし、私はこの「おわりに」から読み始めてもよいと思う。それは同時に「はじまり」でもあり、入不二哲学の特性はまさにその円環的な体系にこそあるからだ。

実際、『現実性の問題』の冒頭において提示されるのは「円環モデル」であり(第1章「円環モデルによる概観」)、本書自体が円環を成す構造を明示している。

さて、この「おわりに」の章では、入不二が学生時代に出会ったアンセルムス体験が言及される。アンセルムスについて私自身は詳しく知らないが、その名は「神の存在証明」で広く知られている。

彼は中世ヨーロッパにおける神学者であり哲学者で、理性によって「神」を把握しようと試みた最初期の人物のひとりである。そのため「スコラ学の父」とも呼ばれている。

入不二は高校三年生のとき(!)、このアンセルムスの『プロスロギオン』を通じて神の存在証明の議論に出会った。それは、それまで文学や思想、宗教の書物に登場する「神」の話とはまったく異なり、「何かが直に迫ってくるような感触」があったのだという。

アンセルムスは、神を「それより大きなものは何も考えることができない何か(aliquid guo nihilmaius cogitari possit)と言っていた。その「何か」についての思考の渦に巻き込まれるような感じがした。「より大きい」というのは、単なる量的な大きさの話ではなく、「全体は部分より大きい」「存在する度合いがより大きい」というような意味らしいことが分かった。つまり、「実際に存在するものは、ただ思考されているだけのものよりも、実際に存在している分だけ、より大きい」ということのようだった。その点が分かると、不思議な感じがした。
※強調引用者

『現実性の問題』入不二基義(筑摩書房)P368


高校生入不二のこの不思議な感覚は、やがて波動のようにして彼の思考を揺さぶるものとなる。その波動の「動き」そのものに、入不二は巻き込まれていくのである。その揺さぶりとは、一体何であったのか。

神とは、存在の度合いにおいてそれ以上のものが考えられない「何か」だとすると、それはすなわち「最高度の存在を有する何か」ということになる。

しかし、そう「考えた」からといって、神が実際に存在することにはならない。ここでアンセルムスが示すのは、「ただ思考されているもの」と「実際に存在するもの」とのあいだにある落差であり、彼はその落差を「より大きい」と呼んだのである。

ところが、この落差ゆえに、その論理を受け入れるならば、「実際に存在すること」は「ただ思考されること」よりも確かに「より大きい」と定義できてしまう。すると、神の定義――「それより大きなものは何も考えることができない」――に反して、「それよりも大きいもの」が思考されてしまうことになるのだ。

つまり、神を最高度の存在として思考にとどめようとするやいなや、その思考は自らの論理によって、思考の内側を超えて、思考によっては考えることのできない「現実の存在」へと押し出されてしまうのである。

さらに、神は思考を超えた「現実の存在」として、再び思考されることになる。では、この「現実の存在」としての神は、果たして思考可能なのか、不可能なのか? 思考を超え出る現実の存在、さらにその思考を超え出る現実の存在、という思考を――。

わかりやすく循環を図示してみた

こうして、思考と存在(現実)の落差により、神の存在証明は矛盾を孕むことになる。その矛盾による行き来――思考可能と思考不可能の往復、思考と存在(現実)の往復こそが、高校生入不二に揺さぶりをかけた波動であった。

入不二にとっての「神」は、西洋文学・思想上の大問題でも、信仰上の問題でもなく、思考の中で生じる「眩暈」のようなものとして体験されたのだ。

このアンセルムスの神の存在証明に対して、入不二は単に肯定するでも否定するでもなく、思考が自分を勝手にどこかへ連れていくような感覚を味わったのだと思われる。

つまり、入不二のアンセルムス体験における「眩暈」とは、思考の内容=神そのものよりも、むしろ「思考の動き=現実性へと引っ張られる力」に直に触れてしまったことにあったのではないか。

そして、この眩暈としての体験こそが、のちの入不二哲学における「円環モデル」や「現実性=神」のテーゼの出発点となっているのだ。

このアンセルムスの理論は、『プロスロギオン』の中で、修道士ガウニロによって次のように批判されているようだ。

ガウニロは、最高度に完璧な島があると仮定し、「最高度に完璧な実在する島」という概念を理解できることと、その概念内容が実際に成立することはまったく別であると指摘した。すなわち、アンセルムスはその落差(ギャップ)を見失っているのだというのである。

入不二もまた、このアンセルムス体験を大学時代に、科学哲学を専攻する学生に話したところ、学生はせせら笑いながらこう言ったそうだ。

「そんな証明は、カントによってとっくの昔に論駁されているじゃないか。要するに――存在まで含むほどの完全なものだと神を定義したとしても、そこから実際に神が存在することは導けない。この簡単な理屈で、神の存在証明は失敗するわけだろう」

当時、大学生だった入不二は、このことについてうまく反論できなかったようだ。しかし、アンセルムスはガウニロの批判にも屈していなかったはずだ。だから、アンセルムスの神の存在証明は、カントがいうようには、すぐには論駁されないはずだと、入不二は直感していたようである。

「大人」になった入不二はこう考える。

――「存在するという概念だけからは、実際に存在することまでは導けない」という『簡単な理屈』によって、アンセルムスの神の存在証明を葬り去ることはできないだろう。なぜなら、その『簡単な理屈』は、アンセルムスの証明を単純に論駁するものではなく、むしろその証明を構成する一要素でもあるからだ。

すなわち、「ただの思考」と「実際の存在」の間にある落差は、証明を論駁するどころか、証明を支える〈要因〉である。その落差があるからこそ、アンセルムスが言う「より大きい」の意味が成立するのだ。

アンセルムスは、その「落差(ギャップ)」を単純に「見失っている」のではない。そうではなくて、むしろ「落差(ギャップ)」を最大限に利用することによって、「落差(ギャップ)」を消し去ろうとしている。あるいは、その「落差(ギャップ)」が無限大になることと、その「落差(ギャップ)」が無に等しくなること、その両極端が一致するところに、アンセルムスは「神」を見ようとしている。

『現実性の問題』入不二基義(筑摩書房)P372

つまり、アンセルムスの神の存在証明において重要なのは、思考と現実のあいだに存在する落差そのものなのである。この落差を単なる矛盾や論駁の対象としてではなく、逆に最大限に活かすことによって、神という概念の核心に迫ろうとしている、と入不二は考えるのである。

入不二が高校時代に感じていた、行き来の「眩暈」とは、次のような循環の感覚であった。

思考を超え出るのが存在である→ と思考される→ という思考をも超え出るのが存在である→ ・・・

この、どこまでも続く循環こそが、この落差を利用した運動なのである。

しかし、入不二の考えはここに留まらない。

存在と思考の概念における落差と、現実の存在とその思考の間にある落差は、決定的に異なるはずである。

入不二は、この異なる二種類の「落差(ギャップ)」のさらなる「落差(ギャップ)こそが神の存在証明を駆動させているのではないかと考えるのである。この考え方を、入不二は次のように定式化する。


⑴ 存在と思考(概念)における落差 / ⑵ 現実の存在とその思考(概念)における落差→⑶現実性の力

入不二は、「現実の存在」と「ただの思考(概念)」という二項対立だけで考えるのでは不十分であると考える。神の存在証明のポイントを掴むには、《「現実(性)」と「存在」と「思考」》という三者のあいだの力関係を考えなければならない。

初見の読者にとっては混乱しやすい箇所だが、入不二の言いたいことは明快である。通常われわれは、存在=現実、現存在というふうに結びつけて考えがちである。しかしここでいう「存在」と「現実(性)」は区別して考えることが重要なのだ。

「現実(性)」は、存在や思考よりもさらに大きな概念である。

それは単に「現実の存在」にだけ働くものではない。「現実の思考」にも働きかけるし、思考と存在の往復運動そのものもまた、「現実の行き来」として捉えられる。どこまでも続く反復の連鎖、循環も、やはり「現実の反復連鎖」である。

思考であれ、存在であれ、思考と存在の「争い」であれ、「現に思考し」「現に存在し」「現に争う」のだから、「現実性」は常に一番外側で(一番「大きい」仕方で)、落差(ギャップ)を産み出し続ける源泉のように働いている。「それより大きなものは何も考えることができない」とは、そのように働く「現実(性)」の「外のなさ」のことではないのか。

『現実性の問題』入不二基義(筑摩書房)P374

前述の通り、存在と思考の二項対立のみで考えると、アンセルムスの「それより大きいもの」は、論理的矛盾を生じさせてしまう。しかし入不二は、この落差を単なる矛盾としてではなく、証明を駆動させる運動として捉える。

そして、その運動を支えているものとして、「現に」という力の働き、すなわち「現実(性)」を見出すのである。


ここから先は、入不二独自の哲学へと変貌していく。

入不二は、先に述べた「現実(性)・存在・思考」の三者関係に満足せず、さらに「概念」を加えた四者関係で捉えるべきだと考える。

すなわち、存在、思考、概念という三者のうち、存在と思考はもちろん、意味論的次元としての概念も含めた三竦みがあり、これらの三者すべてに対して貫通的に働いているのが、「現実(性)」という力である。

この三者竦みは、存在論(存在)、認識論(思考)、意味論(概念)

にそれぞれ対応している。そして、「現実(性)」はこの三竦みに貫通し、四者関係としての運動を生み出す力として機能するのである。

三者竦みの関係を、入不二はジャンケンの関係に例える。このジャンケン関係は、入不二の別の著作である『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』にも登場する。

ジャンケンの三者「グー・チョキ・パー」の間には、グー>チョキ>パー>グー>チョキ・・・という円環的な勝敗関係が成立していて、「一番強いもの」は存在しないが、すべての局所において「より強いもの(より弱いもの)」が存在し、その落差の連鎖によってジャンケン・ゲームが成立している。

『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』入不二基義(講談社)P204

先ほどの存在論(存在)、認識論(思考)、意味論(概念)の三竦み関係も、ジャンケンのように局所的に力関係が変動する。ある局面では「概念>認識>存在」となることもあれば、別の局面では「存在>概念>認識」となることもある。

このように、「より強い/より弱い」は存在するが、絶対的な強さや弱さは存在しない関係性は、超越的な力を不可能にしている。

これに対して、「現実(性)」のはたらきは、この関係性の「内部」において、全域的にも局所的にも、超出的にも包み込まれ的にも作用する。それも、各項のあいだを順番に行き来するのではなく、「一挙にどちらでもあるように働く」のである。

すなわち、「現実それ自身が、全域的にも局所的にも、超出的にも包み込まれ的にも働き、しかも両水準で一挙に働く」のである。

入不二は、現実がこのような「自体的で一挙的な二重性を帯びている」という在り方を、他の例においても説明する。

「現実と夢」の例がそうなのだが、入不二が示すのは次のような図式である。

現実={現実と夢(現実)}
X={X vs Y(X)}
X→{X →(X)}

この図が示すのは次のことである。

現実は、「夢ではないもの」として、夢と対比される局所的な項目である。しかし夢は現実なしには成立しないため、結局は現実に含まれている。

したがって「現実X」は、夢と対立する局所的な項であると同時に、現実と夢の双方を包摂する全域でもある。さらに図式 X → {X → (X)} が示すのは、「現実X」が一番外側で働くだけでなく、内側においても「夢ではないもの」として働き、夢そのものを含みこみ、さらには夢の中でもなお現実が作用しているということである。

つまり現実は、常に汎通的に働く力なのである。入不二の結論はこうだ。

この現実(X)の「自体的で一挙な汎通性」「絶対的な外のなさ」こそが、「それより大きなものは何も考えることができない」というアンセルムスの神の「大きさ」なのではないだろうか。あの「何か」とは、そのような「現実性」のことだったのではないか。

『現実性の問題』入不二基義(筑摩書房)P379

入不二がアンセルムスの神の存在証明から読み取っていたのは、「現実性という力」と「存在・思考・概念の三者関係」との非対称性ということだ。

アンセルムスは落差を「見失っている」のではなく、むしろそれを最大限に利用している――入不二がそう考えたのは、この「落差」=⑶現実性の力の「届かなさ」を証明の中に見て取ったからである。

現実性の力は「外のなさ」そのものゆえに、決して届かない。それにもかかわらず、内側においてはすべてに汎通し、浸透しきっているため見えなくなる。そしてその「見えなさ」は、言うまでもないが、霊や魂、あるいは観念といったような話ではなく、「現実の力」として貫通する、その働きそのものである。

この時、その働きそのものに、アンセルムスは神を見たのではなかろうか。そして、高校生入不二が体感した「眩暈」そのものが、神への「予感」だったのである。

「それより大きなものは何も考えることができない何か」とは、結局「現実性という力」の働きのことであって、「現実性こそ神である」と表現できる。

『現実性の問題』入不二基義(筑摩書房)P380


入不二は、この「現に」という力にこそ神を見る。ここでいう神は、もちろん人格神でもなく、意思をもった超越的存在でもない。その存在は「外のなさ」そのもの、すなわち私たちの<現実>そのものであり、しかもその内側においてあらゆるものに遍在する「力」として働いている。

この力は直接には見えない。しかし、私たちはその「見えない力」を、内側としての現実にすでに宿している。入不二はこの見えなさを説明するうえで、他の論考で、次のような喩えを挙げている。

たとえば、穴あきドーナツを考えてもらいたい。確かに真ん中には何も無い。しかし、そこに何も無いことは、端的な無でも無意味なものことでもない。真ん中の「空」はドーナツをドーナツたらしめる本質的なものとして、無いという形でいきいきと在る。

『「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス』入不二基義『現代思想2002年臨時増刊号』所有


無は、端的な無ではない。それ自体に「現に無である」ということで力が働ているのである。

ただし、このドーナツの穴=無自体を、神と捉えるのであれば、それはわれわれが表象する内なる神ということになるだろう。実際にそのような観念の力のもと、われわれの現実世界は駆動しているともいえてしまう。

だが『現実性の問題』における入不二のここまでの議論に倣えば、私たちはこのドーナツ全体にかかっている「現に」という力そのものに神を見るべきなのである。「現に」は、たとえ無であろうとも、あらゆるものに遍在する。それをさらに押し進めた議論は、最新作である『現実性の極北』で結実する――。

ここまで見てきたように、入不二が示した「現実性こそが神である」は、何かを想起させないであろうか。

そう、それは、スピノザの神である。「スピノザは神の現存在を証明するのではない。現存在が神であると証明するのだ」と、あのゲーテが言った、スピノザの神である。

スピノザ研究者である上野修は次のように言う。

『エチカ』のあの幾何学的体系はすべてこれ、なぜ事物の現実がこんなふうに存在しているのかということの恐ろしいほどに明晰な説明になっていることがわかる。われわれは知っている。現実はこれしかない。唯一である。どこまで行ってもそこは現実で、だれもその外には出られない。そしてすべてはその中にある。スピノザが「神あるいは自然」とか「絶対的に無限なる実体」とか言っているのはこの現実のことだと考えると腑に落ちる。

『真理と直観――永遠の相のもとに』Ⅱ「現実は神だった」上野修(『哲学の挑戦』所有)


スピノザが示した神を、上野修は「現実」と読み替える。そのことについては、いぜんも記事にしているのでここでは繰り返さない。

入不二は、この上野修に触発され、「現実性こそ神である」と名付けたのだという(P381・注釈より)。

上野は、スピノザの神の定義は、われわれの現実にこそ当てはまるという。それに対し、入不二は「現実性」を探究した結果、そのあり方が「神」と呼ぶに相応しいということが分かったのだという。両者は、違う方法で、反対のルートを辿り、同じ結論に達している。

その入不二基義と、上野修の対談が企画されているというのだから、今から楽しみで仕方がない。



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