歩きながらスマホを見つめる人々はいったい何を見ているのだろう
はじめに
このところ、少しだけ気になっていることがある。それは「歩きスマホ」。
さすがに法律が厳しくなって、自転車に乗りながらスマホを見つめる人はほぼ見なくなった。けれど、相変わらず街を歩く人のなかには、「どうやったらあんなふうに歩きながら画面を見続けられるのだろう」と不思議になるくらい器用な人を見かける。
もはや一種の名人芸かもしれない。世の中に、移動の瞬間すら惜しむほど夢中になれるものがあるのはある意味うらやましいほど。
今日は、そんな素朴な疑問についての話。
列車のなかで
久しぶりに、中心市街地へ向かう列車に乗った。
この地方の列車は、私がしばらく乗らないうちに、都会のようなロングシート(窓に沿って一列に並ぶ座席)に変わっていた。対面にずらりと人が腰掛ける。
かつてのボックスシートだった頃は、窓の外を流れる風景を眺めたり、本を開いて読んだりした。けれど、ロングシートで混雑し始めると、向かいの人の視線もあってなかなか外の景色は見づらい。そうなると、目を閉じるか、手元の本に目を落とすかになる。
周りを見渡すと、やはり多くの方々がスマホを手にして画面を見つめている。私はよほど急ぎの連絡がない限り車内では触らない。そのおかげか、車内は静かで、列車の走る音だけがゴトゴトと響いていた。
街のなかで
街へ出て歩き始めると、たいてい何人かの人とすれ違う。そのうちどのくらいだろうか、歩きながらスマホの画面を見つめ続けている人と交差する。もちろんぶつかると危ないので、こちらは早めに進路を少しだけ変えてやり過ごす。
いったいどんなコンテンツが、これほどまでに人々を惹きつけているのだろう。
歩いているということは、その先に何かしらの目的地や用事があるはず。それなのに、目線はスマホに吸い寄せられたまま。きっと目的地に着いたら着いたで、今度は本格的にスマホの画面に没頭するのかもしれない。
歩きながらスマホを見ていたら、周囲の様子はほとんど目に入らないはず。少なくとも私には、歩くこととスマホを見ること、このふたつを同時にこなす器用さは持ち合わせていない。
夢中になれるもの
想像を膨らませてみる。これだけ夢中になれるということは、歩いている時だけでなく、家で食事をしたり風呂に入ったりしている時も、同じようにスマホを見ているのではないだろうか。
余計なお世話かもしれないが、食事や入浴といった「本来の行動」への注意が散漫になってしまわないか、少し心配になる。私などは一つのことだけに集中していても失敗するくらいだから、同時にこなせる器用さはむしろ羨ましいとすら思う。
ただ、そうやって過ごしていると、「今日何を食べたか」「どんな服を着たか」といった日常のディテールは、果たしてどのくらい記憶に残り、その部分での楽しみや充実感などを新たに獲得できているのだろうか。
1日の行動をふと振り返る。そんな小さな余白があるだけで、明日という日が少し違って見えてくる気がするのだけれど……。
もちろん、誰かを咎めるつもりはまったくない。人は人だし、自分の好きなように時間を使えばいい。ただ、純粋に気になった。
おわりに
この光景は、この国のいたるところで見られるものなのだろうか。それとも、日本特有のものなのだろうか。
今度都心へ出かけたら、少し観察してみようと思う。「現実の世界」への興味や関心を薄れさせてしまう何かが、今の社会にあるのだろうか。
興味や関心は、この広い世界のあちこちに目を向けるからこそ芽生える。画面に目を落として、特定の世界だけを追い続けることの是非を、ここでどうこう言うつもりはない。そこでべつのかたちで獲得できればいいのかもしれない。
ただ、私には到底できない名人芸をやってのける人々と、その背景にあるものに、どうしても興味が湧いてしまう。
こちらの記事もどうぞ
広告
