ごめん、遅くなった|シロクマ文芸部|新企画「こっちだよ。」
玄関の鍵を回した音がいつもより大きく響いた。
指先で探り当てたスイッチを押す。まず一番に目に飛び込む、耳をピンと立てて前足を揃えて座っている姿が、今日はない。
窓際のキャットタワーも空っぽだった。部屋の隅から緑色の目がきらりと光った。
「ミア」と彼は名前を呼んだ。
サバトラの毛並みは天井から降る灯りを反射して、銀色のきらめく線が、音を立てずに近づいてきた。
ミアの顔の前に指先を差し出すが、鼻先が触れたかなと勘違いしてしまうくらいギリギリの近距離で、彼女は匂いを嗅ぐにとどめた。踵を返し、小さなテント型ベッド、ぬいぐるみのおもちゃ、爪研ぎの前を通り過ぎて、再び部屋の隅に行った。
その姿を追うために彼の目は大きく開いたが、口の方はぎゅっと閉じて、息が一瞬、勝手に止まった。
革靴を脱いで部屋に入った。スーツのジャケットをベッドの上に放る。ネクタイを緩めると、喉の奥にまだビールの苦味が残っているのを感じた。
チャック付きの袋と器を持ってくると、ミアが足元をすり抜けた。
今日みたいに万が一帰るのが遅くなった場合のために、自動給餌器を買うべきか、と何度も思う。それでも彼は、自分で器を出す。くるぶしに絡んでくる重さと柔らかさ。ドライフードの量をデジタル計量器で計る。彼を見上げる澄んだグリーンで満ちた目。彼はしゃがみ、少し冷たい床に器を静かに置く。
ミアが夢中で食べているのを眺めながら、縞模様の温かい背中を、一度だけゆっくりと撫でる。
「俺、シャワー浴びてくんね。」
ドライヤーで素早く髪を乾かした。襟の伸びたTシャツと体に馴染んだスウェットパンツが、程よく心を緩めてくれる。
コンタクトレンズを外したので、ぼんやりとする景色に囲まれながら、ドアを開けた。ミアがいた。床にお腹をつけて座っている。彼を見上げる。目の縁がどんどん大きく真ん丸になっていく。彼の胸がドキンと大きく鳴って、もう一回大きく鳴ったわずかの間に、銀色はゆらゆらと遠ざかっていった。
彼は眼鏡をかけて、間接照明を点けた。天井の灯りを消す。部屋の輪郭が少しだけ柔らかくなる。
部屋の中央にある丸テーブルでノートパソコンを開く。デスクライトを点ける。硬い座面と背もたれの椅子に深く腰掛けた。
ミアはキャットタワーの一番上のボウルに入っていて、顔だけはみ出させて、彼を見下ろしている。
キャットタワーはカーテンレールと同じくらいの高さがある。柔らかい体は、丸みのあるアクリルの半球体にぴったりと沿う。
視線を注ぎ過ぎたのか、ミアはふいっと顔を上げ、窓のほうに向き直ってしまった。
風呂上がりのドライヤーの音も、彼がコンタクトレンズを外して眼鏡をかけても、ミアは全然気にしないのに、今夜は彼女と距離を感じる。
カーテンを開けたままの窓が鏡のようになって、外をじっと見るミアの表情が映っている。しっぽも動かない。急に独りの時間が訪れて、いくら待っても誰も帰ってこない毎日の記憶を呼び戻してしまったのかもしれない。多頭飼い。飼い主の急死。放置された家。
彼は椅子から立ち上がって、窓の側まで行った。
ミアに向かって、指でつまんだボールペンを左右に大きく振ってみた。
「ねえ、ミア、いつもみたいに一緒に遊んでよ。」
ミアはぶれるボールペンのシルエットの向こう側から、耳すら動かさず、彼の顔をじっと見続ける。
ミアの鳴き声は一回しか聞いたことがない。しかもそれは、ワクチン接種で注射を打たれた時だった。だからミアの場合、声以外の全てから彼女の気持ちを感じ取る必要がある。
彼はパソコンの前に戻った。
深夜1時を過ぎた。パソコンの画面、参考書、ノート、ボールペンの先に視線を移動させていく。
ノートに視線を落とすたび、前髪が眼鏡のレンズにかかり、指で払う。本当はもう、文字を追えていないのに。目を開けているつもりになっているだけだ。
フンフンとリズミカルな息遣いを感じて瞼が開いた。
左肩を落とし、顎が付くほど頭を下に傾けて、彼はうたた寝をしていた。姿勢を変えず、浅い呼吸を続けながら、まだ眠っているふりをして眼鏡のフレームの外に視線を遣る。
前髪の毛先をミアが真剣に嗅いでいた。
ノートの上にある右手をほんの少し動かせば、触れられる距離。
目が合った。視線が絡んだまま、時が止まる。毛先を通じて、小さな息の震えが、頬骨にまで伝わる。
ミアは顔を逸らして、テーブルを蹴り、素早く降りた。
間接照明の光が乱れる。鼻の上でずれる眼鏡を押し上げる。
キャットタワーと丸テーブルの間の狭い床で、彼は声を低くして名前を呼びながら、猫じゃらしを揺らしたり這わせたりする。ミアはキャットタワーの一番低いステップにいて、目でヒラヒラの飾りを追い、ときどき彼の顔を見る。身体は前のめりになっているが、一歩が出ない。
彼は猫じゃらしを床に捨て、キッチンへ行った。
戻ってくると、ソファへドサッと重く身を沈め、片膝を大きく開いた。手に握ったスティック状のパウチ袋の縁を切る。いつもより切り口が雑になった。
ミアはステップから飛んだ。だが、床をゆっくりと慎重に歩いてくる。付け根から立ったしっぽがゆらゆら揺れて、押さえきれない興味を表している。おやつしか目に入ってないというより、おやつを手にした彼も含めて見るような眼差し。
ミアが彼の足元までやってくると、ソファの周りを照らしているスタンドライトの光を受けた身体が、白灰色の滑らかな輝きを帯びた。
ジャンプで一瞬にして距離を縮めてきた。彼はほんの少しだけ反射的に首を反らしたが目は逸らさずにいたので、ミアの顔が眼前に飛び込んできた。
ミアは彼の脚の間にできた空間に収まった。スウェット生地を挟んで、小さな前足を内腿に沈ませる。
つい指先に力が入って切り口から零れ落ちそうな液状のおやつが、ライトを反射して艶めいた。ピンク色の平らな舌が巻き取るようにすくう。彼はミアの顔からほとんど目を逸らすことができない。彼女だけの額の模様を目でなぞる。甘い匂いがするようなミアの体温に、彼は包まれてゆくように感じた。
ミアは口の周りを舐めると、パウチ袋を持つ手の肌の匂いを嗅いだ。急に温かい舌が、力強く何度も撫でる。ぞくぞくは次第に気持ちよさに変わっていって、手を引っ込める必要を感じなかった。ミアのやりたいようにされるままの彼は、自分の手の甲を見つめる。右手の上に、今日の記憶が通り過ぎていった。キーボードを打つ指。瓶を傾けビールを注いだ手。
「ミア」と彼は声をかけた。囁くように。それから左手を添えた。彼女に顔を寄せる。鼻先でミアのやわらかさを確かめる。眼鏡の硬いフレームがおでこに押し当たるのを、ミアは受けとめる。
ミアは目を細める。
彼が顔を離すと、灯りのきらめきをまとった瞳が、間近で見つめ返した。次に、彼の顎を舐め始めた。
くすぐったくて、笑いそうになる。彼はパウチ袋を少しだけ持ち上げる。「ほら、おやつはこっちだよ。」
こちらの企画に参加させていただきました。
