三月は、音が変わる|シロクマ文芸部|お題「三月は」
三月は、音が変わる。
白い点が落ちてきていた日は、部屋まで静かだった。
それが線になった。地面が喉を震わせる。
透明な壁に、丸い模様が増えていく。ミアのひげが前方に動く。指先の代わりの視線で追う。
硬い足の裏が床をつかむ音。いつもより大きい。
ばさばさ、と体についた冷たい水の粒を払う時みたいな音がした。
一段高くなっている床の縁に座って待つ。
金属が回る音に耳がびくびくと動く。それでも、逃げない。
わずかに明るい光が射し込んで、縄張りが綻ぶ。
いつもなら扉は、空気を断ち切るような勢いで閉まるのに、今日は動きがのろのろとしている。
線の音が、背中を越えて、部屋の奥まで入り込んでいく。車の騒音や人間の声が遠くから聞こえてくる。
扉が、かちゃりと耳に優しい音を奏でて、閉まった。
「ミア、ただいま」帰ってきた彼は、何よりもまず一番に彼女に挨拶した。ミアの爪先は音を立てないが、この部屋のリズムは、いつもそこから始まる。ミアは彼の足を一度だけかすめ、それだけで十分だと言うように窓辺に戻った。
帰ってきた彼の周りで音が起こる。くぐもった音を伴って翻るコートではなく、ばさばさと乾いた音を出す上着を脱ぐ。息をゆっくり吐いて一口ずつ飲むのではなく、喉を一気に鳴らす。
彼と目が合う。
ミアは目をそらし、窓の丸い模様を見るふりをした。
彼も窓辺にやってくる。キャットタワーが置かれている窓の前で、部屋の温度と外の冷気を同時に吸い込んでいる床に、彼は音を立てずに座った。片膝を立てて、胸を張らず、呼吸が静かに続いている。彼はミアが見ている丸い模様を指先でなぞる。指先が、窓から離れた。彼はそうっとミアに触れようとするので、腕を伸ばした時の布が起こす小さな摩擦音がゆっくりとじわりと聞こえる。彼は指先より先に瞳を動かす。目が合いミアは瞬きした。指先はミアの鼻先にぽちっと触れた。ひんやりしていたのでミアは顔をそむけて、温かくいい匂いのする手首のほうに顔を擦り寄せた。彼の口元がほころび、息が一度だけ抜けるのが聞こえるくらい、誰よりも一番近くにいる。包み込むような手のひらに頭を委ねて、小さなまぶたを閉じる。
「おっ、雨が止んだ」
彼が立ち上がるのと同時にミアは抱き上げられた。ミアは突然全身が浮いたように感じて、彼の肩に引っかけるホックのように前足を伸ばしたが、窓が唸り声を上げたので思わず振り返った。
日差しを受けた街路樹の上で、光が跳ねている。ミアはそのきらきらに目をくすぐられ、身を乗り出した。
「もう三月なんだよな」
「三月」は最近、彼がよく口にする音だった。
彼は顔を空に向けて、上瞼にかかる前髪の向こうから何度か瞬きをした。彼の胸が膨らみ、そして引いていく瞬間に、口から白い息が出る。
ミアは目を据えたまま、耳だけが素早く左と右で別々のほうを向いた。ミアは空へ耳を澄ます。
頭上を飛ぶ影はないが、鳥の鳴き声が聞こえる。ああそうだ、と記憶がミアの耳を緩ませる。寒い時期は仲間同士の合図だけだったのが、陽の光が柔らかくなると、今はまだ遠くにいる待ち遠しい相手が、自分のもとへたどり着くように、歌声が澄んだ空気を通り抜ける。耳はそのさえずりの欠片をもらうのだ。
まどろみかけたミアの耳元でさえずりが途切れた一瞬、彼が上半身を震わせ、口から息を絞り出した。彼のくしゃみが耳に刺さってびっくりしたミアは、彼の肩をジャンプ台にして、キャットタワーのステップに着地した。
鼻の下を爪で掻いた彼は、柔らかい毛に指を滑り込ませて、謝罪の毛繕いをする。耳の付け根のふわふわとした細かい毛を、指の腹で触れる音がする。ミアは声の代わりの尻尾をゆらゆら揺らした。
こちらの企画に参加させていただきました。
前作のふたりを続投しました。ミアはサバトラ、彼は独身男。
こちらはツンデレ vs ツンデレの話です。
