〝瀬織津姫〟から〝空海〟へ その❷六甲比命とは?
六甲山のどこに瀬織津姫はいるのか?
前回は、古代史ロマン的な〝瀬織津姫〟との時空を超えた出会いを語りましたが、今回は、かの姫と同一神だと見做されている〝六甲比命〟(ムカツヒメ)との六甲山中での出会いをお話しましょう。
昨年、私が有志と共に立ち上げたハイキングサークル「六甲遊歩会」の40周年行事が神戸市内で開催され、OBとして招待を受けていました。その際に、久しぶりに六甲山に足を運んで、気がかりな〝瀬織津姫〟の足跡を追ってみようと、山上のとある〝山小屋〟を予約するところから、いくつかの縁がゆらぎはじめ、思わぬドラマが展開していくことになりました。
三ノ宮のビジネスで一泊して、朝から登って磐座群を廻るには時間があまりにも足りない。山上のどこかに手頃な宿泊所がないものだろうかと在神の古い山友にメールで問い合わせてみた。
「六甲遊歩会」が5周年を迎えたあたりは、活動も勢いづいて、様々なイベントやプロジェクトに挑んでいた。その内の一つに〝六甲山に山小屋を建てよう〟という構想が持ち上がった。(とは言っても、このプランをゴリ押ししたのは私のみで結局は賛同を得られずにボツったが)
山上一帯には、観光客向けのホテルや企業や学校などの合宿施設がいくつも在ったものの、避難小屋の機能があって、登山客・ハイカーの交流や情報共有できるような宿泊空間があの当時には無かった。時代を経て、昨今の多様なアウトドアブームのおかげでしょうか、やっと六甲山にも〝山小屋〟と銘打ったスペースが誕生しておりました。まあ、〝要予約〟なので厳密な意味での〝避難小屋〟とは呼べませんが、それが「人が自然に還る場所」と銘打った『FOTON』という名の山小屋でした。
この山小屋のポストカード画像が、山友から転送されてきた。さっそく予約を入れると、まだ空きがあるとのこと。ついでに山友たちにも誘いをかけると、3名が同行してくれるとのことで一週間後に四人で訪れることになりました。
入山異郷、瀬織津姫に導かれている?
六甲ケーブル山上駅からドライブウェイをほんの5分ほど歩いたあたりに、細いクマ笹に覆われた沢に下る小径があって、しばらく降ると個人の別荘をリニューアルしたこじんまりしたゲストハウス風の建物が谷間の源頭辺りにたたずんでいました。
麓のケーブル下駅付近からも、いくつかの登山ルートはある。駅のすぐ側を流れる六甲川を遡行していく山上への最短ルート〝アイスロード〟がハイキングコースとしてよく知られています。山上の氷室から居留地へ氷を運んだ、時間勝負の直登ルートですね。この沢道の中核部分で、大きな分岐があってそれを右俣(清水谷)へ遡行すると〝天狗ノ鼻〟〝保塁岩〟と名付けられた急峻な岩場に突き当たります。ビギナークライマーの練習にほど良い岩塊帯です。古くは山上の多くの〝磐座群〟の一つとして、崇められていたのでしょうね。修験道の時代には修行の場の一つであったことは間違いありません。
その岩壁を登り切ったあたりが一面鬱蒼としたクマ笹に覆われた源頭部分で、そこにこの渓谷の帰結点のような『FOTON』が在りました。谷の狭間から神戸市外を見下ろすなかなかの深奥で、隠れ家的なポイントと言えます。クマ笹はデトックス(浄化)を象徴する植物です。巨岩と併せてロケーションは少しずつミステリアスな様相を漂わせはじめました。

玄関に入ると、小さなロビーにパラグライダーの写真が数枚飾られていました。オーナーは、日本・タイ・ニュージーランドを中心に活動するパラグライダーのインストラクターとのこと。他にもセラピーやヒーリング関連の本、宇宙暦、自然食、気功、ヨガのイベントポスター、そして、今回の目玉である瀬織津姫の萌えイラストや、秀真伝(ホツマツタエ)に関する書籍などがズラーと展示されており、ただならぬ雰囲気が漂っていました。
〝山小屋〟というよりスピリチャルな〝ワークショップ〟や〝教場〟に足を踏み入れた気分にさせられます。このあたりの興味深い話を一つ一つ紹介していくとキリがありませんので割愛しますが、オーナーのパートナー(ヒーラー)さんが、なんと緒方洪庵のご子孫だという。
洪庵の〝適塾〟にも私たちは縁があった。ハイキングサークル六甲遊歩会の前身は、適塾を模した〝曙塾〟という私塾だったのです。40年前にこういうスペースを六甲山で作ろうとして頓挫したという因縁のお導きなのかも知れません。
貴重な家系図を拝見させていただき、更に驚くことになります。緒方洪庵の幕末時の事績は有名ですが、それより更に古い血脈が記されており、家祖は九州の大神家、それをさらに遡れば、なんと三輪山の大神神社に行き着くのです。
ん? 崇神の時代? 前回のレポートで紹介しました瀬織津姫を見失ったアマテラスが孤独な旅をつづけていたあの時代が頭を過ぎります。もしや大直禰子命(オオタタネコ)に繋がっているのでは?
ここでぴったり〝瀬織津姫〟に嵌ってきた訳です。オオタタネコが編纂したいう『ホツマツタヱ』(秀真伝)に書かれた男神アマテルの正妃である向津姫(ムカツヒメ=別名:瀬織津姫)がここでようやく煌めくように現れてきました。まさしく『FOTON』(光子)のお導きです。
オーナーさん達は、直接にこの〝瀬織津姫〟の考察活動には携わっていないとのことですが、この『FOTON』には、はやりその分野の愛好家やユーチューバーが集まって、イベントなどもあるとのこと。昨今の〝瀬織津姫フィーバー〟を演出した一人とも言ってよい大江幸久(著作:『トノヲシテ《瀬織津姫さま》言霊リメンバリング』)さんの出入りもあるとのこと。運良くば明日、拝殿にお越しになっておれば、お話を伺うことができるかも知れないとのこと。
六甲比命大善神を含めて山上の磐座群へは、この山小屋より、徒歩でも1時間あれば辿れる距離にある。気軽にハイキングを兼ねて磐座群をめぐるつもりでしたが、この『FOTON』での思わぬ展開で気が昂って眠れなくなり、かの比命のまだ見ぬ不確かな姿を妄想しつつ、一晩中ネットで追いかけてしまうことになってしまった。

翌朝、保塁岩の上から朝靄の神戸の街区を照らす朝日を拝み、いざ〝六甲比命〟(ムカツヒメ)との35年ぶり再会に出立しました。
昭文社エアリアマップにも神戸市の縦走マップにも、六甲比命大善神の所在は表記されていません。古跡としては〝心経岩〟〝雲ヶ岩〟と記されたあたりですが、この磐座スポットは、全山縦走路からも外れていることだし、ここから北麓へ下るルートもないので、一般的なハイカーはこのエリアにあまり足を踏み入れることはなかった。芦屋ロックガーデン側から登ってきた人たちも、磐座に関心がない人は、最高峰から北の有馬温泉へ抜ける縦断ルートを使うのが圧倒的に多いでしょう。私たち遊歩会でも滅多にこのエリアに入ることがなかったのですが。
ただ一度、〝六甲山における密教的風景〟と題して、旧多聞寺があった古寺山から西宮の鷲林寺へつながる山岳信仰の〝抖擻行ルート〟をめぐり歩くイベントを開催した折に、少し北側にある〝仙人窟〟と併せて、修験道ルートの中核にあたるこの巨岩エリアを探訪したことがあった。その時は〝空海の足跡〟を追うのが大きなテーマだったこともあって、六甲比命大善神なるものについての記憶が、全く残ってはいないのです。
〝心経岩〟〝雲ヶ岩〟その上部の位置する〝仰臥岩〟などは、昔の記憶のままで、40年ほどの日月を感じさせないほど、当時の記憶が鮮やかに思い出されましたが、瀬織津姫の磐座だと比定されたという巨岩(兎岩)の前に立ってみても、ここでは何も思い起こすものがなかったのです。
〝六甲比命大善神〟という立札も昔は無かったと思う。ましてや拝殿とおぼしきプレハブの小屋や、そこに回り込むために設置された工事用の階段など、そしてパワースポットに肖ろうという観光客の混雑ぶり、これなど当時は皆無なことでした。小さな祠があった記憶もない。つまりは、今で言う〝瀬織津姫〟の足跡のみじんも無かったと言って良いでしょう。
どこから瀬織津姫はやってきたのか?
拝殿と思しき三畳間ほどのプレバブ小屋に関連資料が並べられていました。麗しき瀬織津姫様のイラストも展示されている。この磐座を瀬織津姫のものだと比定した経緯などを伺いたかったのですが、残念ながら大江幸久(六甲比命講の代表)さんは不在であった。
しかしながら、違和感はぬぐえない。
これが瀬織津姫か?
ここからは後日に調べたことを含めての報告です。
史跡・旧蹟を訪れる目的ではない、ただの山歩きのハイカーにとっては、磐座だといってその前に小屋を建て、工事現場の足場のような階段を設置しているのは、甚だ迷惑なものに感じてしまう。自然にあるものは自然のままにしていて頂きたいとも思う。第一、安直なパイプ階段は登山道としては不適格で、山歩きに慣れていない観光客にとっては、逆に危険なものかも知れません。
ここで、この六甲比命大善神出現した経緯を追ってみましょう。記紀や古史古伝は不得手なため、核心から外れたものとなるかも知れませんが。(その節はコメント下さいませ)
当日、ここから縦走路を3kmほど東へ、六甲最高峰からの支尾根が張りだしところに〝石の宝殿〟と称される〝六甲山神社〟があって、そこへも足を伸ばしました。
祭神は〝菊理媛(ククリヒメ)〟。祭神が〝瀬織津姫〟だろうと周知されている廣田神社の末社(奥宮)というからには、この菊理媛が瀬織津姫と見るのが、もっとも自然な考察ではないでしょうか。当然ながら祈雨の神(水神)と崇められていますし。しかし、そう一足飛びに断定をする訳にはいかないかも知れませんが。(この部分も❸にて考察)
石の宝殿を源頭とする谷がいくつかあって、中流の支谷からの水流を集め、西が住吉川、東に芦屋川と分かれ、南麓の集落へと運ばれていきます。その間にあるのが金鳥山です。ここで楢崎皐月が、カタカムナの写本を発見し、六甲山の古代文明を解き明かしていったという曰くつきの山です。その一帯には瀬戸内から上陸した海人族がつくった高地集落が点在していたと思われ、南側からの六甲山(ムカツミネ)への遥拝というスタイルで崇めたと考えれば六甲山神社の菊理媛は全く自然でしょう。
南麓には広田神社をはじめ、甑岩神社、保久良神社や神呪寺といった瀬織津姫の足跡を探るためのスポットが点在しています。保久良神社には、縄文のストーンサークルもあって、縄文〜弥生〜古墳時代にかけて古代人の暮らしぶりを推し測ることもできます。

話が逸れてしましました。〝六甲比命大善神社〟に戻しましょう。この名では神社庁への登録はありません。次に六甲山を北側から見た信仰はどうであったか? 現地で地図を見てピンときたのですが、この磐座群から北側の仙人窟を周り、そこから沢(シラケ谷)を下ると逢山渓を経て、多聞寺のある唐櫃台の集落に至ります。
「そうか、六甲比命とは、弁財天のことなのだろう」
ネットでも確認してみた。
『多聞寺の一帯を仕切っていたのは四鬼家で、多聞寺のお塔祭や六甲山修験を管理していたらしい。現在の六甲比命講の中心を為すのも、おそらく四鬼家に連なる人々ではないか。鬼といえば、役行者が従えた前鬼、後鬼や、その五人の子の五鬼が知られるが、四鬼家も役行者の命によって、奈良吉野の天川村洞川から唐櫃の地に移ってきたという。四鬼という苗字は全国で50人。その内40人は今も唐櫃の地に住まう。』
逢山渓の西側に古寺山という独立峰のような山体がある。この山頂に密教伽藍を構えた旧多聞寺があったという。この山上の多聞寺と西宮の鷲林寺に修験道の抖擻ルートがあって、その道筋に多くの平安初期の痕跡・足跡が今でも残されています。
35年前に行ったイベント〝六甲山における密教的風景〟では、この古寺山にも足を踏み入れました。当時は踏み跡すらおぼつかない寂しい山でしたが、最近の地図にはルートが表示されています。山頂にあった多聞寺は源平合戦の折、源氏軍に焼き払われており、かつて隆盛を誇った寺院の形跡のカケラもありませんでしたが、後日に神戸市教育委員会の行った発掘調査の報告書を見る機会があって、その発掘結果から全盛であった密教伽藍建築の様子を偲ぶことができます。
この抖擻ルートで法道仙人をはじめ、役行者(役小角)や小角を追走した若き空海も修行に励んだのでしょう。いやいや此処だけに限りません、六甲山全域を聖域として、磐座や山体の一つ一つに縄文の霊的パワーを感じつつ、真理(真言)と呪力と追い求めていたことは疑いようはありません。
そのワンポイントであった磐座に弁財天を祀り、時代がくだって人々はそれを〝六甲比命〟と呼ぶようになっていったものと思われます。
あまりにも良妻すぎる瀬織津姫
『現在有るのは、拝殿と階段は六甲比命講と近隣の人達の協力により、平成8年11月20日に落慶、本殿は全国の崇敬者の寄進料により、令和元年9月29日に造替されました。』
とあります。そして祭神についても、
『祭神:弁財天(吉祥天)を祀ります。六甲姫(六甲比女)とも言われています。』と記載されていました。
この一帯は、多門寺の奥宮で、境内だという訳なのでしょう。この吉祥天だけでも、十分に〝瀬織津姫〟的な存在なのですが、六甲比命をムカツヒメ(向津姫)と読み直して、日本書記に登場する〝撞榊厳魂天疎向津姫神〟(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめ・のみこと)と繋げるのはいささか無理筋のように思えます。そんな必要があったのでしょうかいささか疑問です。そして、肝心の〝向津姫=瀬織津姫〟というのも古史古伝では〝ホツマツタヱ〟のみで説かれたものです。
その由来においても、
〝セ〟は〝夫(背)〟、〝オリ〟は〝下る(降り)〟を意味します。夫である天照大御神(アマテル)が政務を行う際、その傍らで「夫を支え、自らも民の元へ降りて教えを広める」という役割を象徴する名前とされています。
この良妻賢母的な〝瀬織津姫〟は、あまりにも近代的な匂いが強すぎるようです。逞しい野生の生命力に満ち溢れつつも、山奥の滝におだやかに佇むアミニズムっぽい縄文の女神としてのイメージには遠いものです。これは少なくとも私の追い求めている〝瀬織津姫〟ではないでしょう。おそらく若き空海が追い求めていた〝瀬織津姫〟でもないと思われます。
その辺りは、更に六甲の山中を巡りながら、考察していきたいと思います。次回をお楽しみに。

つづく
〝瀬織津姫〟から〝空海〟へ その❶ (伊勢神宮とは)
〝瀬織津姫〟から〝空海〟へ その❸ (六甲山の結界)
【マガジン】
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! おいしいとろろ蕎麦なんとか食べてみたい♪