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映画『国宝』レビュー(前編)|体験/揺るがされる/もがくあがく、だって、あの…/無音/高い場所/わからないまま


・「ネタバレしそうで、ギリ『なし』に踏みとどまる」のつもりで書いてはみましたが、それでも映画未見の方は、今はまだ本記事読まない方がいいかもです。
「もう、まずは観てきてっ!その後でこれ読んでっ!」と叫びたい😁
・どうしたって長くなりすぎる。前後編に分けますね。
後半はこちら↓です

「映画を観た」ではなかった時間

喜久雄にとっての50年を、10,500秒で体験し、視る時間の連なり


おとといの夜、私は「映画を観た」。

映画『国宝』については、こう言ってしまうと、違和感がとてもある。

こう思わずにはいられなくなる。
「あの劇場で、私は何を観ていたのだろう。」
「私がいたあの時間、していたのは、『映画を観る』だったのか。」

むしろ「体験した」ではなかったか。

2日経ち、直後ではなくなり少し冷静になったはずのいまでさえ、そう思う。
冷静?
いまだに心はざわめいている。あの時間に、BLOWされつづけている。
仕事をしていても、家事をしていても、誰かと話していても。

私は、あの時間、スクリーンに映し出される視界を……、
視界がとらえている世界を、「体験していた」。

これも微妙にしっくりこないけど、まだ、「映画を観ていた」よりはましだ。

私の中で、あれ、、は映画じゃない。
喜久雄の「生きて、感じていること」。
それの、濃密な体験の時間とき
それを、感じ、浴び続けていた。

上映時間は、175分だという。
とすれば、10,500秒だ。
1秒1秒を、目に焼き付けるのに懸命だった。
10,500秒の時間ときの渦の中。

パンフレットによると、映画は「喜久雄の50年」を描く。
ならば、10,500秒で、観客は50年を追体験する。
強烈な体験だ。

映し出されるのは、並の人生ではないし、並の男ではない。
喜久雄=東一郎は、並の男ではない。
演じる吉沢亮も、並の俳優ではない。
そうだなんて、今までまったく知らなかった。
この映画をものにして、したから、そうなった。

「視る」の三重構造。喜久雄に入り込んで眼前の光景を、彼周りを目撃しながら、同時に、ひとりの観客として吉沢亮という役者を視ること


上に述べた「体験する」は、ただし、映画上映時間の100%ではない。
吉沢亮が演じる主人公・喜久雄きくお東一郎とういちろうの人生を、時には彼の内に入り込んで、彼の視る世界に同化し視つつも、時にははたから窃視していた。

私の好きな映画に『ガープの世界』というアメリカ映画があるが、原題は ”The World According to Garp"、「主人公・ガープによる世界」。

映画『国宝』の描写、視点はあくまでも喜久雄中心世界なので、
「喜久雄による世界」
「喜久雄の目に映る世界」
「喜久雄が解釈する世界」
と理解していいだろう。

映画前半のクライマックスシーンである「曽根崎心中」を演じる東一郎(喜久雄)
が実際には直接は視ていない光景、劇場のドアの外で起こった別の、現実の、逃避行についてだって、カメラが現実を後方から、、、、とらえているとも言えるし、あるいは、喜久雄が聞いて後から、、、想像した光景も言える。

なんにせよ、観客はそれを視ている。
神視点というより、喜久雄視点で。

そして同時に観客は、あるいは私は……、
吉沢亮が役を演じている、その鬼気ききはたから、視る。
「鬼気迫る」という表現の、「鬼気」。
辞書的には、「身の毛もよだつような恐ろしい気配」のことを指す。

私は思う。

「どれだけ、この役に賭けて、入り込んだというのだ」と。

「どれだけの時間を、歌舞伎役者として自身を観客に見せる、観客を魅せることに捧げたというのだ」と。

「どれだけの鬼気、あるいは狂気をつぎ込んで、この撮影に向き合ったのだ」と。

これまで、ファンでも、特段気になる存在でもなかった吉沢亮。
彼が、急に、心から離れなくなってしまう。
「『国宝』以降」の、今の時間は。この先でもきっと、ふっと。

観る(視る)私の世界が、揺るがされる時間

優れたアートは、どうしても観る側に入り込んで、内側から照射してしまう


観る側、受け手として劇場に集まり、スクリーンの前に座る私たち観客個々は、もちろんながら、多様だ。
性別。世代。属する文化的基盤や価値観。人生で積んできた経験。

その違いに関わらず、受ける「普遍的な」衝撃や感動というものも、この映画には間違いなくあるはずだ。
そして同時に、個別それぞれの人生が、持ってきた世界が揺るがされる(あるいは、特段揺るがされない)ということも起こっているだろう。
もちろんそのことは、どんな映画も、創作全般でもそうだろう。

ただ少なくとも私は、この『国宝』に関しては、「自分の基盤、持ってきた世界」を意識した。

少しだけ自分語りすると、私が意識した私の基盤あるいは背景というのは……

「ある伝統宗教の血筋(血族)である、だった」

私の祖父は「寺社」を営んでいた(それが神社の宮司なのか、寺院の僧侶なのかや地域etc.詳細は、身バレ防止理由であいまいです)。
故人だから、過去形になる。
が、私が「『寺社』のところの孫」であることは、継続し続ける。
父親は、後を継がないことを宣言していた。なので、幼少期から、常に「後継」を意識するという環境になかったけれど(その点については親父に感謝している)、ときどきは自分だけでふっと、「ここでこうやって生きるのかな」なんて考えた。
だが血筋であることは確かで、だから今でも、もしある日不意にポックリ逝った日には、入る墓はあちら、、、になる可能性がある。

『国宝』は、名門歌舞伎一族の家を舞台にした、「血」の映画でもある。
観る私もまた、私自身の「血(族)」を意識せずには観られなかった。

(そしてちなみに現在、「寺社」は一族外の方が継いでくださり、営まれている。
それは鑑賞中は意識していなく、こうして感想書く段で初めて気がついたけれど、映画が描くことと重なってくる要素がある。)

「幼少期の一時期、人から外見を『綺麗だ』と思われていた」

今となっては立派な小汚こぎたな50オヤジ、けど幼稚園から小学生低学ごろまでの数年間、一部の人の目には私という存在がそう映っている時期があった。
普通に、幼少期ボーナスもリップサービスもあったろう。
けど、小学生になっても、見知らぬ他者から「綺麗な顔をしている」と言われた。
小学校で担任でない教師に。銭湯でおじさんから。遊園地で。新宿のデパートで。電車内で。公園で。

……書いてて思う、これって一種の、(逆)ナンパ原体験かもなと。とりあえず幸運にも、被害的な目には遭わなかった(はず)。
「#こいつ何言ってんですか」
と冷笑されて仕方ないやつですが、そして、だからって美形界のスーパースター(という認識で合ってますか)吉沢亮とは比べるべくもないのは当然なのだが、

「『他者の目に映る容姿と、内面世界(脳、精神構造、「こころ」)は違う』

それを、少しわかる気がしてます」……と言いたいってだけ、ご理解くだされば。

「家族と一緒に居ず、ひとりの時間に創作をしている」

これが、この告白パートで一番書きたかったこと。
家を半別居している背景理由は一つではなくて複雑だけど、当初からの目的としてあるいは結果的に、私はひとりの時間、創作活動に充てている。
本を読み、考え事をし、こうやってno+eに書く時間を選べている。
もしかするとそれは、「鬼畜や悪魔の所業」かもしれない。
家族個々が本当はどう思っているのか、私は知ることができないから。
劇中、喜久雄が肉親から言われる「悪魔さん(との契約)」の言葉で、私は我が身をなぞらえていた。

私たち観客の個々の人生体験は、狭くて、可能性には限りがある。
もちろん私もそうだ。
映画の主人公・喜久雄の人生も、狭く有限な中で在るその点は、同じ。
「私は、こうだ(った)けど、人は、実はまったく別にも生きることができる。」
映画は、それを伝えてくる。
選んだものか、流れ着いたのかは置いても、生きることの、その多様さ。
それを受け止める時間。人によっては、それに揺るがされる時間となる。


吉沢亮、黒川想矢の演技。「ひとり勝手に育った」のではなく、相互作用の中で(中に)


芸の道、演者がそこを邁進するのって、決して単独行ではない。
常に、周囲に誰かがいる。
オファーした監督やプロデューサー、スタイリスト、マネージャー。
共演者、同業者、取材者。
家族、恋人、友人。
ファン、撮影を見かけた通行人、ネット民。
カメラマン……については後で詳しく述べる。

演者を見る、それは多くの目。
俳優にかかる、それは大きな期待。
押し潰されないどころか、体の動きや所作を、見事に自らのものにする。
それは、カメラを通して、ファンもアンチも無関心もいるスクリーンの向こう側へ、そのままに映写される。
演者と撮影者の、素晴らしい働きによって。

感嘆や称賛、畏敬の念。
それはそれは、おびただしい数が寄せられる。
どうしてか?
見事にやってのけたから。
演者として、芸道をさらに邁進して見(魅)せたから。

映画冒頭、いきなり魅せにくる。
雪の長崎、日本庭園がある、刺青の男も混ざる、不穏な空気漂う宴会場。
映画冒頭の、はじまりの、若き日の喜久雄(黒川想矢)の、声。
それは、任侠者の頭領に曰く、余興のような内々の演舞であるという。
しかし、居合わせて観ていた歌舞伎俳優(花井半二郎、渡辺謙)は、彼の才能のたぎりをその場で見抜く。
そして、場は、恐ろしい暴力の、(少なくとも観客には)非日常と化す。
そして、あのこと、、、、が起こる。
少年と青年の間、幼さの残る喜久雄の眼前、その赤、、、は散る。

私の心に、同時にふたつ、思いが湧く。

ひとつは、恐怖。喜久雄に入り込み、「こんな場にもし自分がいたら……」という、身の毛のよだつ感覚。恐ろしい想像がひろがる。

もうひとつは、創作で、読み手の心を「エンタメりたい」私としての、
「これは真に優れたエンタメ、観る者の心を次へひっぱっていくサスペンス!」
という、ワクワクマインド。

この場面があるから、喜久雄はあの目あの心境にいくのだと、わかる。
そして、若き俳優黒川想矢が、あの魅力を放つため必要な場⸻概念としての磁場、映画撮影の物質的な場(セット)両方の意味で⸻と、わかる。

演者パフォーマーは、いつも、相互作用の中にあるのではないか。
あるいは、相互作用の中でしか、磨かれていかないのではないか。
演者と、他の演者。
演者と、監督はじめ制作スタッフ。
演者と、観客。
その中で、自らにできることの「真髄」を、自分としてどこに置くか。
インタビューを受ければ、あるいはブログでは、演者の誰もが言うはずだ。
「自身、この作品にベストを尽くしました」。
「自分の持つ限界に挑みました」。
だが、それを判定するのは、アンチ勢さえ混ざる観客。
なんという、恐ろしくシビアな世界だろう。
自分なら吐きそうだ。
それなのに、黒川想矢も吉沢亮も、言うまでもなく他の出演陣も同様にだが(特に田中泯、とんでもなかった……)、演者は疑いなく相互に触発され、高め合っている。
「演者が相互に触発され、高め合う」。
それは、映画『国宝』の主要テーマの一つでもあるはずだし、同時に『国宝』の役を演じる俳優たち演者にも、起こっていたことであったはずだ。


だから、観客は、二重の「場」を視ている。
映画の描く「歌舞伎の舞台上」と、映画を通じ感じられる「映画撮影の磁場」と。


私は、双方から同時に、強く、揺るがされた。

これだから、単に「映画を観る」におさまってこない。

「体験した」以外に、言いようがなくなる。

(一度切って、後編に続きます)

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山本蛇内 yamamotojanai スキとフォローくだされば(気に入ってくださるなら、でね)十分なのであります! いつか有料記事に挑戦しますので、その時までチップ取っといてください笑

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