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映画『国宝』レビュー(後編)|体験/揺るがされる/もがくあがく、だって、あの…/無音/高い場所/わからないまま


・前後編に分かれていて、前編はこちら↓です

・前編同様、「ネタバレしそうで、ギリ『なし』に踏みとどまる」を守りますが、
前後の文脈は説明せずに、抜き出したいシーンが一つあります。

もがくあがく、だって、あの…

舞台の上でも、あの屋上でも

映画の後半、喜久雄きくお東一郎とういちろうは、夜更けにさびれたホテルの屋上でひとり舞う。
行動を共にする女が屋上にきたところで、彼はひとりだ。
人生で、ひとりではない、と思える時期もあった。
俊介=半弥(横浜流星)。
俊介は、どこにいったのだろう。
喜久雄はひとり。
女は言う。
「……あんたどこ見てんの」。
女が去り、喜久雄は言う。
「……どこ見てんねやろな」。

パンフレットの終わりの方のページに、この情景シーンのスチル写真が載っている。
夜明け前を思わせる、淡いが濃密な青に包まれた喜久雄が、女方の衣装のまま屋上で立ちつくすその姿を、横アングルからとらえたもの。
目の下の化粧は、グロテスクに崩れている。
殴られ、目は腫れているかもしれない。
顎を上げ、顔は、虚空を見る向きにある。
何かを目でとらえているようにも見える。
何なのだろう。
誰にも、わからない。
見えているのか。あるいは、彼が見ているのかどうか、そこすらも。

それでも、観客は想像する。

「それが”ある”と信じるから、こんなことになったってやめず、もがいている。あがくことをやめていないんだろうな。
『ない』ではなく、『ある』と信じるから、何度、何千何万回裏切られようが期待が外れようが、『ある』に賭け、目を凝らしているはずだな」。
あらゆる、「舞台」と名のつくものの上に立てば、喜久雄はそうしてしまう。

花井半次郎(渡辺謙)を頼って大阪に着いた当初、歌舞伎、芸事は喜久雄にとって「外側」であったはずなのに。
いつの間にか、彼を形成つくる大きな要素、不可欠な「内部」になっていく。
あるいは、どこかの過程で、彼は歌舞伎に、芸事に取り込まれる。
歌舞伎や芸事の側が、喜久雄=東一郎に目を付け、「内部」に取り込んで仕舞う。

喜久雄を撮るカメラについて

本作の撮影は、Sofian EL FANIソフィアン・エル・ファニ
パンフレットのインタビューに曰く、「日本文化や歌舞伎の世界に疎い」という。
その彼が、各情景の煌めく美しさ、匂い立つ美しさ、ダークで陰惨な美しさを、残らずフィルムに収めきってている。

後半、再びの「二人道成寺ににんどうじょうじ」。
せり出しから舞台に登場する東一郎(喜久雄)の、あの顔の凄み。覚醒感。
吉沢亮ももちろん凄いが、撮影者ソフィアンのカメラも凄いと感じた。

冒頭の、少年喜久雄(黒川想矢)が、舞台で傘を持ち一回回る、その顔を後方からとらえた構図にも痺れた。
あの宴会場にいた誰の目線でも無い(強いて言えば、舞台上の伴奏者?)けれど、喜久雄と観る者たちの関係性を最も良く映し出す構図。
センスが良すぎる。

無音の時、喜久雄がいる世界は


劇中に何度も訪れる「無音」についても語りたい。
それは、静寂や静謐とは形状し難い、とても不穏にさせられる、無音。
音の無い世界へ、引き込まれる感覚。
そこは、喜久雄の中に確かにある世界。
たまに発動するその光景では、眼前、きらきらした何かが舞い降りるのだ。

舞い散る雪なのか。
血飛沫なのか。
それらと⸻呪いで、宿業で、別に喜久雄にはなんだっていいはずで⸻結びついた、あるいはまるで無関心な、別の何かか。
それは、彼が、見ようと全てを賭けているものであるのだろうか。


以下に私の勝手な説を言う。根拠は何もない。

無音は、喜久雄にとっての「死の時間とき」。
死は、とても近いもの。
いつ、訪れてもおかしくはないもの。
冒頭のあの場面以降の、喜久雄の人生にのしかかる、観念。
芸の狂気、その究極を求め極めていく狂気は、彼にとって死と隣り合わせだ。
「俺もいつか、あんなふうに簡単に、死んでしまうかもしれない」
その思いは、常にあったはず。
その思いは、彼を悪魔的に導いていっただろう。
「思いは、彼を、悪魔みたいな存在へ導く」、
「悪魔的手法で、思いは彼を導いていく」。
これは言葉遊びではない。両方どちらも起こった。
無音は、彼の絶望と希望で、彼をどこかへ永遠に連れ去るもの。
「見にいこうぜ」と。
「信じろよって、見られるって!」と。

高い場所

以下はWikipedia「人間国宝」からの引用だ。

人間国宝は、重要無形文化財保持者として各個認定された人物を指す通称である。日本の文化財保護法第2条第1項第2号は
「演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの(以下「無形文化財」という。)」
と規定している。
すなわち、無形文化財とは芸能、工芸技術等の無形の「わざ」そのものを指すが、その「わざ」はこれを高度に体得している個人または団体が体現する。

引用中、太字は引用者による。

高い芸術的価値を体現しているかどうか。
それのみ。
人格、倫理観の規定はない。

似たような(?)顕彰、例えば国民栄誉賞はどうか。

内閣総理大臣決定で制定された国民栄誉賞表彰規程に基づいており、その目的は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」と規定されている。

Wikipedia「国民栄誉賞」

こちらは、(内閣総理大臣の判断するところの)人格や品格、倫理観があからさまに問われそうだ。
比較すると、はっきりしてくる。
「人間国宝」には、そうした決めは存在しないと。
芸道が高いか、突き抜けているかオンリーと。

◆喜久雄も俊介も、また芸道を往く者たちの多くがきっと、「人間国宝」を達成目標に掲げて、日々の稽古や舞台に臨んではいないはず。
「精進」や「上達」を目指すだろう。
それが常道、オーソドックスだ。
だがだんだん常道と違う、別の一点、何かわからないもの、説明がしづらいもの、定義もできないものを仰ぎ見ている、仰ぎ見ようと目を凝らすようになる。
そうした人たちが、あらゆる創作の場に、少数派として居るだろう。
バランス?取らない。考えの範囲外だ。
突き詰めるしか、ありえないじゃないかと。

喜久雄は、そこにずっといた。

その狂気を、ほんのわずかでも、垣間見る。

それが観客の実人生にとって、評判のビジネス書みたく
「すぐに役に立つ!」
ものであるなどと、冗談じゃないというかとても、思えない。
けれど、この映画はすでに、とても高く評価されている。
この先の未来でも、評価は覆らないだろう。

喜久雄が、何かを盲信して、時にぶざまに生きる。
その姿は、私や、観た人たちの胸を打つ。

「は、『順風満帆』だ?笑わせんな、喜久雄は……」
と、感情移入させる。

劇中で竹野(三浦貴大)は言う。

「ああは生きらんねえよな」。

けれど、彼は強烈に魅せられてしまっている。
それで、ずっと、くっついている。
私も、竹野と一緒だ。
高い場所に目を凝らす彼の姿に、強烈な輝きをみている。
誘蛾灯にふらふら飛ぶ蛾みたいなものだ。

同時に、書くことで自分を導けないのかと、年甲斐もなく探りたくもなる。
私なりの高みは、喜久雄のそれより高くはなさそうだが、それでも。

わからないまま〜目に映るものが「わかる」時代の終焉と、この映画体験〜


扉絵は、パンフレットの下のプリントだ。
説明がなければ、何なのか、わからなかったかもしれない。

今は「丁寧な」時代だから、こういう補足説明が常道として、つく。
先回りして、不満やクレームの噴出を勝手に予期して。
気遣い、丁寧さ、配慮を欠かさない。
本当はそれは自己愛、傷つきたくないからなのに。

でも他者への配慮など一切気にすることなしに、ただ見つめ、
「は?ぜんぜん違うよ、おかしいよ、この図案の持つ意味は……」
と自説をぶってくる人が、この世にいる。
眉を顰められる。あいつぜんぜん人に気つかえねーなって陰口叩かれる。
見下される。
なのに、彼女や彼が何か世間的にとんでもないことを成したと評価されるならば、凡人は手のひら返しだ。
仰ぎ見る。賞賛し、崇める。かつて見下したことなど忘れる。

……ああそれで、このプリントの話だった。
私はとても気になったし、これをパンフレット表紙用にデザインした作者のセンス、そして採用した別の誰かのセンスに、感銘さえ受ける。

これは満開の桜であるかもしれないし、光と闇の陰画ネガかもしれない。

恐ろしいほどの白一面に舞い散った、鮮血であるかもしれない。

喜久雄の舞台には花びらが舞うかもしれないし、決して降らないかもしれない。

何に落ち着くか、どう落ち着いていくのか。
わからない。
でも考え続ける。くらいついて、何らかヒントを得る、チャンスを待つ。

「わからない」に賭けるのは基本的に間違いでやらないべきと⸻あるいは、たしからしさのより高いものに対し準備をして臨むのが正しいと⸻、日本国の教育では長く、信じ込まされてきた。

それは、親や学校や、マスメディアの情報や諸先輩から、それが「普通」だと。


ただもはや、何が間違いか、何が正しいか。
誰にも、わからない。
そういう時代に私たちは突入した。
望むと望まざるとにかかわらず。


わからないなら。
わからないなればこそ。
少し高い場所のどこかに、各自の判断で、目を凝らすのだと決めたとて。
もはや、構わないのではないか。

東一郎(喜久雄)も半弥(俊介)も、舞台上で目を凝らすだろう。
わからないままに。

私たちも、そうしたって別にいい。
凡百たる私たち。
あるいは、唯一無二たる私たち。
わからないなら、むしろ自由だ。
設定も、位置も、かたちも。
思うままに。

ほんとうにそういう時代になってきたことと、この映画の高い評価。
そこには何らか関連があるように、私には思える。

二度目、観たいなとも思うし、吉田修一の原作も読もうかなと思っている。

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山本蛇内 yamamotojanai スキとフォローくだされば(気に入ってくださるなら、でね)十分なのであります! いつか有料記事に挑戦しますので、その時までチップ取っといてください笑

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