物体に吸収されない波長の光を反射(透過)して見える色を、色鉛筆で再現するにはと考えはじめると
はじめに
絵を描くのはなかなか奥が深い。デッサンから色塗りに移りつつたびたび思う。わたしは身のまわりの色やその変化に魅せられ化学のほうへ進んだ。美術をとるか化学へすすむかさんざん迷った末の選択だった。めぐりめぐって美術のほうはいまこうして趣味でたのしむ。色を重ねながらどのくらいの波長かなとついあたまに浮かぶ。
きょうはそんな話。
選んだのは
いつぐらいだったろう。中学の前半までは近くの工業高校にすすみたいと思っていた。当時は技術家庭科のテキストのどのページもおもしろかった。トピックにあったロータリーエンジンなど将来はこんな車に乗るのかなとわくわく。
家でも時計を分解したり組み立てたり、トランジスタとダイオードでラジオを組み立てたり。工業高校を出て機械工になる方向かなとちらりと思っていた。ただひとつそろばんを習っているので商業系もありかなと思うぐらい。
ところが成績は学年でひと桁のまま。授業だけはしっかり聞いていた(というより耳新しいことばかりで興味深い)以外なにもしていない。なかでも理科は3年間のすべてのテストをひっくるめて減点は10点ぐらい。中学後半はそんな理科への興味も増した。
なにしろ世のなかのようすをもっと知りたいという欲求に理科はさまざま答えてくれた。だがひとつのなぞが解けてもその先にまたあらたな疑問が出てくる。それにとりつかれた。とくにたびたびの実験で色の変化をみせる化学に惹かれていった。
それぞれの進路
将来はまだあとのほうで決めればいい。そう思ったのは友人たちがそろそろ進路を話はじめた中学2年生の後半の頃。ある子が職業系に進むと知った。成績はおなじくらいと思っていた。おなじそろばん塾でいつもとなりにすわる幼馴染でなんでも話す。男女でならんですわるのは私たちぐらい。
その子が高校では商業系に進むと知る。4年生で父親を職場の事故で失い、ひとり親で育った彼女。こうして習うそろばんを高校でも役立てて3年のちにはそれを活かせる職に向かうという。自分とは現実感や真剣度が何段階もちがう。
あらためて自分の進路を見つめ直す。あまりにぼんやりしていた。先生になればいつも化学、技術、美術に接することができるのでは。先生になるにはどうしたらいいと担任に尋ねた。「大学にいく必要がある。それには普通科高校へ進むといい。」とのこと。そうか大学か。中3をまえにしてまだ何ともわからない世界。
高校で
首尾よく高校へ進学すると芸術は選択科目。美術、音楽、書道のなかから迷わず美術を2年つづけて選んだ。もちろん色への興味はそのままつづく。学校に向かう電車のなかでもあの木の緑は何色で混色すればとか、点描したほうが鮮やかかもしれないとか。
あるとき美術の教師が「この独特の緑をよくつくれたね。」という。北斎の『富嶽三十六景 凱風快晴の富士』の裾野の緑を再現したわたしの刷ったばかりの色版画を見つつおっしゃる。
この教師からは「美術部で指導するから来ないか」と誘われた。当時、卓球部でレギュラーになれないわたしにはうれしい誘いだった。例年、美術部は県で特選の賞を連続して得ている。絵に独自のセンスやあらたな作品を生み出す能力に乏しいと気づきその誘いに乗らなかった。
おわりに
化学を選んで大学へ進み、結果的に教育と研究を生業に。美術のほうは趣味で残した。どこにも無理はなかったし、上で記したほぼそのときどきの考えとも矛盾していないと思う。
幼馴染の子とは、そののち高校に通うバスのなかでたまにひと言三言話した。会うたびにしっかりしてまぶしく見えるぐらい。そして首尾よく地元でよく知られた会社の経理に内定。おなじタイミングの小学校6年のクラスの同窓会に誘ったが来なかった。忙しかっただろうしさまざまなきもちがあったのかも。そういえば絵に熱心でよく色の塗りかたをわたしは尋ねられた。
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