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【実録】 さっぱり風味の家族観 飼い猫のまなざしで見た、家族システム

まえがき:
このエッセイは、実家の父母姉に『トリプル依存体制』が築かれつつあるのを目撃している筆者こと、織(おり)による家族分析シリーズの第一回目。


第一章 : 家のルールは母が作る

まず、私の実家は、父・母・姉・私の4人家族。
いわゆる皆婚世代の、よくある家庭だ。
仕事大好きな父、専業主婦の母、波風立てないおっとりした姉、そして病気でハードモードな妹。
一応、「普通」の範囲に収まる家族構成だった。

父は仕事に没頭するタイプだったので、家のことはほとんど母が担っていた。自然と、家の中のルールや空気感も、母を中心に形づくられた。
母と父、母と姉、母と私、そうやって母を「ハブ空港」にして、それぞれが繋がり、私たちは、”家族”を形成した。

第二章 : 私の病気は家族にとって大問題

しかしながら、「病気でハードモードな妹」という要素は、一般的な家庭よりもずっと大変な状況をもたらした。

問題の発信源である私は、幼稚園から小学2年生のあいだ、喘息とアレルギーで、ほぼ毎日くたばりそうになっていた。
母はつきっきりで私の看病にあたり、時には入院もあった。
その間、当時まだ小さかった姉は、父とふたりきりで寂しい思いをしたこともあったと思う。
仕事が大好きな父も、夜中に喘息発作を起こした私を車で病院に連れて行くなど、決して楽ではなかったはずだ。

家族全員が、私の病気に巻き込まれていた。
その影響は、中学1年生で私自身が病気と向き合うようになるまで、そしてある程度自分でコントロールできるようになる中学2年生まで、断続的に続いた。

補足しておくと、小学3年生から6年生までは比較的落ち着いていて、中学受験でちゃんと結果を出すくらいの余裕はあった。
でも、そうは言っても、中学1年生までは、病気に対して、完全に母任せで生きていたので、その期間もまた、家族の時間をたくさん搾取していたと思う。

第三章 : 母の看護からの卒業

中学1年生のとき、私は母と一緒に、足摺岬にある土佐清水病院に入院した。
その入院生活は、私の意識をガラッと変えるきっかけになった。

それまで、私の身体の面倒を見ていたのは、なんと私自身ではなく —— 母だった。母は、娘の身体を看護することが自分の役目だと信じていたし、私も自分の身体に対する自覚が足りず、多くを母に委ねていた。

けれども入院生活を通して、私は思い知る。
自分には、自分の身体に対する責任感が欠けていると。あまりに無力で頼りなく、治してもらう側でいる限り、自分の病気は治せないことに気づいた。

退院後、私は母の看護を断り、自分の体は自分で面倒を見るようになった。すると、少しずつではあるけれど、症状を自分でコントロールできるようになっていった。
体力もついてきて、母が私にかかりきりになる必要もなくなった。
母が“解放”されると、自然と、私の病気が家族全体に与える影響も薄れていった。

第四章 : 皆のサンドバックな時期

中学後半から大学序盤まで、私の病気は落ち着きを取り戻していた。
時々炎症は起きていたけれど、その影響が家族にまで及ぶことは、もうなかった。

そうすると今度は、自由に行動できるようになった私の“在り方”が、家族の怒りポイントを沢山買うようになってしまった。

母は私によく怒った。そして父は、母が怒ると一緒になって怒るタイプだったので、同時に怒る。さらに姉も私に対して怒るので、気づけば「3対1」でキレられる日々が続いた。

当時の私は、なぜ自分だけが毎日全員から怒られるのか、正直よくわからなかった。
けれど今考えると、体力がなかった時期に散々迷惑をかけておいて、元気になったらなったで、親の言うとおりに育たず、好き勝手に行動し始めたことが、家族をイライラさせたのだと思う。

第五章 : イレギュラー過ぎる進路

私は元々、自分のやりたいことがはっきりしているタイプだった。
病気によって制限される場面は多かったが、それが落ち着けば、枷は外れ、自由に動けるようになる。

そんな私がとった行動の中で、両親が最も「ありえない」と感じたのは、親のすすめる進路を無視して、自分の望む進路に進もうとしたことだったと思う。

私たち姉妹は、中学受験をして中高一貫の私立進学校に通っていた。
父が良い大学を出ていたこともあり、母は「娘たちを、手に職をつけられる良い大学に行かせなければならない」と考えていた。

実際、姉は父母と相談しながら進路を決めていた。
一度は浪人したものの、有名な看護大学に進学した。
けれども妹の私は、デザインや映像といった芸術方面に進みたがった。
それは親にとって、あまりにも想定外な進路だった。
親の意向どおりにならない私に対して、父も母も、姉も、怒っていた。

第六章 : 『スピリチュアル処方箋』との出会い

一方、私は、自分だけが日々めちゃくちゃ怒られるので、グレそうになっていたある日 ——
江原啓之の『スピリチュアル処方箋』という本をたまたま手にした。そこには、こんなことが書かれていた。

「家族は、ただ血が繋がっているだけのシステム」
「魂を磨くために、今世で集められただけのチーム」

この一文を読んでから、「家族みんなにやたら責められても、気にすることないんだな。気にするのやめよう。これは学びの場であって、どうせ“今世だけのチーム”なんだから」と、家族の怒りを受け流せるようになっていった。
(家族からしたら、怒っても効かないので、ずっと3人を怒らせた)

家族の中で、スピリチュアルや神道にやたら詳しいのは、私だけだ。
それは、病気と向き合う長い時間と、このサンドバッグの時期を乗り切るためには、その視点を必要としていたからだと思う。

人生への俯瞰的視点やスピリチュアル的な考え方は、私にとって、病気を掌握して生きるため、そして、家族と精神的距離を保つための“知恵“であり“ケア“だった。
こうして私は、家族の怒りに巻き込まれずに、病気とも向き合いながら、自分の進みたい未来を見つめ続けることができた。

第七章 : 怒られ回避法を発見する

結局、芸術学部に進み、相変わらず、3対1でよく怒られていた大学時代のある日 —— 私はついに、家族の怒りを鎮める方法を発見した。

語尾に「にゃ」をつけとくのである。
それまで「わかった」と返事をしても、「あんたは全くわかってない!!」と一向に怒りが静まることはなかったが、「わかったにゃ」と返事をするようにしてみたら、3人とも拍子抜けして、その後に続く“追い怒り”を浴びないで済むようになっていった。
「にゃ」の効果は凄まじく、それまで一緒になってキレていた家族が、いつの間にか、「あんたはまったく…しょうがないわねぇ……」と、むしろ私に甘い家族になっていった。

こうして、精神的にも実際的にも、家族の怒りから解放された私は、家族の中で“自由気ままな猫”のようなポジションに落ち着いた。

いつも好きなご飯が用意され、就職先にも口を出されることなく、家族の期待に応える必要もない。病気からも完全に抜け出し、やりたい事に一生懸命、日々を楽しく過ごしていった。

第八章 : 観察する猫

念願だったクリエイティブの仕事に従事し、レジャー感覚での一人暮らしを経て、過ごしやすい日々の中でのびのびと歳を重ねていた、ある日のこと。私は、実家の母と姉の間に、強い依存関係が構築されていることに気がついた。

実は、姉は就職後に寮へ入り、一度家を出ていたのだが、30歳を機に仕事を辞めて実家へ戻っていた。母は父の退職金で家を建て替えており、姉を快く受け入れた。

母は、年齢を重ねても「お母さん」役を降りないタイプだ。姉もまた、よく母に寄り添うため、二人の関係は「母と娘」のままだった。
ちなみに私は、飼い猫のポジションである。

昔から、母は姉に滅多に怒らなかったが、それは大人になっても変わらなかった。30歳を過ぎて家事をまったく手伝わなくても、姉にだけは強く怒れない。私の分析によれば、母は、私の病気が酷かった時期に、姉に寂しい思いをさせたことを気にしていて、その“罪滅ぼし”のような気持ちもあって、姉には優しくしているのだと思う。(常に自分の味方を作っておく策でもあるとは思うが)

一方、姉も、母の献身的な看病をずっと見てきており、妹にかかりきりになりながら、家事をこなす母に深く同情していたと思われる。母のヒステリックさに対する受け取り方も、妹の私と姉では、おそらく全く別だったろう。だからこそ、どんな時でも母に寄り添い、母を否定しない。それが姉にとっての“愛情”なのだ。

—— ここで、思い出してほしい。私の中学1年生のときの事を。

母は、子どもにたっぷりの愛情を注ぐが、自立を促すタイプではない。
そこから自立するには、自ら母のもとを“離れる”必要がある。
母のやまない世話を受け続けると、自分を無力にしてしまう。そしてその世話には“支配”が含まれている。
それは、私が病気という形で、くしくも気づかされたことだ。

長らく“妹”という末っ子ポジションにいて、サンドバッグ的な時期も通過し、そして“飼い猫”として家族を観察してきた私には、この構図がとてもクリアに見えていた。
このままでは、いけない ——
私はそう、分かっていた。

第九章 : 家族を卒業する

病気のおかげで、私は「自分のことは自分でどうにかしなければいけない」という自立心を育てることができた。
また、家族にとっての“厄介者”という立場を経験したことで、精神的にも家族との間に距離を置くことができていた。

そうした積み重ねが、母が作り出す「永遠なる家族」から、私をそっと卒業させてくれた。

それまで私は、結婚なんてこれっぽっちも考えていなかった。
「あんたは病気で絶対に結婚できないから、ひとりで生きていけるようにならないとダメ」と育てられていたので余計に。
けれどふと、「試しに、結婚できるかやってみよう」そう思えたのだ。

まあまあ金があったのも大きい。
婚活にかかる資金も、その後の諸々の資金も、それなりに持っていた。(全部自分で当たり前に捻出していたら、式代の時に母から「なんで頼らないのよ」と言われた)

そうして私は、“飼い猫”から“人の嫁”へ。
自分の家族をつくる場所へと、立ち位置を変えた。

第十章 : そして

今、私は外から、実家の家族を見ている。
年齢を重ねながらも、同じ場所にとどまり続ける三人を。
誰も、その“役割”を降りていない。
台風の目にいる母を中心に、静かに —— しかし確実に、その全体像は変容しつつある。
父と母には、いずれ介護が訪れる。
姉は、私とは別の病気を発症してしまった。
私からすれば、その病気があっても、自分の家庭を築くことは可能だし、もしも何かを諦めているなら、諦めないでほしいと思っている。

けれど姉は、「イケメンが好きだから結婚しない」と言う。
それに加えて、実家暮らしが一番居心地がいいとも。
「どうせ早死にするし」と口にしていたらしく、どこか達観もしているようだ。

三人は、私とはいつも、“パワーの方向性”が違う。
「やってみる」「好きに生きる」「変化する」
そういう動きではなく、
「迷惑をかけない」「守り固める」「維持する」
そういう力で、三人は生きている。

三人はある意味で、ずっと、私の病気の“被害者連合”だ。
三人のパワーの方向性は今も似ていて、そのなかで、依存関係が強化され、深まっていく。

私は、もうその渦の中にいない。
ただ静かに、受け入れて見守るだけだ。
けれども、もしも求められれば、野良猫として、
風穴を開けに行くし、助けにも行く覚悟はできている。
 
 

母の支配や不安の受け皿にはならない。
“スケープゴート”の役割を拒み、
観察者である“飼い猫”であり続けた話。


    

家族分析シリーズの第一回目は、ここまでです。
また書く気になったら、「スケープゴートとマスコット」「ヒーローとロストワンとケアテイカー」「母の物語(祖母や兄弟姉妹との関係性、父との関係性など)」などなど読み解いていきたいです!

  
  

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