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明日の朝、目が覚めなければいいと思っていた私が、「いってきます」を大切にするまで | エッセイ

——雑に暮らせる平和を、当たり前にしすぎないために


仕事へ行く朝、私は犬たちを一匹ずつクレートに入れる。

おやつを渡して、頭や背中を撫でながら、

「ありがとう」

と声をかける。

何に対する「ありがとう」なのか、毎朝きちんと考えているわけではない。

今日もここにいてくれること。
私を見送ってくれること。

たぶん、その全部に向けて言っている。

玄関へ向かう前に、犬たちのいる部屋をもう一度見る。

五匹とも、それぞれのクレートの扉越しに、こちらを見ている。

パートナーは、私が出かける時には玄関まで見送りに来る。外まで出てくる日もある。

「いってらっしゃい。気をつけてね」

パートナーが仕事へ行く日は、私が同じように見送る。

どちらが出ていく時も、たいてい顔を見て、その言葉を交わしている。

今日、Lu-Mareさんの「当たり前でないこと」という記事を読んだ。

その記事を読みながら、私は毎朝の「いってきます」を思い出した。


家を出る時、いつもほんの少しだけ思う。

これが最後になることだって、ないとは言えない。

交通事故に遭うかもしれないし、災害が起きるかもしれない。

私が帰ってきた時、犬たちが朝と同じように待っているとも限らない。

だから、できるだけ「いってきます」を言ってから家を出る。

かといって、毎朝、死を怖がっているわけではない。

事故や災害を想像して、不安になっているわけでもない。仕事が始まれば、そんなことはすっかり忘れて、普通に働いている。

ただ私は、長いあいだ「死」というものを、とても近くに感じながら生きてきた。

物心がついた頃から、回復してくるまで、

「死にたい」
「消えたい」

という考えが、気づけば頭の中にあった。

夜、布団に入ると、

明日の朝、目が覚めなければいいのに。

と、本気で思っていた。

今はもう、消えたいとは思わない。

死への不安があるわけでもない。むしろ、普段は死について考えること自体、ほとんどなくなった。

それでも、長いあいだ死をすぐそばに置いて生きてきたからなのか、誰かが今日も生きて、目の前にいてくれることを、完全な当たり前だとは思えない。

昔は、気づけば「死」の方を見ていた。

今は、

今日もおってくれて、ありがとう。

と思う。

そこまで大げさな感謝ではない。

毎日、命の尊さを噛みしめながら、犬たちを抱きしめているわけでもない。

むしろ、普段の私はけっこう雑である。

犬が「かまって」と寄ってきても、

「ちょっと待って」

と言う。

撫でながら、もう片方の手でスマホを見ていることもある。

パートナーとの食事も、だいたい適当だ。冷凍食品や出来合いのものを並べて終わる日も珍しくない。

パートナーが仕事の愚痴を話していても、半分くらい聞き流している時がある。

生きていてくれることを当たり前だと思っていないわりに、日々の扱いはかなり雑である(笑)。

でも、そんなふうに雑に暮らせること自体、昔の私にはなかったものなのかもしれない。

家の中で、誰かの機嫌を読み続けなくていい。

次に何が起きるのかと身構えなくていい。

料理が手抜きでも、掃除をさぼっても、生活は壊れない。

犬たちは安心しきって眠り、パートナーは普通に隣にいる。

少しくらい適当でも大丈夫だと思える場所を、私はいつの間にか手に入れていた。


ここまで来られたのは、何か一つの出来事のおかげではないと思う。

一見やさしく聞こえる言葉の中で、かえって自分を見失ったこともある。

反対に、耳の痛いことを言いながらも、最後には私を自分の足で立つ方へ押してくれた人たちがいた。

ただ慰めるのではなく、いつまでも自分のそばに置こうとするのでもなく、

ここからは、自分で歩ける。

と、私の人生を私に返してくれる人たちだった。

私はたまたま、そんな人たちにも出会えたのだと思う。

もちろん、傷つけられたことまで、必要だったとは思わない。

しなくていい苦労なら、しない方がいい。
言われなくて済む言葉なら、言われない方がよかった。

それでも、もう起きてしまったことの中から、私は少しずつ持っていけるものを拾ってきた。

犬たちと暮らし始めたこと。

私の過去をすべて理解しているわけではないまま、パートナーが普通に隣にいた時間。

あとになって意味がわかった誰かの言葉。

何度も同じところでつまずきながら、少しずつ自分の癖に気づいていったこと。

その時には、人生が変わったとは思わなかった一瞬が、少しずつ今の私をつくってきた。

どれか一つだけで救われたわけではない。

いろんな人や出来事から受け取ったものが、長い時間をかけて重なって、気づけば私は、明日も目を覚ましたいと思える場所にいた。

今こうして犬たちと暮らし、パートナーに適当なご飯を出し、普通に文句を言いながら生きていることは、考えてみれば、いくつもの偶然が重なった先にある。

「奇跡」という言葉を使うと、少し大げさに聞こえる。

それでも、昔の私が今の暮らしを見たら、たぶん信じないだろうと思う。

私はこれからも、きっと雑に暮らす。

犬に「あとで」と言うだろうし、パートナーの話を聞き流す日もある。

適当なご飯を出して、普通に腹も立てると思う。

でも、ときどきは思い出したい。

雑に暮らせるほど安心できる日常も、最初からここにあったわけではないことを。

あとになって、

「もっと顔を見ておけばよかった」

「ありがとうと言えばよかった」

と思う回数を、少しでも減らしたい。

犬たちは、今日もクレートの中から私を見ている。

パートナーが玄関で、

「いってらっしゃい。気をつけてね」

と言う。

私はもう一度、犬たちのいる部屋を振り返る。

「いってきます」

また会えるつもりで、私は今日も家を出る。




※このエッセイは、Lu-Mareさんの「当たり前でないこと」を読んだことから生まれました。

大切なことを思い出させてくださり、ありがとうございました。






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