ただただ、つらい時があるあなたへ ―30年前の出来事と『白骨の御文章』
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、この世の始中終、
幻のごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを
きかず、一生過ぎやすし。
浄土真宗の家で育った私にとって、
『白骨の御文章』の言葉は、幼い頃から耳に馴染んだものでした。
法要のたびに繰り返される、あの節回し。
「明日には二つの眼たちまちに消えて、白骨とのみ……」
人はいつか、ただの骨になる。
そんな当たり前のことを、私は子どもの頃から聞かされてきました。
けれど大人になり、人生の出来事をいくつも通り過ぎた今、
あの言葉は、ただの教えではなく、
むき出しの真実としてこころに残っています。
私の記憶の中には、どうしても消えない出来事があります。
今から30年ほど前。
私が子育ての真っ最中だった頃のことです。
父の兄の娘――
私にとって従姉妹のお姉ちゃんに、ある宗教に誘われました。
「私が入信しないと、子どもが死ぬと言われた」
彼女は切羽詰まった顔で、そう言いました。
迷信だと思いました。
けれど同じ親として、
子どもを失うかもしれないという恐怖だけは理解できてしまう。
信仰心の厚い叔母も泣きついてきました。
そして私は、時間を作り、
彼女たちが信じる場所へ連れて行かれました。
叔母が入会金10万円を払い、
首から掛けるお守りを渡されました。
私は望まないまま、その宗教に入信しました。
その、すぐ後のことでした。
父が亡くなりました。
62歳でした。
昨日まで、孫の保育園の迎えに行ってくれていた父。
笑顔で帰ってきていた父。
その父が、突然いなくなりました。
迷信だと分かっていても、
私は思ってしまいました。
もしかしたら、
父が身代わりになってしまったのではないか。
そう思わずにはいられないほど、
父の死はあまりにも突然でした。
それから月日が流れ、
父の兄――あのとき私を宗教に誘った従姉妹のお姉ちゃんの父である叔父が亡くなる時がきました。
叔父は10年ほど老人ホームにいました。
最期が近いと聞いて、私は何度も顔を出しました。
けれど娘である従姉妹は、叔父が生きている間に戻ってくることはありませんでした。
葬式もありませんでした。
枕経もなく、一日以上そのままにされ、
線香さえあげさせてもらえませんでした。
当時の私は、どうしてすぐにお坊さんを呼んでくれないのかと、
ずっと思っていました。
早く枕経をあげてもらって、
叔父に線香を灯してあげたい。
ただ、それだけでした。
それなのに時間だけが過ぎていく。
どうして娘である従姉妹のお姉ちゃんは、
こんな状況で平気でいられるのだろう。
そんな怒りのような気持ちを、
抱えていたことを思い出します。
次の日、火葬場でただ燃やされるだけ。
お坊さんも来ない。
案内の人の「合掌」という声だけが、静かに響いていました。
※地域の慣習で、枕経をあげてもらうまでは線香をつけてはいけないと言われていました。
そのため、私たち身内でさえ叔父に線香をあげることができませんでした。
また、線香の煙にのってあの世(お浄土)へ旅立つという言い伝えもあり、
一度つけた線香の火は、お葬式が終わるまで絶やしてはいけないとも言われていました。
だからこそ、まず枕経をあげて仏前を整え、
それから正式に手を合わせるという順番が大切にされていたのだと思います。
死というものに真剣に向き合ってきたつもりの私には、
叔父の最期がどうしても耐えられませんでした。
大好きだった叔父の人生が、
最後にあまりにも情けのない形で終わっていくように思えたのです。
悔しくて、悲しくて、私は泣き叫びました。
そしてその時から、従姉妹のお姉ちゃんを嫌いになりました。
死ぬ前くらい・・・
どうしてあんなに冷たくできるのか。
理解できませんでした。
今の私は思います。
もし自分が死んだとき、
立派な葬儀でなくてもいい。
YouTubeのお経を流してくれるだけでも、
誰かが静かに手を合わせてくれるなら、
それで十分なのかもしれない、と。
もしかしたら叔父も、
あの静かな最期を
嫌だとは思っていなかったのかもしれません。
それでも、当時の私は
どうしても叔父にお経をあげたかった。
檀家のお坊さんに事情を話し、
叔父のためにお経をあげてもらいました。
後から知りました。
叔母もまた、
自分の弟である叔父のために
同じように檀家のお坊さんに頼み、
お経をあげてもらっていたそうです。
私たちは
同じことをしていました。
そのあと、夢を見ました。
叔父だった気もします。
もしかしたら、父だったのかもしれません。
今となっては、もうはっきり思い出せません。
ただ、その人は
とても嬉しそうな顔をしていました。
その表情だけは、
なぜか今でも覚えています。
人のあわれを考えるとき、
私の頭に浮かぶ言葉があります。
浄土真宗の法要で、
子どもの頃から何度も聞いてきた
『白骨の御文章』です。
「それ、人間の、はかなきことは……」
人はどれほど悩み、怒り、祈り、
誰かを愛して生きても、
最後はみな、
白骨になる。
頑張って生きたい気持ちと、
どうしようもない気持ち。
一分一秒をつないで生きているのに、
すべてが砂のようにこぼれていく。
それがきっと、
「はかなきこと」なのだと思います。
筆を置きます。
あなかしこ、あなかしこ。
あなかしことは、
昔の手紙の結びに使われた言葉で、
「どうか、あなたが無事でありますように」
という祈りの意味があるそうです。
ただただ、つらい時間を過ごしているあなたへ。
それでも、どうか生きていてほしいと願っています。
そんな祈りを、
そっと添えておきます。
あとがき
従姉妹のお姉ちゃんも、
やはり叔母のことは気になるようです。
数えで百歳になる叔母のところへ、
ときどき様子を見に来ていると聞きました。
人生にはいろいろな出来事があって、
人の気持ちも、時間とともに変わっていくものなのかもしれません。
叔母が亡くなったとき、
私たち姪に知らせが来るのかどうかは分かりません。
もし知らせが来て、
従姉妹たちと顔を合わせることがあったなら、
そのときは、
みんなで穏やかに見送れたらいいなと思っています。
※記事の中で触れた『白骨の御文章(白骨章)』はこちらです。
浄土真宗の葬儀や還骨法要などで拝読される、
蓮如上人の御文章です。
ご興味のある方は、静かな時間の中で
一度耳を傾けてみてください。
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