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『幸福な王子』の自傷と、僕が献血するときに思っていること――ニアデスハピネスの幸福論

この記事は、身近に「生きることがしんどい」と感じている人がいると知ったことをきっかけに書こうと思った。
直接だとなんと声をかけてよいかわからないので、僕なり考えを整理したほうが僕には向いている気がした。

生きづらさの記号

最近、SNSを開くと「HSP」「ADHD」「LGBTQ」といったラベルをプロフィールに掲げる人を多く見かけるようになった。かつて「弱さ」や「生きづらさ」は社会の中で恥とされ、隠されてきた。それが今や、理解を求めて主張できるようになった。それ自体は社会の進歩だと思う。

ただ、気になることがある。

ラベルが「配慮や同情というリソースを享受するためのライセンス」へと変質しているように見える場面が、増えている気がする。何者でもない自分という空虚さに耐えられない人々が、診断名という「物語」を欲しがっている。そんな構図が透けて見える瞬間がある。

要するに、今の社会は「不幸であること」が得に見えてしまうバグを抱えている。

では、なぜ僕たちはこれほどまでに「弱さ」や「苦しみ」に惹かれ、それを自分の中で完結させてしまうのか。そして、その苦しみを別の何かに変換できないのか。この記事では、そのことを考えてみたい。

ニアデスハピネスという快楽の構造

大槻ケンヂの小説『ステイシー』に、「ニアデスハピネス」という言葉が登場する。この小説の世界ではは15歳から17歳の少女だけがステイシー(ゾンビ)化する現象が蔓延している。そして、ステイシーになる直前の少女たちはなぜか深い多幸感に包まれる。「死が近づくと幸福を感じる」という設定だ。

一見、フィクションの中の異常心理に見える。しかし実はこれ、現代の僕たちが日常的に貪っている快楽と、構造的に同じだ。

たとえば「サウナ(ととのう)」ブーム。あれは極限の温度差によって脳に「生存の危機」を錯覚させ、エンドルフィンを強制分泌させることで得る快感だ。ドカ食いによる血糖値スパイクの昏睡感、アルコール、ギャンブル、これらはすべて、脳をハックして脳内麻薬を効率よく引き出す行為だ。

現代社会の過剰な自意識と責任から逃れるために、僕たちは「マイルドな死」を小分けにして摂取している。

アルビン・トフラーは『第三の波』で、消費者が生産者をも兼ねる「プロシューマー(生産消費者)」の時代を予言していた。
 現代の僕たちは、トフラーの予言通り、生きるための「幸福」も「生きづらさ」も、脳内物質を使って「完全に自給自足(プロシューム)」するようになっている。

コーヒーからリストカットまで、地続きのグラデーション

ここで「リストカット」に代表される自傷について考えてみたい。

「自傷行為をすると心が落ち着く」とよく言われる。その仕組みも、生理学的に見ればニアデスハピネスと同じだ。身体が強い痛みを受けると、脳はそれを和らげるためにエンドルフィンを分泌する。また、言葉にできない脳のモヤモヤを「物理的な痛みと鮮血」という明確なエラーに変換することで、フリーズした脳を強制再起動させることもできる。

社会的な許容範囲を一旦無視すれば、以下の行為はすべて地続きのグラデーションにある。

  • コーヒー: 眠気をブロックし、覚醒を偽造する。

  • 朝日を浴びる・人を抱きしめる: セロトニンやオキシトシンで安心を生成する。

  • 筋トレ・サウナ・リストカット: 苦痛をコストに、エンドルフィンで脳を麻痺させる。

すべては「そのままの自分では耐えられない現実を、脳内物質で書き換えるためのハック」だ。

ただし、リストカットだけは非対称なコストがある。一生消えない傷跡が残る。そして何より、苦しみが自分の中だけで完結し、誰にも届かないまま消費される。

痛みを他者へ渡すこと——幸福な王子と献血

僕は人間には「愚行権」があると思っている。誰にも迷惑をかけない限り、愚かに見える行為でも自分で決めて実行する権利はある。酒も煙草も筋トレも、ある意味では自傷の一種だ。

ただ、ふと思った。献血じゃいかんのか、と。

僕自身、たまに献血に行く。献血の針は少し太い。本番の前に血液の状態を確認するための採血もあり、そのうえ400mlも抜かれる様子をただ眺めていると、「死の危険」を察知して怖くなる。
例えば、体重50kgの人の血液は約4リットルだ。その20%を一気に失うと失血死の危険があるとされる。4リットルの20%は800mlだ。献血ではその半分を抜く。医学的には安全とわかっていても、「この看護師さんがミスったら」という想像が頭をよぎる。

個人的には、献血はサウナや筋トレ、あるいは自傷に極めて近いニアデス体験だと思っている。

ここで一つ、心理学の知見を補足したい。「共感的幸福(sympathetic joy)」という概念がある。他者の喜びや救済を、自分のことのように感じて幸福になる能力のことだ。
これは単なる精神論ではなく、他者への貢献行為が脳の報酬系を活性化することは、神経科学的にも裏付けられている。興味深いことに、この概念は仏教の「喜悦」という「他者の幸福を妬まず、純粋に喜ぶ心の状態」とも通底している。東洋の修行者たちが何百年も前に直感していたことを、現代の神経科学が別の角度から証明しつつある、と言えるかもしれない。

つまり、献血で流す血には「痛みのコストでエンドルフィンを引き出す(ニアデスハピネス)」と「誰かを救ったという事実が共感的幸福として報酬系を刺激する」という2倍の効果がある。

自傷がエンドルフィンの孤独消費で終わるのに対して、献血は同じコストで二重の報酬が返ってくる。同じ血を流す行為としては上位互換だと言える。

これは、オスカー・ワイルドの童話『幸福な王子』の「幸福」でもある。
王子はツバメに頼んで、自分の身体を覆う金箔や宝石の目を一枚一枚剥がし、街の貧しい人々に与えていく。自らを剥ぎ取るその姿は、「自傷」のメタファーのようにも読める。
しかし王子が孤独な自傷と違うのは、剥がした金箔(自分の痛み)を、他者の救済というリソースへと変換した点にある。

献血というベッドの上で流す血と痛みは、自分をニアデスで癒やすと同時に、巡り巡って誰かの命を救う。

自分を壊さずに、物語の力で救うことはできるか

漫画『刃牙』シリーズには、想像力だけで巨大な非実在のカマキリを作り出し、実際に身体へダメージを負うほどの死闘を繰り広げる場面がある。フィクションだが、僕たちの脳がプラセボや「物語を信じる力」を持っていることの、極端な比喩として読める。

「死にたいほど辛い」「自分を傷つけずにいられない」瞬間に、手首に刃を立てる代わりに赤いペンで線を引くだけで代替になる、という話がある。あるいは、合法的に自分の血が見たいなら、献血車に駆け込んでみてもいい。
もちろん、これで苦しみが消えるとは思っていない。ただ、どうせ同じ血を流すなら、と思っただけだ。

サウナで整うマニアも、腕を傷つけてしまう人も、献血で怯える僕も、みんな現代という過酷な情報社会を生き抜くための「孤独なハッカー」だと言える。

どうせシステムがバグっているなら、そのバグを自分を壊す方向ではなく、もう少しスマートなハックへアップデートしたほうが良い。トフラーに言わせれば、僕たちは自分自身の生のプロシューマーなのだから。

『幸福な王子』のように、痛みには世界を救う力がある。だから、痛みを孤独に消費するより、誰かへ手渡すスマートなハックを、僕と一緒に探してみてほしいと思う。

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