デジタル・ブック『失われた書聖の真筆』制作ノート(2)
第2章 天平文化の黄金期
8世紀半ば、日本は奈良の都・平城京を中心に、かつてない文化の開花を迎えていた。
この時代を、後世は「天平文化」と呼ぶ。豪華な文物と深い精神性を併せ持つこの文化は、唐との活発な交流によってもたらされた。
当時の国際情勢を振り返れば、その特異さがわかる。唐(618~907)は東アジアの超大国であり、政治・経済・文化の中心であった。周辺諸国の多くが唐に朝貢していたが、日本は単に従属するのではなく、自ら大使を派遣し、直接学び、持ち帰った。それが「遣唐使」である。
遣唐使は国家の威信をかけた大事業だった。当時の航海は命懸けであり、途中で遭難し命を落とす者も少なくなかった。それでも、唐の最新の学問・宗教・芸術を吸収するため、原則二十年ごとに派遣された。代表的な人物には、後に平安初期の仏教界を担う最澄(767~822)や空海(774~835)、そして三筆の一人である橘逸勢(たちばなのはやなり、782~842)がいる。
唐で得られるものは多岐にわたった。仏教経典、医学書、天文暦法、建築技術、音楽や舞踊、そして美術工芸――そのすべてが日本の文化水準を押し上げた。そして、その中でも最も高い価値を持ったのが「書」であった。
書は単なる文字の記録ではない。当時の貴族社会では、手紙、詩文、儀礼文などあらゆる場で書が用いられ、その筆跡は人格や教養を映し出すとされた。「書は人なり」という価値観は、言葉としては後世のものだが、奈良・平安時代にも通じる考え方であった。※注:当時の貴族は書風をもって人柄を判断する傾向があった。
唐に渡った留学生や僧侶たちは、ただ学ぶだけでなく、現地で珍重される文物を入手した。その中には、唐の宮廷から下賜された品や、文人から贈られた書跡もあった。こうして日本に到来した宝物は、宮中や寺院に収められ、国家的な至宝として守られることになる。
その象徴が正倉院である。東大寺の大仏開眼(752年)後、聖武天皇(701~756)は崩御に際し、遺愛品の多くを残し、光明皇后(701~760)がそれを東大寺に献納した。これによって正倉院は単なる倉庫ではなく、国家的文化財庫となった。
献納品の中には、宝石や織物、楽器、薬に混じって、数々の書跡が含まれていた。『東大寺献物帳』には「大小王真跡帳」という記載がある。「大小王」とは王羲之(303~361)と王献之(344~386)父子を指す。つまり、日本はこの時点で、世界的にも希少な二人の真筆を所蔵していたことになる。
さらに、「白碧牋紙 欧陽詢真跡屏風」という記録も残る。白碧牋紙は唐代の高級紙であり、その上に欧陽詢(557~641)の筆跡を配した屏風は、王侯貴族の室内を飾るにふさわしい逸品であった。
また、『国家珍宝帳』には「王羲之書法二十巻」との記録が見える。これは二十巻にわたる王羲之の書法集であり、真筆もしくは極めて精緻な摹本だった可能性がある。
※注:唐の皇帝でさえ容易に所蔵できなかった王羲之真筆が複数巻、日本に存在していた事実は特筆すべきことである。
天平文化の輝きは、このような国際的交流と文化財保護の体制によって支えられていた。正倉院の宝物は、単なる贅沢品ではなく、国家の威信と文化的成熟を示す証だった。
しかし、この黄金期は永遠ではない。宝物は時とともに出蔵され、あるものは返納されたが、あるものは除物として正倉院を離れた。その行方は記録を失い、やがて歴史の闇に沈んだ。
天平の宮廷が築き上げた文化の高み――その頂点にあった王羲之・王献之・欧陽詢の真筆は、やがて日本からも姿を消し、後世に深い影を落とすことになる。
