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いちどきりの、あんぱん

同じ空気を吸っているはずなのに、
ある人は何も起きず、ある人は崩れる。

同じ街を歩き、同じ季節を生きているのに、
片方は平然としていて、もう片方は耐えきれない。


その差は、本当に外のせいだろうか。



空気は確かに変わった。
水も、食べ物も、昔とは違う。



見えないものは増え、
人はそれを“原因”と呼ぶようになった。



だから外を疑う。
環境を疑う。



それは自然なことだ。



だが、それで説明がつくなら、
同じ環境で崩れない人の存在は、どう説明する。



同じものを吸い、同じものに触れているのに、
反応はまるで違う。



ここで一度、前提を疑う必要がある。



人は、
外から来るものに反応しているのではない。
内側の状態に従って、外を解釈している。

身体は常に選別している。
通すか、拒むか。

その判断は一瞬だが、
基準は長い時間をかけてつくられる。

何を食べ、何を取り込み、
何を当たり前にしてきたか。


その積み重ねが、見えない基準として沈殿する。


満たされた身体は、揺れない。
多少の刺激が来ても、受け流す余白がある。

だが、内側が欠けた身体は違う。
わずかな変化にも過剰に反応し、
外へ押し出そうとする。


それは異常ではない。
ただ、今の状態に対して正確な反応をしているだけだ。



人は外を変えようとする。
空気を疑い、環境を疑い、原因を外に置く。



だがその視線は、どこかで逸れている。



本来向けるべき場所から、目を背けている。



何を取り込み、
何を削り、
何を当たり前にしてきたのか。



その問いを避けたままでは、
何も変わらない。


人は、内側の状態でしか生きられない。

どれだけ理屈を並べても、
どれだけ外を整えても、
内側が崩れていれば、すぐに限界が来る。



常に自分を削って生きている。


朝、少し削る。
昼、さらに削る。
夜、気づかないまま削り続ける。

与えれば減る。
減れば弱くなる。



それでも多くは、削ることに慣れている。



まだ動ける。
まだやれる。

まだ大丈夫だと、言い聞かせながら。
満たされなければ、立つことすらできないのに。


どこかで見たことのある姿だと思わないだろうか。



それは特別な話ではない。

私たちも同じだ。

日々、何かを削りながら生きている。
時間を削り、体力を削り、意識を削り、
そしてそれを補うことを後回しにする。


その代償は、静かに内側に積もる。


やがて身体は、それに応じて反応する。

外のせいではない。
内側の結果だ。

人は、食べたものでできている。


それは単なる言葉ではない。

判断基準であり、反応そのものであり、
その人間の限界そのものだ。

背けた視線の先に、原因はない。

あるのは、
見ようとしなかった内側だけだ。


それがどれだけ当たり前で、
どれだけ危うい構造なのか、
気づいている人は少ない。

……まあ、こんな話をしておいてなんだが。


私は、シンプルにあんぱんが嫌いだ。

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