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〝瀬織津姫〟から〝空海〟へ その❶

〈私はだれでしょう?〉

 ひょんなところで目にした「記紀における三つの謎」という記事がキッカケで〝瀬織津姫〟を追いかけて、もう3年も経ってしまった。なかなかに追いかけ甲斐のある比売神様であります。正体が掴めそうでスルッと逃げていくという繰りかえしで、ややストーカー的な気分になってしまうのは、ついつい不思議な麗しさに眩まされるからでしょうか。
 残りの二つ、〝富士山〟もなぜ記紀(古事記・日本書紀)で描かれないのだろうか? そして、〝阿波〟も何ゆえに神話ワールドの舞台とならないのか? これもまた食指が伸びるところですが、記紀を編纂した当時の権力者たちの思惑なり、地政学的な考察を重ねると、この二つの舞台を隠したほうがスンナリと自分たちの都合のよい歴史を構築できたのだろう、という点は何となく了解できます。(諸説芬々ありますが)
 しかし、〝瀬織津姫〟についてはなかなか腑に落ちてこない。一体、どこで産まれ落ち、どこを彷徨い、何と関わって、どう祀られ、そして何ゆえ隠されることになったのか?ここ数年のブームの中では、スピリチュアルな存在に人気が集まっていますが、その霊性だけでなく、何だか妙に人間臭い出自にも魅力がある。貴いお姫様のようでもあり、また私たちのすぐ身近にいる愛らしい妖精のようでもあり、そのミステリアスで多面的なキャラクターに沼ってしまうのも致し方ないところです。

五十鈴川・伊勢神宮公式サイトより

 「祓へたまえ〜清めたまえ〜 速川の瀬にいます瀬織津比売〜〜」

 大祓は、日本人であれば、様々なシーンで幾度もお世話になる祝詞です。はじめに様々な罪が挙げられ、それらを祓戸四神が清め流していく様子を、八百万の神に聞いていただくものです。罪の穢れを谷川から海へと流し去るのが瀬織津姫の役目です。残り三神(速開都比売、気吹戸主、速佐須良比売)は、海の中、根の国、底の国へと連携よく、穢れを清めていきます。現代における上水道・濾過システムのように手際良く浄化していきます。この神様たちは、浄化という機能神であった故か、何かの神話エピソードで特に取り上げられることもなく、出自も定かではありません。(速開都比売だけは古事記に記載あり)
 ところが、鎌倉時代後期あたりから伊勢外宮の神官たちが、内宮よりも外宮の神威を高めるべく、また仏教化した神道を本来のお祀りへと戻そうと、〝豊受大神=瀬織津姫〟という神学説を唱え始めました。理論武装を始めたわけです。ここで初めて〝瀬織津姫〟という大祓の詞の中にしかいなかったはずの姫様が、「私はだれでしょう?」という感じで重要なキーパーソンとして登場してきたのです。
 ここでちょっと伊勢神宮の成り立ちを乱暴にまとめてみます。大した根拠のない直感的な異説としてお読みください。(大半はAIに調べてもらいました)

〈伊勢神宮の誕生〉

 10代・崇神天皇(卑弥呼の弟)の時に戦乱・疫病などの厄災を収めるために天照大神(アマテラス)は宮中から追い出されます。崇神一族は、何かしらアマテラスに畏怖感をもっていたのでしょうね。そうでもないと自分たちの守護神と離別する理由がありません。その代わりに三輪山をはじめヤマト周辺を地主神であった〝大物主〟に守らせ、混乱を収めます。
 この〝大物主〟こそ〝大国主命〟だという定説を拝借すると、アマテラスが皇祖である天孫の崇神一族が、この時にスサノウを皇祖とする国津神をヤマト王権に招き入れたという訳です。
〝大物主〟の本来の姿は「蛇」であるという伝承が強く、 龍神(水神・雷神)として〝スサノウ(出雲族)〟の血脈がダブります。一方、アマテラスは崇神の命を受けた豊鍬入姫によって、まず大和の笠縫邑(現在の奈良県・檜原神社)で祀り、その後丹波の籠神社に祀られたとされています。
 籠神社は〝瀬織津姫〟を考察する上でとてもキーになる重要な神社です。現在の御祭神は彦火明命(ニギハヤヒ)ですが、相殿神にはアマテラスと豊受大神が坐しておられます。更に奥宮である真名井神社では、アマテラスと豊受大神が、太陽神と月神として夫婦神のようにしてセットで祀られています。(冒頭の写真)

 崇神天皇が崩御し、11代・垂仁天皇の時には、改めて皇女・倭姫命によって、アマテラスの長い〝御杖代(みつえしろ)の旅〟がはじまります。近江、美濃などを転々として、20年以上の歳月をかけて最終的に伊勢国に落ちつき、現在の外宮辺りに祀られたものと想像します。(訳は後述)
 このアマテラスの巡幸ルートの示す意味は、稲作と鉄器の弥生文化を全面に押し出したヤマト王権(崇神一族)の勢力拡大図(ロードマップ前半)そのものだと思われます。ここから先は、東夷(まつろわぬ人々)たちの東国(日高見国?)となります。伊勢の地は、その東国支配の足場とすべき橋頭堡的な意味合いの存在となります。そこに最高神を祀ることで、東国に対する睨みを利かせ、自らの勢力圏の境界線をはっきりと引いたのです。
 この段階(4世紀後半)では、アマテラスは男神だったと思われます。浅薄な感想でしかないですが、そう考える方がとても自然なようです。

伊勢神宮公式サイトより

〈雄略天皇の夢〉

 21代・雄略天皇の夢に天照大御神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ=豊受大神)を近くに呼び寄せるように」と神託したと「止由気宮儀式帳」にあり、この神託によって、丹後にある籠神社の奥宮・真名井神社から豊受大神が現在の外宮に〝お食事係〟として遷座された訳です。
 これはリアルな歴史としては、伊勢を「精神的な聖地」としてだけでなく、丹後の先進的産業を導入することで、東国遠征を支える「巨大な物資・経済・兵站(ロジ)の総基地」へと昇格させたものと考えられます。アマテラス(男神=軍事・精神の象徴)とトヨウケビメ(女神=食糧・物資・生産の象徴)という男女神の神的エネルギーを両輪として、国家の安泰を再構築するという政治的なアップバージョンだったとも言えます。
 丹後・日本海側と伊勢・東海地方との地政学的なつながり、政治的統治と祭祀的統治が見事に合致したという訳です。もっと都市伝説風に深掘りすれば、天孫系の崇神王朝と海部・尾張ら残存する出雲系勢力とのコラボイベントだという考察も大いにあり得ます。

〈天武王朝での再定義〉

 その後の壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(40代・天武天皇)が、伊勢神宮へ戦勝祈願したという話が日本書紀にあります。このあたりからファンタジーな神様のお話しではないリアルな伊勢神宮の姿がはっきり見えはじめます。
 「迹太川(とおがわ)の辺りで天照大神を望拝した」という記述は、神宮の社殿で参拝したという風にはみえません。吉野を下りて東国へ向かう途中、伊勢国朝明郡の迹太川(現在の四日市市・米洗川か?)に差し掛かった際、昇る太陽に向かって天照大神を望拝したのでしょう。このことが乱後の伊勢神宮の立場を決定づけました。
 自ら武力で勝ち取った天武天皇は、強力な天皇専制政治を行うべく、様々な施策を実行しましたが、一つに政治的ランドマークであった伊勢神宮を皇祖神(天照大神)を祀る国家最高級の聖域として再定義し、神宮に未婚の皇女を派遣する「斎王(さいおう)」制度・式年遷宮制度を確立させました。
 社殿や神宝を常に新しくすることで、神様の生命力や神威をいつまでも若々しく保つという意味合いの「常若(とこわか)」の思想に基づいた神域、つまり、現在の伊勢神宮(内宮・外宮)の姿が、この時に誕生したと言って良いでしょう。
 私は、ここでも天武はアマテラスが男神だと認知していたと思います。その天武自身がアマテラスを女神へと変容させようとしたのか? それとも臨終を迎えて皇子を託した皇后(41代・持統天皇)ともにその戦略を考案したのか? それとも死後、持統天皇と藤原不比等とで画策したのか? ともあれアマテラスは、この辺りで女神として崇められることになってしまいます。
 女神としての皇祖神アマテラス(天照大神)を大いにアピールし、その威光をバックに持統天皇は伊勢行幸の大イベントを行い、この後も1300年も続く皇統システムを確立します。しかしながら、明治までに至るまで1000年以上、歴代天皇は伊勢参拝を行われなかったという不可思議を後世に残します。

伊勢神宮公式サイトより

 話を〝瀬織津姫〟に戻しましょう。

 内宮はアマテラス(天照大神)、外宮はトヨウケビメ(豊受大神)というハイブリッドな聖地となった伊勢神宮ですが、トヨウケビメが食事係だという関係はどうしても主従の印象は拭えません。
 時代はさらに下って鎌倉後期頃から外宮の神官(度会一族)が、アマテラスと同格、もしくはトヨウケビメの方が神格は上だろうと主張しはじめます。イザナミがカグヅチ(火の神)を産んで亡くなる時にも身体の数々から神様が生まれますが、尿(ゆまり)から生まれでたのが、ミツハノメやワクムスヒと共に生み出された水と五穀と蚕の尊い神がトヨウケビメであることを再認識しろという訳です。(ミツハノメは、アニメ〝君の名は〟のモデルで瀬織津姫だとも言われる) 
 そして、ついに・・・
 『天照大神の荒御魂は、イザナギの禊で生まれた八十枉津日神(禍をもたらす穢れの神)とされ、その別名が〝瀬織津比咩(瀬織津姫)〟である』と、倭姫命世記でもって明記します。さらに、鏡の中に座す(封じ込められた)姿で祀られていると記され、これが「封印された女神」説の源流の一つとなっています。

 こういう主張がはじまった社会背景の一つに、飛鳥から平安時代にかけて祭祀的統治は仏教の力を頼るようになったことがあります。そのため朝廷からの援助が削られ、神宮の経営が苦しくなったという台所事情がおおいに影響したのでしょう。内宮と外宮は別世帯で、それぞれ荘園などの経済基盤を自分たちで確保していかなければなりません。そこで外宮は、決して内宮に追随している訳にいかなかったのです。「伊勢神宮の本体は外宮にある」と主張し始め、多くの援助・加護を求めたのです。

式年遷宮・伊勢神宮公式サイトより

〈神か仏か?〉

 その数百年の間に、神宮だけでなく神道そのものに試練がおとずれていました。朝廷は、仏教の布教に力を注ぎます。明確な教義を持たないアミニズム的な神道では、国家の形成、社会の安定が保てないと〝鎮護仏教〟へ舵を切り、僧侶たちも「お社に坐るのは実は仏で、神の形を借りてているだけだ」と〝本地垂迹説〟でもって、八百万の神を切り崩していきます。(このあたりから少しずつ空海の気配が感じられてきます)

・天照大神(アマテラス)= 胎蔵界大日如来
・豊受大神(トヨウケビメ)= 金剛界大日如来

 この仏教側の本地垂迹説を逆手にとって利用したのが、神官・度会行家です。
「ともに本地は〝大日如来〟アマテラス様そのものです。単なるお食事係ではないでしょう」天照大神の荒魂である豊受大神(金剛界)の真の正体は、宇宙で最初に現れた根源神である〝天之御中主神〟や〝国常立尊〟である。彼らが太陽や物質を造られたのだから、根源的な存在は金剛界の豊受大神なのだとロジックバトルを始めました。
 そして、八十枉津日神(やそまがつひのかみ)として、その穢れを、神路山から流れおちる五十鈴川で、自らを清め流す姿こそ〝瀬織津姫〟だという同一神(=二面性)に押し込めて、外宮の独自性を際立たさせました。
 先に倭姫命が伊勢にアマテラスを祀ったのは、外宮あたりだと述べましたが、内宮あたりには古くからの産土神が祀られいたものと思います。森深い神路山の渓谷から流れるくる神路川と島路山の谷を流れる島路川が合流して五十鈴川となり、川幅が広がり堆積土が〝野〟を作ります。そこから里をながれ海に出ていく、こういうロケーション、山と里との〝境界〟あの世とこの世の接点に立ち現れる縄文の女神こそのちに〝瀬織津姫〟と命名される産土神さまそのものでしょう。大祓の祝詞に描かれるイメージがぴったりではありませんか。

 やっと〝瀬織津姫〟の追跡譚の端緒についたばかりですが、大晦日・除夜の鐘も間近となってきました。この続きは、新年・午年に繋いでいきたいと思いますので、ここで一旦休憩させてください。
 私は、歴史愛好家でも神話マニアでもありません。ごく一般的な低山ハイカー(遊歩クリエーター)です。〝山中異界〟と言いますが、山の中で見聞きし感じたことを現世に持ち帰って、ツラツラ書きつらねている暇人です。この〝瀬織津姫〟も六甲山上にある磐座群でみかけた〝六甲比売大神〟との出会いから始まっています。
 調べ始めると、〝瀬織津姫〟と六甲山の関係の中で、重要な位置を占めるのが〝空海〟だということが浮かび上がってきました。空海も六甲山との密接な関係をうかがわせます。場合によって〝高野山〟ではなく、六甲山に聖地を築こうとしたのではないかと思わせるほどの関わりを感じさせます。暴論かもしれませんが、仏教者である彼こそが実は縄文神道を護ろう(再生しよう)と瀬織津姫を隠蔽した本人なのではないかと疑っています。
 まあ、その辺まで話を進めるには、まだまだ時間がかかりそうですが、新年よりじっくりと連載していきたいものと一年の計を立てた次第です。

令和七年 大晦日

朝熊岳・金剛證寺 (公式サイトより)
昔より伊勢神宮の鬼門を守る寺として、神宮の奥之院ともいわれ「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の俗謡にも唄われ、参宮する人々は当寺に参詣するのが常でありました。 当山の草創は古く欽明天皇の頃、暁台上人によって開かれ、平安時代には弘法大師(空海)によって堂宇が建立され、密教修業の一大道場として隆盛を極めました。

つづく
〝瀬織津姫〟から〝空海〟へ その❷ 六甲比命とは?


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