日本人の物語00227【奈良】47代淳仁天皇
天平宝字2(758)年8月1日。孝謙天皇が譲位し、皇太子の大炊王が即位しました。淳仁天皇です。
同年8月25日。淳仁天皇は藤原仲麻呂に対し、恵美押勝(えみのおしかつ)という名を与えました。
「あらゆる人に恵みを与え、あらゆる政敵に押し勝って来た」
といった意味合いでしょうか。それのみならず、淳仁天皇は
「押勝をただの臣下ではなく父と思うことにする」
とまで述べています。
淳仁天皇がそもそも皇太子になれたのは仲麻呂の推薦のおかげでした。天皇になった後も、仲麻呂の言いなりになっている様子が窺えます。
こうなると、仲麻呂としてはもはや孝謙上皇の機嫌を取る必要がなくなります。仲麻呂は徐々に淳仁天皇にばかり取り入り、孝謙上皇から距離を置くようになりました。
一説によると、藤原仲麻呂は当初、孝謙天皇に取り入るため、孝謙天皇と男女の関係を持っていたといいます。ところが、淳仁天皇が即位し、淳仁天皇が仲麻呂を父と仰ぐ状況になると、仲麻呂は孝謙上皇を邪険に扱い始め、捨ててしまったというのです。
孝謙上皇は怒り悲しみ、仲麻呂を追い落とそうと画策し始めたのだろうと思われます。
さて、上皇と天皇の間にさらなる対立を生じさせる事件が発生します。
天平宝字3(759)年のこと。光明皇太后は淳仁天皇に
「舎人親王に天皇号を追号してはどうか」
と提案しました。
舎人親王は淳仁天皇の父で、日本書紀を編纂したことで知られる人物ですが、天皇になれないまま死去した皇族です(00061回参照)。天皇に即位していない人物に対して天皇位を追号するのは先例のないことです。
淳仁天皇は孝謙上皇に相談しますが、孝謙上皇の反応は良くありませんでした。
「辞退した方が良い」
と諭されますが、淳仁天皇は結局、追号を受けてしまったのです。この事件により、孝謙上皇は仲麻呂のみならず、淳仁天皇に対しても敵対的な気持ちを持つようになります。
天平宝字4(760)年。仲麻呂にとって叔母に当たる光明皇太后が死去しました。これにより藤原仲麻呂は大きな後ろ盾を失ったことになります。ここから、孝謙上皇側の逆襲が始まります。
