デジタル・ブック『失われた書聖の真筆』制作ノート(4)
第4章 出蔵と除物の制度
正倉院は、宝物を単に保存する倉庫ではなかった。
奈良時代から平安時代初期にかけて、そこは「使用するための宝物庫」でもあった。
宝物は、儀式や宮廷行事、学問や修練のために、時に外へ持ち出されたのである。
この「持ち出し」を指すのが出蔵(しゅつぞう)である。
出蔵には、持ち出した宝物の品目・数量・持ち出し日を記す「出蔵帳」が作られた。
そして用が済めば返納し、その旨を記録した「返納文書」が残るのが原則だった。
例えば、延暦3年(784)3月29日付の「王羲之書法返納文書」には、
「義之書法八巻」と明記され、巻ごとの紙質・軸の材質・装丁が細かく記録されている。
これは王羲之の書が実際に出蔵され、返納された事実を示す一次史料である。
※注:この文書は宮内庁正倉院事務所の目録で「北倉171」として閲覧申請可能。
しかし、出蔵された宝物がすべて戻ってきたわけではない。
ある時点で「除物(じょぶつ)」とされると、宝物は正倉院の管理台帳から外される。
除物となった品は、別の寺院へ移されたり、宮中で常用されたり、場合によっては特定の人物に下賜されることもあった。
除物の問題は、その後の所在が必ずしも記録されないことにある。
台帳から外れた時点で管理の手が離れ、やがて行方不明になるケースが多かった。
つまり、制度上「合法的に」宝物が倉を出て、そのまま歴史から姿を消す道筋が用意されていたのである。
実際にこの制度が働いた具体例が、陰宝剣・陽宝剣である。
この一対の剣は『東大寺献物帳』に記載されていたが、後に「除物」付箋が付けられ、正倉院を出た。
その後、大仏殿の蓮台内部から発見され、移動の痕跡が明らかになった。
※注:この事例は、宝物が出蔵・除物されても後に再発見される可能性を示す希少なケース。
王羲之や王献之、欧陽詢の真筆も、同じ経路をたどった可能性が高い。
『国家珍宝帳』に記された「王羲之書法二十巻」のうち、延暦3年に返納されたのは八巻だけである。
残り十二巻は、返納記録がなく、除物によって正倉院を離れたと推測される。
では、なぜ除物が行われたのか。
一つは実用のためである。真筆は学習や臨書の手本として用いられたため、頻繁に倉から出された。
また、儀礼や贈答の場面で権威を示すために利用されることもあった。
もう一つは価値判断の変化だ。
時代が下るにつれ、宝物の真贋や実用価値の評価が変わることがある。
真筆とされていたものが摹本と判定されれば、正倉院の「至宝」からは外されることもあった。
※注:これが史料における「真筆」呼称の揺らぎである。
制度的には正規の手続きであっても、結果として文化財が散逸するリスクは極めて高かった。
特に書跡のように小型で持ち運びやすい品は、そのまま個人の所蔵品となり、やがて遺失・焼失する危険が大きかった。
こうして、正倉院から出された王羲之の真筆は、いつしかその姿を消した。
後世に残ったのは、光明皇后や平安時代の能書たちによる臨書、あるいは唐代の双鉤填墨本のみ。
それらは真筆の面影を伝えるが、あの紙にあの時の墨が宿ることは、もうない。
出蔵と除物の制度は、当時の文化財活用の柔軟さを示す一方で、
現代から見れば、かけがえのない宝を永遠に失わせる要因ともなったのである。
