日本からフランスへ向かった洋画家たちをほんのすこし追うと、鑑賞がより味わい深くなった
はじめに
休日の美術館通いを再開。各地でさまざまな洋画家が活躍されたとあらためて知る。油絵というと西洋の画家中心にとらえがちだが、なかにはみずから海外にわたりその場で評価を得た画家がいる。藤田嗣治はフランスに帰化したその代表的なひとり。
きょうはそんな話。
画家を芋づる式に
学習サポートでは実技教科も対象に生徒ともにまなんだ。主要5教科のみならず、実技教科の4教科をあつかうところはそんなに多くないかもしれない。なかでも美術については今もって絵の教室でつづけている。
わたしの生まれ故郷の九州の画家をとりあげた。明治以前に活躍した画家もいるが、ここでは明治期以降について。やはり東京美術学校関係者をとりあげないわけにはいかない。文明開化以降、渡航したなかに黒田清輝がいた。彼の生涯や活動については東京国立博物館の管理する黒田記念館のサイト内にまとめられている。

彼の油彩。外光派の表現を学んで帰国し日本の画壇に新風を吹き込んだといわれる。たしかにどことなく日本の湿気が絵から感じられ、日本画の感触がそこかしこに。彼の生い立ちをふりかえると12歳の頃に江戸時代の洋画家の高橋由一の画塾「天絵社」 で学んだ門人のひとり細田季治から水彩画などを学んでいる。そのあたりと絵の雰囲気とのあいだに関係があるのだろうか。細田に関しては東京文化財研究所の資料中に名がある。どんな絵を描いていたのだろう。
さて黒田清輝はじつは法律を学びに17歳で留学したが、結果的にパリで日本人美術家たち(山本芳翠はそのひとり、のちに主宰する画塾を生徒ごと黒田に譲る)のすすめで画家になった。
のちに自由な活動の場としての白馬会を設立し、藤島武二や青木繁が出てくる。黒田はのちにアカデミズムを象徴する東京美術学校に迎えられる。黒田は教授として後進の指導に当たるが、自由な風のなかにいたそれまでとは一線を画すような、どちらかというと規則や型にはまりがちな職場とでどう折り合いをつけたのだろう。
藤田嗣治も
のちにフランスに帰化する藤田嗣治が入学し黒田に師事する。藤田もまたパリに渡り、黒田を批判するようになる。時代がすすみ、その進取の気性のある者は、師匠をのりこえてさきへ進む。
一時代前に、黒田をはじめとするいわゆる「紫派」に対して、旧来の高橋由一らは「ヤニ派」と称される画家たちがいた。周囲がはやしたててそう呼んだにすぎないが、明治後半には前者が注目された。しかしその黒田たちも藤田たちには古く見えたのだろう。一見こうしたわかりやすい構図も、じつは連綿つづく世界のなかでのより大きな潮流のなかでは、小波のゆらめきほどの差にすぎなかったのかも。
世界の美術は揺れ動いた時期。日本の画家たちは海を渡るたびにきっと翻弄されたにちがいない。当時のこうした絵に対する見かた、考え方のちがいを100年あまりについて俯瞰するとさまざま見えてくる。
おわりに
フランスと日本を行き来する藤田のところには日本の画家たちがたずねてくる。海老原喜之助はそのひとり。藤田に師事した。東郷青児は昭和初期に藤田とともに二科会に「九室会」をつくり活動。
そんないきさつを黒田や藤田をつうじて知れる。同時代に生き、しかも絵を志す共通点をつうじた交流はじつに多様でいくつもきりがないほど見つかる。そんないきさつを知りつつ各自の絵を鑑賞すると、またひとあじちがってくる。
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