『現実性の極北』を読んでの覚書 ついに入不二哲学に踏み込んでしまった
さて、いま話題を呼んでいる哲学書──入不二基義による『現実性の極北』(青土社)である。X(旧Twitter)などでは、哲学や科学、数学といったさまざまな領域に関心をもつ読者たちが本書に反応を示し、活発な議論が交わされている。
私も遅ればせながら、この書を手に取り、読み進めているところだ。まだ読了には至っておらず、あくまで途中段階での感触ではある。だが、今まさにページをめくっているその最中に、私はどうしても、入不二哲学について何か書き残しておきたいという衝動に駆られている。
それは書くことによって、本書の内容の理解を深めるため、という理由もあるが、より直接的には、身体的な反射からくるものだ。ここで言葉にしておかねば、今この瞬間、何か大事なものを取りこぼしてしまう、そんな焦燥にも似た直感のためである。
『現実性の極北』においては、「現実性」をめぐっての思索が、さまざまな理論を応用し重層的に繰り広げられている。そのため、当然そのすべての議論に言及することは、私のような哲学素人にはできるものではない。私が今理解できる範囲の中で、私にとって必要な個所について、覚書のようなものとして、抽出してみようと思うまでである。
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入不二哲学は、徹頭徹尾、「現実」──すなわち、われわれを取り巻く世界の在り方──をめぐる思索であり、探究である。今、私は「世界」という言葉を安直に持ち出してしまったが、じつは入不二の書くものには、「世界」あるいは「宇宙」といった言葉は皆無といってよいほどに出てこない。なぜか?
たしかに、「世界」や「宇宙」は、現に私たちが経験している現実の様相の一つであることに違いはない。しかし入不二にとって、それは「現に実在している一つの状態」にすぎないからであろう。「世界」や「宇宙」という言葉では、「現実性」という概念を理解するうえで、ミスリーディングになる可能性があると思われる。入不二の哲学における「現実」とは、それらよりも遥かに広く、より根源的な概念である。
すぐに触れることになるが、入不二哲学においては、「実在するもの=現実」ではない。むしろ、存在するものも、存在しないものも、さらには「無」さえも含めて、「現に」あるという遍在の仕方こそが、彼の問うている「現実」の核心である。
では、入不二が言う「現実」、あるいは「現実性」とは、いったい何であろうか。まず、先ほども述べたように、「現に実在しているもの」や「現に実現しているもの」のみが、「現実」を指すわけではない、という点である。出来事やモノの実現や発現は、「現実性」と同じものではない。入不二自身が、そう注意を促している(『現実性の極北』、p.171・以下基本的には同書からの引用)。
通常、「現実性」とは、アリストテレスの「エネルゲイア(現実態)」と「ドゥナミス(可能態)」の対比に見られるように、「潜在性」と対立する概念として理解されている。しかし、入不二はアリストテレスとは異なり、「潜在性」もまた「現実性」である、と考えるのである。
むしろ、潜在性とは現実性である。まず現実性と潜在性は、対義的な関係にあるのではなく「一体」であると考えている。「現に潜在している」のだから、「潜在」と「現実」は(潜在と顕在のようには)対立しない。「現に」という現実性と「潜在している」こととは、別個のことではない。より正確に言えば、単純に「一体」なのではなく、動的に捩れた表裏関係において「表裏一体」である。
この点を理解するうえで、入不二は「一個のコップ」を例にとって、非常にわかりやすい説明をしている。
コップに潜在する力(X)──それを「壊れやすさ」という傾向性として捉えるとしよう。すると、「壊れる」という可能的な事態(Y)、「壊れている」という事態の実現(Z)へと連なる、「潜在 → 可能的発現 → 実際の発現」、「X → Y → Z」という一連の連環が考えられる。
ここで重要なのは、この連環のうち「→Z」──すなわち、実際に壊れている状態──だけを「現実」と見なしてはならない、という点である。入不二によれば、「→Z」で生じている実現・発現は、「現実性」とは同一ではない。
「→Z」とはあくまで、ある出来事が実際に起こっているという「実在性」であり、それは潜在態という相から現実態という相への転換点にすぎない。しかし入不二においては、この「潜在態」と「現実態」は、いずれも現に働いている力として捉えられており、両者はつねに重なり合っている。そして、この重なりの状態こそが、「現に潜在し、現に実現している」という意味での「現実」なのである。
したがって、アリストテレスにおける「エネルゲイア(現実態)」と「ドゥナミス(可能態)」の対比をそのまま適用すると、「実際に」=実在と、「現に」=現実とを混同する危険が生じてしまうのだ。
「現に」という現実性は、X → Y → Z という流れの中の高低差や段階とは無関係に、その全体、あるいはその局所に無差別に働いている。言い換えれば、現に「X」であるし、現に「X → Y」であるし、現に「Y → Z」であるし、現に「X → Y → Z …」でもあるのだ。
「現に」という現実性は、あらゆる働きの圏内のどこにでも入り込んでいる。さらに言えば、圏外においてすら働いているのである(p.171)。
この壊れやすいコップは、そのほかさまざま諸原因によって壊れるという実際の発現を伴うが、その潜在性(X)において、水に溶けてしまうとか、空気となって蒸発してしまう、というような「不可能な」状態へとは方向づけられてはいない。壊れやすいコップにおける、ある潜在的な力は、ただ潜在しているのではなく、可能的発現(Y)、実際の発現(Z)を貫いて、一定の方向性を有している。「壊れやすさ」は、ただ将来の出来事として待機しているのではなく、今ここにおいて、傾向性としてすでに作用しているのである(P188)。
よもすると、われわれはこの「潜在性」を、「壊れやすいコップが、壊れるか壊れないかのいずれかになる」という「可能性」と同等のものとして捉えてしまいがちだ。しかしここで重要なのは、潜在性と可能性を混同してはならないということである。入不二は、両者を明確に区別している(P55)。
可能性の領域は認識論的領域であり、排中律(P ∨ ¬P)に基づいて成立する。たとえば「桜が咲くかもしれないし、咲かないかもしれない」という二択は、認識によって「ありえたかもしれない別の選択肢」を想定するものである。可能性は、現実と非現実を分離し、論理的・言語的な枠組みの中で機能する。
それに対し、潜在性の領域では、矛盾律(P ∧ ¬P)が働く領域である。「∧ かつ」とは、「潰れ」「重なり」の理論である。これらは、「桜が咲く力そのもの」が、咲くか咲かないかを超えた形で存在し、特定の方向性を持った力として内在する。潜在性は、現実化のプロセスそのものに関わり、認識可能な可能性の領域よりも、さらに根源的な次元に位置するのだ。
ここまでの議論を、視覚的に捉えようとするならば、入不二が本書で示している円環図に倣って、次のように描くことができる。

左半円は「潜在性の場」、右半円は「可能性の場」である。この円の中に記されるA、B、Cといった事柄は、ひとつのアナロジーとして機能する。
まず、潜在性の場(左半円)では、これらの事柄──A、B、C──は互いに重なり合い、区別されないまま潰れている。しかも、事柄は有限ではなく無限(おそらく非可算無限)に存在するため、この重なりは次第にべた塗りの黒のような密度を持ちはじめる。ここでは、事柄はまだ分割されず、名指されず、野生のままである。
一方、可能性の場(右半円)では、A、B、Cといった事柄はすでに区別され、整理されている。ここでは、分割や分類、抽象的な認識が可能であり、事柄は認識論的な枠組みによって表象される。入不二は、これを潜在性の野生性に対し、「飼い馴らされた現実」と呼ぶ。
この構図において重要なのは、存在論的には、左(潜在)から右(可能性)へと、事柄が産出されていくという点である。たとえば、コップの「壊れやすさ」という潜在性は、コップが壊れるか壊れないかという可能的な二分や、実際に壊れているという実在性に先立って存在している。つまり、潜在性とは、事柄が現れる前から、すでに現に働いている力である。
とはいえ、われわれがこの「壊れやすさ」を認識するには、やはり何らかの具体的な実現=たとえば「実際に壊れている」という事態を通してでしかない。その認識は、「壊れていない」「曲がっている」「蒸発している」といった他の在り方との差異化のうちに導き出される。したがって、可能性の場は潜在性の産出に依存しつつも、そこから認識論的に切り出された整理の領域として成立している。
潜在性は、あらゆる領域に行き渡る。あらゆる事柄がその中に沈み込み、互いに重なり合っている。だからこそ、そこには無尽蔵の産出性がある。重要なのは、潜在性は可能性すらも含んでいるという点である。この現実において起こりうる事柄の可能性が「無限」であるとしても、その「無限の可能性」は、あくまで潜在性という無限から産出されているのである。
繰り返しになるが、「現に」という力は、この潜在性、可能性の状態、全域に及んでいる。この円環図において、実在性はどこに位置付けられるかといえば、それは可能性の領域である。可能性が潜在性に織り込まれているのだとすれば、実在性は可能性に織り込まれているものといえる。
では、潜在性→可能性→実在性に至るまでの「実在」はどのように定まるのか。あらゆることが起きえるという可能性から、実現、発現に至るにはどのような飛躍がありえるのだろうか。この円環モデルを活用しての入不二の議論ははるかに複雑であるのだが、すべてをカバーはできないので、より重要なエッセンスのみに触れておく。
それこそが、入不二が「任意(性) "any-ness"」と呼ぶものである。出来事という実在の現実は、「(何であれ)何かが起こった・起こっている」という「任意の何かの実現・何かの生起」という現実(性)である(P93)。
任意性は、私の理解では、「現に、そうなってしまった(いる)」という出来事の生起であり、「なぜそうなったのか」ではなく、「もうすでにそうである」ことへの思考の転回が必要とされるものである。この任意性において「現に」は、「力」というよりも、現れそのものであり、「やってくる」というよりも、否応なしに始まっている・成立してしまっているものと考えた方がよさそうだ。「任意性」は、必然でも偶然でもない、「どれが実現してもよかったが、これが実現してしまった」という不可逆的な出来事の力ではないだろうか。
この任意性による始発点は、AでもBでもCでも、何であってもよいという「肯定の開かれ」をもつが、同時に、AでなくてもBでなくてもCでなくてもよいという「否定の開かれ」とも常に表裏一体である。つまり、それはつねに「他であってもよかった」という可能性の地平にひらかれている。
しかし、それにもかかわらず、たった一つのAかBかCかに決定されてしまうとき、それを私たちは「出来事」と呼ぶ。このとき、始発点とは、可能性と否定性、肯定と潰れた他者性を同時に内在させたものとして、矛盾を孕みながら運動するのである。
この矛盾は、「アスペクト(様相)の潰れ」の議論によっていっそう明確になるだろう。本来、可能性とは複数の様相を同時に保ちうる開かれたものである。しかし、いずれか一つのアスペクトが「現に」選び取られると、その瞬間に他のアスペクトは一挙に失われてしまう。出来事とは、まさにこのようなアスペクトの潰れのただなかで生起する、「否定性を含んだ肯定性」として捉えることができる。他の誰でもない、「この私」の「この」性も、このアスペクトが潰れる領域に関わっている(P84)。
その否応なしの始まりを、入不二は上記円環図においては、潜在性の場にも可能性の場にもかかった「場」として、0時地点に置くが、その任意性による力は、時計回りに運動し、6時地点の転回点を経て、最終的にはまた0時地点に戻ってくる。この運動自体の理論を私には整理する力が今はないため、本書そのものを読んでもらう方がよいであろう。
ただ、まとめてとして次のようなことは繰り返しておきたい。入不二が示す、現実とは、「現に実在しているもの」や「現に実現しているもの」のみをさしてそう名付けているわけではないということ。実在の場としての現実の出現については、入不二はこれを「現実在」と名づけ区別していると思われる。潜在性の場、可能性の場、現実在の場に関わらず働いてる力こそが、「現に」の力であり、それを入不二は「現実性」と呼ぶ。入不二の視座は、存在/無、可能/現実、虚構/事実といったすべての区別を相対化する地平にあるといえるのではないか。
私はずっといぜんより、現実世界と夢の世界、あるいは虚構の世界との区別に疑問を抱いていた。デカルトやスピノザを読んでいたということもあるが、この世界は、たとえ自分が誰かに見せられている夢だろうと、虚構だろうと、現にあるのであれば、それが私たちにとっては逃れられない現実に違いないであろうと。
あるいは、この宇宙の始まりが無なのかそうでないのかという議論。無もまた、無として生起しているので「あれ」ば、それはもはや無とはいえないのではないか。また、宇宙は理論的(可能性的)には、いつ、どこで、どのように、何度でも起きてもいいわけだから、この宇宙がたった一つの私たちの現実であると考える必要はないのではないか。小説を読むことや映画を観るという体験自体も、表象の世界の中を生きるということ、それもまた現実ではないか。死者もまた、死者という形で今ここにおける現れではないか、といった取り留めもないことを漠然と考えていたものだったが、入不二哲学はこれらの考えをすべて言語化してくれているような気がしてならない。
あとは、私の理解する力にかかっている。理解できるかどうか、それすらもまた、現に、潜在的にすでに働いていることなのだと、そう入不二に倣って言ってみたいと思う。
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さて、ここまで『現実性の極北』のごく一部の議論を、私の整理として書き連ねてきた。入不二哲学の正しい理解になっているかは甚だ自信はないが、今後はこの入不二哲学をどう自分の思索に接続するかに焦点をあてていきたい。
X上でさまざまな読者が言及しているように、多くの人が、これまで読み込んできた西洋哲学や仏教哲学、あるいは数学理論を、入不二哲学を通じてあらためて読み直すことで、その解像度が一段と高まったと語っている。それほどに、入不二哲学が提示する理論モデルは、きわめて汎用的な構造を備えているのだろう。
私自身も、これまで長く親しんできたスピノザ哲学に、入不二哲学のモデルをもとに理解してみたいという誘惑に勝てない。『現実性の極北』のページを読み進めるたびに、スピノザの概念が想起されるからだ。
たとえば、入不二における「潜在/可能性の場」の円環モデルは、スピノザにおける「本質/存在」の構造に重ね合わせて捉えることができるのではないか。また、潜在から可能性へと働く産出の力は、スピノザにおける「能産的自然(natura naturans)」と「所産的自然(natura naturata)」の関係、あるいは絶対無限の神の知性としての「直接無限様態」と、全宇宙の様相としての「間接無限様態」への在り方に対応させて読むことができるのではないか。この連関は、「現に」偏在するコナトゥスの力に焦点をあてることでこそ、明確に見えてくるような気がする。もちろんスピノザは潜在という言葉は使っておらず、可能性という概念も入不二のものとは異なるが、それでも響き合うものはあるものとみている。
入不二とスピノザ。この二者の重ね合わせは唐突なものではない。入不二と同門であるスピノザ研究者・上野修を経由することで、私は入不二の存在を知ったからである。上野と入不二は、互いに影響を与え合っている関係であることを公言している。
そして、上野の最重要著作の一つである『スピノザ考』(青土社)に収められた論考──「現実性と必然性」や「永遠の相のもとに」、「〈ある〉のすべて」、「現実性をめぐって――ライプニッツとスピノザ(Ⅰ)」など──は、本人が注で述べているとおり、入不二哲学からの示唆を受けたものがあり、むしろ入不二哲学を介してこそ理解がいっそう深まるように思える。
なお、入不二もまた、上野スピノザからの示唆を受けており、「現実性こそ神である」というテーゼを打ち出している(『現実性の問題』〔筑摩書房〕、p.381)。
