教え終わり、テストの結果が出てから、ああすればよかった、こうすれば生徒はもっとできたと思い返してしまうもの
はじめに
教育の世界に長くいる。今春でしごとの半分以上を占めていた学習サポートを閉じた。その一方で大学に出かけて学生さんたちをあれこれボランティアで支援する。児童・生徒・学生たちに教えていた頃を思い出し、いまさらながらにもっとこうすればよかったのではとふりかえる。教える作業は際限がないし、決め手がない。
きょうはそんな話。
教科教育法とは
大学で教員資格を得るための講義。「~教育法」という講義があったが、中学生や高校生に対しての具体的な「教え方」の説明があるわけでない。もちろん当時まだそれほどなじみのなかった板倉聖宣氏の仮説実験授業の紹介などはあったが、それらを(模擬)指導案の作成時に取り入れるなどはできなかった。
教育学全般の講義を通じて知れた結論は右のとおり。具体的な授業とは、教師それぞれがそのときどきの児童・生徒に応じて、各自で創意工夫するもの。授業は教師ひとりひとりがみずからの考え方にもとづいて独自にすすめればいい。とりあえず方針としての教科書や指導要領は準備するよといったところだろう。
決め手はない
学生当時の家庭教師のアルバイトを含め、元職、そして前職でいずれも教育にたずさわった。その際に上にあげたように、そのときどきで相対した児童・生徒・学生たちにさまざまなかたちで教え、ともに学んだ。
そこそこ共通のやり方はあっても、決まった方法があるわけでないと知れた。上に記したようにあまりにも相手は千差万別、個性や素質はちがう。
引き出しは多いほうがいいし、おなじ生徒でも臨機応変に手を変え品を変えしながら教える、あるいはいっしょに学ぶやり方があるとわかった。それがわたしには合っているし、教わるほうも対応しやすい。
どこから芽が伸びるか
こどもたちはひととおり、さまざまな教師から学ぶ機会がある。そのいずれか、あるいはどの段階かで触発されたり、感動したり、ふと我に返ったりを経験しながら成長する。どこでそんな機会にあたるか当の本人、教師自身もわからない。
結果として大勢でひとりの人間を育み、多様な生き方をそれぞれが選んでいく。ひとりとしてそっくりおなじ道を歩むわけではない。おもしろいところ。画一的とされるこのクニのあり方をもってしても、結果としてさまざまな方向へと進路を定めていくから不思議で興味深い。
それだけに
わたしは幸運にも義務教育・権利教育ともども尊敬できる教師に恵まれた。とくに最初の小学校1年時、ならびに高3時の担任は教育者としていずれものちに名前が世に知れた方々。影響を受けたことはまちがいない。当時をふりかえりつつ、〇〇先生はたしかにこうしていたと。
実践してみるとそれが効果が大きいからやはりすぐれた方法にちがいない。生徒が自信をもてるようになる。
おわりに
よい師に出会えたことに感謝しないと。あきらかに文字どおり糧になっている。まさに恩師。上にあげた教師おふたりが、それぞれ家庭訪問でわが家に訪れたときのようすが違っていたと親がよく話していた。いずれも「しっかりした先生」だったと。
そのおふたりは、わたしにとっていつもその背中を見てあとを追うような存在。
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