人は、もっとも小さな自然 03|なぜ人類は「発展」を手放せないのか
人類は長い歴史の中で、様々な物語を語り継いできた。
紀元前2100年頃に成立したギルガメシュ叙事詩では、英雄ギルガメシュが森の守り神フンババを殺し、その森からレバノン杉を切り出して神殿と都市を築く。旧約聖書の創世記では、神がアダムとイブに「地を従わせよ、すべての生き物を支配せよ」と命じる。これらの物語は、自然を克服し「支配」することで人間が「発展」していくという世界観を示している。
一方、ネイティブアメリカンのイロコイ族に伝わるスカイウーマンの物語では、天界から落ちてきた女性を動物たちが助け、亀の背中に土を積み上げて大地を作る。アイヌの神話では、人間はカムイ(神)である動物たちに助けられ、食べ物を与えられて生きている。これらの物語は、人が自然の神々に助けられ、共に生きる存在であることを物語っている。
これは、どちらが正しく、どちらが間違っているという話ではない。「支配/発展の物語」は、農耕や都市文明、そして産業革命を経て、人類の生存圏を拡大させた。
一方、「共存/循環の物語」は、一万年以上も存続した縄文社会のように、環境との持続的な関係を可能にした。どちらも、状況に応じて人類が生き延びるために必要な知恵であった。
問題は、近代が「支配/発展の物語」だけを選び、もう一方の選択肢を忘れてしまったことにある。生物科学は進化の前進を完全に否定し、システム科学は社会も一方的な発展ではなく適応サイクルだと示している。しかし、なぜ、私たち人類は「発展」という物語を手放せないのだろうか。
そこには、二つの系譜がある。
一つは、マックス・プランク研究所を中心とする近年の研究によって示された、生物学的変異に基づく系譜である。約10万年前から加速したとされる人類の脳の「球状化」や、遺伝子変異(TKTL1)に関与すると考えられている新皮質ニューロンの増殖は、人類にいわば「チップとOSの刷新」とも呼ぶべき認知能力の変化をもたらしたと考えられている。
この刷新は、虚構(神話)を共有し、抽象的な秩序を信じる力を人類に与えたとされる。一方でそれは、世界をより精緻に分類し、境界を引いて理解する思考様式を可能にし、結果として、事象を対立項として処理する傾向を次第に強めていくことに繋がったのではないだろうか。
文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが神話分析を通じて示したように、人間の思考はしばしば、天と地、昼と夜、内と外といった対立項を軸に構造化される。この傾向は、人類の思考に見られる基本的な特徴の一つであり、神話という象徴的な体系のなかに、繰り返し現れてきた。
こうした分節化の力が、「人」と「自然」を切り分けて捉える認識を生み出し、やがて「支配/発展」という世界観を強化する土台となっていったのかもしれない。
もう一つの系譜は、十九世紀の哲学者ヘーゲルによって体系化された「弁証法」という思想的枠組みである。
テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)の対立を、ジンテーゼ(合)へと止揚(アウフヘーベン)するこの論理は、対立そのものを否定するのではなく、それを通じて、より高次の段階へと「上昇」していく運動として肯定した。
もし認知の変容が、無意識のレベルで二項対立的な理解の痕跡を残していたとするならば、ヘーゲルはそれを、歴史を前進させるための意識的な方法論へと昇華させた思想家であったと言えるだろう。二項の対立は、より高次の統合へ向かう運動として価値づけられ、ここに、二項対立を通じた無限の「発展」が正しいと信じる哲学的根拠が与えられた。
「循環」ではなく「上昇」。この図式が、近代の進歩史観を支える重要な哲学的基盤となっているのである。
しかし、本来の人類がもつ英知とは、どちらかの物語に縛られるものではないはずだ。
発展と循環は排他的な二者択一ではない。状況に応じて、どの枠組みを採用するかを選び直せること。すなわち発展が必要な局面もあれば、循環を優先すべき局面もある。その双方を必要に応じて切り替えられることが、本来の人類が持っている柔軟な叡智ではないのだろうか。
仏教は、この知恵を「不二」と呼んだ。二つに見えるけれど同じ一つのもの、という教え。対立しているように見えるのは、人間の分別知がそう見せているだけである。支配と共生、発展と循環もまた、同じ人類の知恵の両面であり、どちらかを「善」「悪」と裁くこと自体が、分別知の罠なのかもしれない。
私たちは今、忘れていた選択肢を思い出す時期に来ている。発展を否定するのではなく、発展だけに世界を単線化しないこと。円環的な思考を取り戻し、状況に応じて枠組みを選び直すこと。
その第一歩は、なぜ私たちが「発展」という枠組みに拘束されやすいのかを見極め、自然と人との関係をもう一度、冷静に見つめ直すことから始まるのだろう。
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