第5話:一緒にいるのに、孤独を感じる私ーASDと愛着障害の二人
※この物語はフィクションです。ただし、実際の心の葛藤や体験をヒントに描いています。
第5話 彼の子ども時代
ある雨の土曜日、私は彼のアパートにいた。
部屋はすっきりと片付けられていて、本棚には彼の愛する統計学や数学の本が整然と並んでいた。彼の部屋にいるだけで、彼の思考の秩序に触れているような気がした。
私は、ソファに座って彼が読み終えた雑誌を眺めていた。彼は、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かい、そこでふと立ち止まった。
「今日の降水確率は80%だったのに、こんなに雨が強いのは、なぜかな。嫌だな。」
ぽつりと、まるで独り言のように彼が言った。普段、感情的な言葉を口にしない彼が、珍しく自分の気持ちを言葉にしたから、私は少し驚いて、彼を見た。
「去年の今日も、雨だったね」
そう言って、彼は私の顔をじっと見つめ、少し考えてから
「うん。去年の今日は、図書館で数学の論文を読んでいた。君は、隣で寝ていたんだ」と言った。
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「本当、よく覚えているね。空が泣いているんだよ」
私がそう言うと、彼は少し首を傾げた。
「空は泣かないよ」
彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「そういうことじゃないの。詩的な表現って言うか、心の中の気持ちを表す言葉だよ」
私はそう言って、彼の方へ歩み寄った。彼は、難しい顔をして私を見ていた。
「僕、小さい頃から、そういうのが苦手だった」
その話を皮切りに、彼は堰を切ったように自分の子ども時代の話を語り始めた。
「僕は、1歳の頃の記憶があるんだ。父方の祖父が亡くなったのは、僕が2歳の時だったんだけど、両親が知らない祖父との思い出を話すと、いつも驚いていた」
やりたいことを我慢しない、大胆な子どもだったらしい。宿題は一度もやらず、テストでは常に100点を取った。彼のお母さんは、他の友達みたいに間違えてほしいと、本気で嘆いたそうだ。
「そういうので目立つことが恥ずかしい、テストの点数が悪くてって他のお母さんと同じように言ってみたいって言われたんだ」
彼はそう言って少し笑った。その姿は、まるで少年が昔の冒険を語っているようだった。
漢字の書き取り問題が大嫌いで、夏休みの宿題はいつも初日の登校日に居残りでやらされていたらしい。それでも、彼のノートにはいつも完璧な階段のステップが描かれていた。
「階段?どうして?」
「登るためにある。上に行きたいから」
彼はそう言った。
小さい頃は野球選手に憧れ、毎日お父さんと朝から練習をしていたそうだ。彼の父親は厳しく、「いじめられっ子がいたら、守ってやれ」といつも言っていた。彼は、お父さんに言われるまま、学校に来ない子たちの家を一つずつめぐり、一緒に学校へ連れて行った。
その話を聞いて、私は彼の胸にある強い正義感に触れた気がした。
「でも、記憶力がいいのも、いいことばかりじゃないんだ」
彼はそう言って、少しだけ顔を曇らせた。
「嫌なことや、悲しいことも、鮮明に覚えているから」
私は彼のその言葉に、胸が締め付けられるような思いがした。
この日、私は彼の心の奥深くに触れた気がした。
それは、彼が話す物理学の法則よりも、ずっと複雑で、美しい世界だった。彼の純粋さや、孤独な闘い、そして不器用な優しさが、私には痛いほどに伝わってきた。
私は、彼のこの孤独な世界に、少しでも光を灯してあげたいと思った。
けれど、同時に、彼の世界を理解することが、私にはとても難しいことのように感じられた。
彼の言葉は、まるで専門書を読み解くような口調だったけれど、私にはそれが、彼の精一杯の愛の言葉のように思えた。
彼は言葉で愛情を表現することはなかったけれど、彼が私に向けてくれる笑顔に嘘はなかった。
この日は、二人にとって、お互いの世界を少しだけ知ることができた、大切な一日になった。
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