闇 506(身から出た錆編)
闇 506(身から出た錆編)

2026/03/24 tue
※この作品は、因果律に業を混ぜた小説です
前回の章

二千二十年十一月十四日、土曜日先勝。
自己犠牲呪文メガンテを唱えた翌日。
山下から必ず来るであろう連絡をワクワクしながら待つ自分と、もう一つはかつての同僚の人生をこの手で潰してしまったという罪悪感のようなものが同居した不思議な感覚だった。
別段俺は悪い事などしていない。
始めに卑劣な真似をしたのは、橋本のほうなのだ。
仕事を失ったのは俺。
片や疑惑を人に押し付け辞めさせる方向へ持っていき、そのあとで金を抜いたあいつがいけないだけ。
自分の行動を必死に正当化しようと理論を並べる。
それでも気持ちが晴れる事はなかった。
部屋にいるからこんな事を考えてばかりしまうのだ。
喫茶店『ラ・ムー』へ行く。
「あ、お客さん、今日ハンバーグ終わってしまったんですよー」
「じゃあしょうが焼き定食を下さい」
顔を見るなりハンバーグ?
俺ってそんなに同じメニューばかり頼んでいたのかなと、腑に落ちない感じで席に腰掛ける。
しょうが焼き自体、そんな嫌いな料理ではない。
しかしどうしても横浜の麦草を連想してしまう。
思えば飲み屋の女以外で、普通の女性だったのは麦草の百合ぐらいだったのではないだろうか?
また彼女の作った料理を食べたい。
だが、どの面下げて横浜まで顔を合わせに行けるというのだ。
目の前に置かれるラ・ムーのしょうが焼き定食。

見栄えもいい。
味も悪くない。
それでも百合だったら、もっと美味しい料理を作ってくれていたなと思う。
俺は何故自分からフェイスブックで、彼女をブロックしてしまったのか。
いくら感情的になったとはいえ、愚かな事をしてしまったという後悔。
二千十六年の頃だから、四年以上経っても未だそれを思い出すなんて重症だ。
とっとと仕事を見つけ、忙しい毎日に戻ったほうがいい。
店を出ると、ラッキーホステルとは逆方向へ真っ直ぐ歩く。
このまま行けば北新宿公園。

いつもなら寄るのをさらに奥へ向かう。
少し進むと川にぶつかる。
柏橋の向こうでは、桜が満開に咲いていた。

あれ、桜って三月四月じゃなかったっけ?
しばらく橋の上から桜を眺めた。

この辺の景色はどこか横浜の大岡川桜まつりを思い出す。
決定的に違うのは、辺りに人も屋台も何もなく、ひっそりした点。
新宿区といえど、大久保のこの周辺は静かな場所だ。
進行方向的にこのまま真っ直ぐ行けば東中野。
目的意識もなく、ただ何も考えずにボーっと散歩を続ける。
川を越え少し歩くと東中野エリア。
こんなに近かったのかと驚く。
先日う深谷さんが送別会で開いてくれたイタリアン『グラート』が見えてきた。
せっかくここまで来たのだ。
本日二度目のランチタイムへ突入。

揚げ茄子のミートソースを注文。

「岩上さん、早速また来て頂いて嬉しいですよ。ありがとうございます」
本当にいい息子さんだ。
明るくハキハキして礼節もある。
深谷さんもいい育て方をしたのだなと感心してしまう。
もう少し東中野周辺を探索したい気分だった。
グラートを出て駅の逆口方向へ歩こうとした時、着信が入る。
佐藤充から。
「岩ちゃん、今日何時に来るのよ?」
「いや…、佐藤さん。俺、無職なんですよ! 呑気に競馬をしている場合じゃないんです」
静か空間に浸っていたのを一気に現実へ引き戻されるような感覚。
「今日来るって、先週約束したじゃん! 今、どこにいるの?」
「東中野辺りですよ」
「何でそんなところいるんだよ?」
「気ままに散歩がてら」
「そんな事してないで、早く来なよ」
好き勝手言うだけ言い、電話を切る充。
四十九歳無職の男が、ぶらりと気の向くまま散歩をするのの何が悪いのか?
独りよがりの面倒な元客。
最後の最後で本当に変な奴と関わってしまったな。
何が儲け話だ…、ただの地方競馬じゃないかよ……。
東中野から大久保まで駅でひと区間。
それでも電車には乗らず、あえてゆっくり歩く事を選択した。
再び鳴る携帯電話。
しつこいなあ……。
画面を確認すると、山下からだった。
「何だよ?」
「あ、岩上さん。何か上からいきなり色々店長の件で聞かれて…、ひょっとしたらあいつクビになるかもしれないすよ」
「おまえも鬱憤凄い溜まっていただろ? ありのまますべて正直に伝えてやりな」
「自分が別に言わなくても……」
「山下! だったらもう俺に連絡してくるな!」
「ま、待って下さいよ。そんな怒らなくても……」
山下と会った二十年前の吉田をクビにした頃を思い出す。
大倉が不安そうな表情で話し掛けてくる。
「岩上さん…、何か今日仕事終わったら山下さんと自分…、片桐さんからいきなり飯行くぞって連絡あって……」
思わずニヤけてしまう。
「いいか、大倉。俺が全部ケツ持つ! だから言いたい事全部ぶち撒けて来い」
「え…、でも……」
「ケツは持つって言ったろ。そうなるように俺が仕組んだんだよ。オマエたちも辞めるって腹決めたんだろ? なら一度くらい腹決めろって」
俺は大倉の背中を押した。
あとはなるようになるだろう。
「食事終わったら、一回店に戻ってきます……」
心細そうに山下は大倉のあとをついて、店を出て行った。
数時間経ち、店に山下だけ戻ってきた。
「おう、山下。どうだった?」
何を話したのか気になる俺は、山下をせっつく。
「自分は言いたい事は片桐さんに何も言えませんでした……」
「はあ? せっかくセッティングしたのに何をやってんだよ?」
「でも…、大倉さんは自分の言いたい事まですべて言ってくれました」
そこまで言ってニヤける山下。
「何を言ったんだ、大倉は?」
「第一声が吉田を人間的に許せませんと……」
これまで溜まっていたものをすべて片桐へぶち撒けたようだ。
やるだけはやった。
あとは上の判断だが、なるようになるだけだ。
そう…、あの時も山下は窮地なのに関わらず、自分の手を汚さなかった。
「本当におまえって、変わらないんだな……」
「自分は変わらないすよ!」
褒められたと勘違いしている山下。
皮肉で言った事すら通じない。
馬鹿はずっと馬鹿のままか。
「岩上さん…、橋本がクビになったら、店に戻ってこないんですか?」
「あいつがクビになって番頭が戻ってきてくれって言われたらだね。でも、俺は番頭のクビまで切ろうとしたから、香川は口が裂けても戻ってきてくれなんて絶対言わないだろうね」
俺が猪狩へ告発したメガンテ。
橋本をトカゲの尻尾切りのように切り捨て、この件の落とし前をつけるだろう。
番頭に店長、この二人が同時に抜けたらラッキーハウスはさすがに回らなくなる。
自身の胸がすっとする程度の制裁は、もう加え終わったのだ。
もうあとはなるようになるだけ。
あの店での俺の役目は完全に終わり。
まだ何か話し続ける山下との電話を強引に切る。
気の重い状態で充事務所へ到着。
「岩ちゃん、遅いよ! レース始まるぜ? ちゃんと前に言ってきた出走表からのまとめはしてきたの?」
「しましたよ……」
何で一円もならない事で、このチビはここまで面倒臭い事をやらせるんだ。
俺は金曜日の時点で発表されている高知競馬の出走表からのデータのまとめを見せる。

何メートルを走った時のタイムやら、過去の成績。
このような感じでデータを収集つけろと、口うるさい充。
これだけ調べながら頭を使う自体、正直面倒臭い。
しかし皮肉な事に、高知競馬一レースはズバリ的中。
「な? 一レースはズバリだろ? 俺の言った通りやってりゃ、高知は楽勝なんだよ。この競馬は三連単を狙って当てられるんだよ」
勝てば官軍負ければ賊軍というが、確かにこのままでは充理論通りに進んでいるのが何だか悔しい。
続く高知二レースは三連単を九点で買い、一、二、四、五着で負け。
「二レースだって惜しかったじゃん! さすがに俺も、神様じゃないからね。百発百中は無理よ。でもあと少しで取れていたろ?」
これは欲を張ってしまった自分がいけないが、前より多くの金額を賭けていた為、終始はマイナス。
高知三レースは馬単のみ当たり、四レースは馬連で勝負。
五レースも外れ、時間と金だけを失っていく。
結果全レース終了し、九千円の負け。
ほぼ一日という時間を使い、これだけ一週間も引っ掻き回されてこのザマか?
「岩ちゃん、そんな暗い顔すんなって。明日は俺のとっておきを見せるからさー」
睡魔と疲労により俺は早く解放されたくて、明日もまたここへ来る約束を交わしてしまう。
これはもう完全な地獄…、充地獄だ。
ラッキーホステルまで歩いて帰ると、そのままベッドへ倒れ込むように眠った。
二千二十年十一月十五日、日曜日仏滅。
あと十日ほどで、このラッキーホステルとの契約も終わる。
継続した場合の一日の宿泊料を聞くと、二千三百円まで値上がっていた。
ざっと一ヶ月で延長したら約七万円。
まだこのぐらいは払える金額だ。
でも無収入なんだぞ?
食事はどうする?
そのあとはどうなる?
少しは考えろよ。
こんな事なら深谷さんから出資を受け、新しい店を……。
だから何を考えているんだって!
ひもじくなったからパンを盗むのか?
違うだろ?
簡単に自身の矜持を状況で覆すなよ!
本当にどうするんだ、俺?
地方競馬なんて、呑気にやっている場合じゃないぞ?
目覚めてからも憂鬱な気分はまるで晴れなかった。
当たり前だ。
また今日も充の事務所へ行く約束をしてしまったのだから。
まだ金が尽きた訳じゃない分、二俣川の時よりはマシ。
でも本当に、このままでは二の舞になり兼ねない。
途端にフラッシュバックする過去。
フラッとドアへ鍵も掛けずに外へ出る。
俺、そんな悪い事してきたのかな?
何でこんな苦しまなきゃならないんだ?
いつもいつも考えたつもりで選択しても、待っているのは地獄だけ。
どうせあとちょっとで入ってくる給料も、十万円切るんでしょ?
こんな生活に何の意味がある?
こんな事をしていて何の価値がある?
群馬の先生は以前俺に言った。
神様に選ばれたから、人より試練が多い?
じゃあ、今のこの働いているのに貧窮な生活も試練なのかよ?
前に俺言ったよな?
そんな試練なんていらないから、地味でも平穏無事がいいってさ……。
はは…、死ねって事かよ……。
四十五歳にもなって、毎日四十七円のコロッケかメンチ食って……。
ふざけんじゃねえよ!
気付けば俺は夢遊病者のようにただ歩き、保土ヶ谷バイパスの陸橋まで来ていた。
昼間なので交通量も多い。
ほとんどの車が制限時速を守らず飛ばしている。
高い位置にいるせいか排気ガスの匂いのする強い風が身体を吹き付けた。
もう疲れちゃった……。
レスラーは攻撃を避けちゃいけないって?
避けてないよ!
受け続けたよ!
壊れちゃいけないって?
それは腹一杯美味い飯を食ってさ、エネルギーを蓄えているから大丈夫だったんだよ。
もう無理だよ、こんな生活はさ……。
おじいちゃん、本当ごめんね。
俺さ…、岩上家の大いなる恥だよね。
何かね…、もう世の中の悪意に耐えられそうもないや……。
距離を詰めて塀へ近付く。
一段高いコンクリートの上へ足を乗せる。
「……」
ここから下へ飛び降りたら、楽に終われるかな……。
遠くからサイレンの音が聞こえた。
鉄柵の手すりは氷のように冷たく、微かな振動が掌から肘へ伝わる。
風と車の唸りが、骨の中で鳴った。
「……」
四年経って、また俺は同じ事を繰り返すつもりかよ?
このまま俺は楽に死ねるのか?
冗談じゃない!
何の為に新宿へ戻り、四年も時間を過ごした?
こんな惨めに終わる為じゃないだろ?
あがらえよ。
必死に生きろよ。
競馬どころじゃない。
尻だって火がついている状態なんだ。
飯も食わずに今後を考える。
俺に何ができる?
残り僅かの金から、日払いでもらえる仕事といえば、結局のところ裏稼業しかないじゃないか。
何を俺は錐とデートしたり、ルルの店で金を使ったり、挙句の果てに何日もブラブラしていたのだ?
猛烈な自己嫌悪。
両手で頭を掻き毟り、ベッドの鉄柵へ打ち付ける。
コンコン……。
部屋をノックする音がした。
「……。はい……」
「あのー…、他の宿泊客もいますので、もう少しお静かにできませんか?」
「すみません……」
ドア越しに冷たい声で言われ、我に返る。
そう…、ここは自分の家でもなければ、自分の部屋でもない。
ラッキーホステルへ長期滞在しているだけ。
「……」
一旦川越に戻ろうか?
帰ったところでどうする?
何をするつもりだ?
何の取り柄も無ければ、金も無い。
もっと早く動くんだった……。
昼過ぎになり、充から電話が掛かってくる。
もう断ろう。
「岩ちゃん、今日は何時頃うちの事務所来るの?」
「佐藤さん…、俺、もう余裕無いんですよ! 競馬どころじゃないんです!」
「そんなの岩ちゃんが、俺の言う通り賭けてないからだけだろ? 負けたのを人のせいにすんなよ」
「人のせいにはしてません! 俺は無職だって言ってんですよ!」
「分かったよ…。そんな熱くなるなって。とりあえずうちの事務所おいで。対策を練ろう。飯は食べたの?」
対策?
充は何か俺の事をちゃんと考えていたのか?
「……。まだですよ……」
「中華でいい? 俺が出前取っておくからさ」
「……」
「気にすんなって。飯代ぐらいご馳走すっから。二時までには来なよ」
「……。はい……」
一体俺は何者なんだ?
何故ノーと言えない?
地獄へ向かって自分から行くつもりなのか?
そうだ。
錐に電話をして今から時間を作ってもらおう。
まだ彼女を抱いていない。
それで甘い時間を過ごす。
充には女と会う用事が急にできたと断ればいい。
縋るような思いで彼女へ電話を掛ける。
「……」
ニ十回コールしても錐は電話に出なかった。
LINEを送る。
一時間経っても既読にならない。
俺が彼女のLINEを前に無視したままだから、ひょっとして錐はブロックしているのか?
そんなはずはない。
だってあれだけ三回もデートして、川越も一緒に連れていって……。
しつこく思われるが、もう一度電話を掛ける。
「……」
明かな着信拒否。
一度無視したぐらいで、ここまで俺を嫌うのか?
全身がささくれ立つ。
壁に向かって思い切り殴りつけたい。
右の拳をギュッと握り締める。
振り被った瞬間、ここは自分の部屋じゃない事を思い出し我に返る。
頭を抱えたままベッドへ蹲った。
本当に馬鹿丸出しだ。
何で俺はここまで愚直なんだろうか?
生きている価値など、本当にあるのか?
携帯電話が鳴る。
ひょっとして錐か?
「ちょっと岩ちゃん、二時過ぎてるって! もう飯も届いているよ。今どの辺なの?」
慌てて出ると、佐藤充だった。
「も…、もう向かってますよ……」
「早くしないと冷めちゃうよ」
「すみません……」
力無く立ち上がり、着替えを済ませる。
俺は何をしているんだ?
思考がどんどん閉じていく。
なるようになれだ。
俺は頭が良くないのだから。
大久保通りから小滝橋通りを右折。
ひたすらまっすぐ歩く。
足取りが重い。
職安通りも通り過ぎ、ひたすら充事務所へ向かう。
「本当遅いよ、岩ちゃん。社会人なんだから、約束した時間は厳守だって」
すっかり冷めた出前を食べ終わり、タバコに火をつける。
「佐藤さん、ご馳走様でした……。それで対策と言うのは?」
「見なよ、この出馬表。今日はさ、この一レースのダート千四百。一番人気は宮川なんだけどさー、赤岡は二番人気なんだよ」
「あ、あのー…、競馬の予想じゃなく、対策を聞きたいんですけど?」
「だから、これだって! もうさ、これこの二人で鉄板だって! 中々無いぜ? ここまで鉄板レースなんてさ」
コイツ、この期に及んでも、まだ競馬なのか?
目の前が暗くなっていく。
もうこれは俺の人がいいとか、そういった話じゃない。
明らかに人を見る目が完全にないのだ。
「ほら、あと発走まで三分切ったよ? 早く岩ちゃんも賭けられる準備しなって」
何なんだ、この人?
無職の俺にこの状況でギャンブルをまだ勧めるのか?
いや、ここまで自信満々に言うのだ。
とりあえず一レースの鉄板馬券を取っておけ?
「……」
「ほら、岩ちゃん、あと二分! 始まっちゃうって!」
「ほ、本当に鉄板なんですか?」
「だからもっと早く理論を説明しようと思ったのに、遅刻したの岩ちゃんじゃんかよ。ほら、あと一分!」
「必ず当たるんですね? 4-9一点なんですね?」
「鉄板って言ってんじゃん」
俺は携帯電話で操作をして、十万円を馬連一点買いした。
これが三倍にも四倍にもなれば、とりあえず少しは凌げる。
レーススタート。
勢いで十万円を賭けてしまった……。
「いくら岩ちゃんは賭けたの?」
「十万です」
「はあ? 十万? そんな最初から飛ばしてどうすんの?」
「え? 佐藤さんが鉄板って……」
俺の画面を覗き込む充。
首を左右に大袈裟に振る。
「そんな張り方すんなら、ワイドもだろー。本当に岩ちゃんは言う事を聞かないで勝手に賭けるよなあ」
「……」
今さら何を言っているのだ、この男は?
残り二百メートル。
一番手先行を守り抜き9番フジコウキ、二番手に外から9番ケンユキノオー。
だが内から8番ダークネブラス。
「……」
レースが決まる。
ワイドなら当たっていた……。
「……」
しばらく放心状態のまま画面を見ていた。
「ほら、俺の言った通りだろ? ワイドなら当たっていたのに」
「……」
「だけど俺はしっかり保険で買った三連単取れたよ。駄目だよ、岩ちゃんさ。もっと人の話をちゃんと聞かないと。俺、千円買ってるから、三連単十五万以上だよ。片や岩ちゃんは十万円負けでしょ?」
「……」
「よし、二レースはね。おい、岩ちゃん! ボーっと突っ立ってないで、座ってメモ取りな」
「……」
どうすんだ、俺?
もう数万円しかないぞ?
「ほら、岩ちゃん。切り替え切り替え」
「……。佐藤さん…、もう俺に関わらないで下さい」
「え、何だよ、いきなり? おい、どこ行くんだよ?」
返事もせず、充事務所を出た。
外はもうすっかり寒くなっている。
川越からコートも持ってくれば良かったな……。
何も考えたくなかった。
充から着信が入る。
そのまま電源を落とした。
本当に俺は馬鹿だ。
何であんな男を信用してしまったのだろう。
充の饒舌な口調。
そして傍若無人さ。
あのタイプは初めてではない。
それなのに何故……。
ラッキーホステルへ帰り、ベッドへ倒れるように崩れ落ちる。
気付けばいつの間にか寝てしまい、夜になっていた。
何度も出る溜め息。
もうやってしまった事は、取り戻しが利かない。
本当に馬鹿な真似をしてしまったものだ。
前にも似たような事で引きずり込まれて……。
ん?
いつの話だ?
そうだ、随分昔に縁を切った竹田。
あの身勝手さは、竹田のやり方とそっくりなのだ。
坊主さんの結婚式の時だから、俺が二十五歳……。
歌舞伎町で働き出し一週間も過ぎた頃、坊主さんの結婚式があった。
この日だけは休みをもらい、出席する。
あのゲーム屋のお陰で祝儀もちゃんと包めた。
そこだけは感謝をしないといけない。
披露宴の席では地元の先輩たちと同じテーブルに着く。
以前毎週のように遊んでいた竹田、秋山さん、神田さんと同じ席。
対面には坊主さんの同級生でもある二つ上の従妹の和ちゃんやその仲間たちが座る。
竹田だけ婚約しているというフィアンセを無理やり同席させていた。
二人分の席と料理食って、祝儀は竹田一人。
披露宴では料理や引き出物の人数で値段も変わるんだぞ?
本当にこの人常識がない。
今日の主役は坊主さんたちなのになと内心思いつつも、披露宴は進行していく。
自ら立候補して友人代表のスピーチでしゃしゃり出る竹田。
「坊主! 今日は本当おめでとうな。おい、おまえもこっち来いよ」
竹田は婚約者をスピーチの場へ呼ぶ。
「俺たちもあとに続くからよー!」
遠くからその光景を眺めながら、会場が白けているのが分かる。
今日は坊主さんたちの結婚式なんだぞ?
ちょっとした不満を覚えた。
俺の友人代表のスピーチの順番が来る。
緊張しながらも大勢の前で坊主さんと裕子さんの夫婦を心から祝福した。
「この度土方智さんと最上裕子さんがこの場で結婚します。私にとって兄のような存在であり、また裕子さんも俺にとって姉のような存在になります。ん? 兄と姉…、これじゃ近親相姦になってしまいますね……」
会場がドッと沸く。
「ちょっと矛盾した言い方になるけど、言わせて下さい。坊主さん、裕子さん! いや…、兄さん、姉さん! 本日はご結婚本当におめでとうございます!」
深々と頭を下げる中、割れんばかりの拍手に包まれた。
ジャイアント馬場社長と会った時の緊張感。
あれに比べれば、ある程度の事は落ち着いて構える事ができるようになっていたのだ。
以前同級生の柴崎義明の披露宴でも行った過去も味方していた。
場所はディズニーランドの見えるホテルで行われ、無事披露宴は終わる。
俺以外のみんなは着実に前へ向かって進んでいた。
突然竹田が彼女と、坊主さんたちと同じホテルに泊まると急に言い出す。
明日は新婚の坊主さんたちは、裕子さんの希望によりディズニーランドで一日遊ぶ予定。
そこへ竹田たちも加わると言い出したのだ。
人のいい坊主さんと裕子さんは断れないだろうけど、竹田も少しは空気を読めよと思う。
生涯で一回しかない大事な日なんだぞ?
「智、神田も秋山の俺たちの部屋、ちょっと覗いていけよ」
あくまでも傍若無人な竹田。
自分たちが泊まる部屋を俺たちに見せて自慢したいだけなのがよく分かる。
帰りの電車の時間帯もあるので、帰る際竹田の彼女に「あとは二人きりでごゆっくり」と声を掛けて帰った。
翌日竹田から電話があり、ひたすら怒って俺を責めてくる。
何故そこまで怒るのか理由を聞くと、俺が昨日の帰り際「あとは二人きりでごゆっくり」と声を掛けたせいで彼女と気まずくなり、翌日のディズニーランドでもずっとご機嫌斜めだったと言う。
あとから聞いた話になるが、裕子さんたちはご機嫌斜めの竹田の彼女の気分を損ねないよう気を使って過ごしたらしいので、とことん坊主さんたちの結婚式に竹田は水を差してくれた訳だ。
この辺りから普段つるんでいた竹田とは価値観の相違から決定的な距離を置くようになった。
あの男は、休みになると今福にある自分の家へ俺や坊主さんを毎週呼び、ひたすら対戦ゲームを強要した。
俺も坊主さんも仕事が忙しくなり、日曜日に合わせられなくなると、それだけでキレだし何とかしろと傍若無人に振る舞う。
自分は家だからいい。
あいつの家まで行くのに車でないと行けない距離。
家の車が使えないのを理由にすると、一時間掛けて歩いてくればいいだろと普通に言った。
「コンピューター相手に戦っても腕が上がらないからよ。その点、智や坊主は俺といい感じで対戦できるから楽しいんだよな」
自分は常にゲームをしながら、対戦相手に俺や坊主さんが欲しかったという理由。
まだ二十歳前後の年齢で、二つ年上の先輩というものあり、俺はそれでも礼節のある後輩を演じ続けた。
しかしそれは相手の増長をさらに生み出しただけ。
「……」
佐藤充と竹田は、似たような構造なのだ。
自分が競馬をやるから、傍で一緒に話ながらできる相手が欲しい。
その為なら、相手の迷惑や状況などお構いなし。
何で二十年以上経っても、俺は成長していないのだろう……。
充との当たり前の決別。
だが遅過ぎたのだ。
どうするんだよ、これから……。
山下から電話が入る。
横領を認めた店長の橋本は、クビになったそうだ。
ただそのあと番頭の香川から「赤崎さんには橋本をクビにした事言わないで下さい」と釘を刺されたらしい。
今の俺にとって本当にどうでもいい話題だった。
「何で香川さん、岩上さんに橋本の事を言っちゃ駄目って、言うんすかね?」
「俺の絵図通りにいって悔しいんだろ……」
「それより最近ヨッピーコレクション、凄い図に乗ってんすよ!」
「……」
「何で岩上さん、吉岡なんかにパソコンのスキル教えちゃったんすか」
「……」
「あれ? 岩上さん? 聞こえてます?」
「うるせぇ……」
「え? どうしたんすか?」
「うるせえって、言ってんだよ! 辞めた俺にくだらない電話してくんじゃねえよ、ボケ!」
携帯電話を放り投げ、力無く笑う。
猪狩へ状況を伝えた俺の最後のメガンテ。
橋本はそれでクビになった。
でも香川はそれでも俺には戻って来てほしくないようだ。
当たり前か……。
自己犠牲呪文を唱えた俺は、死の瀬戸際。
いや、ギリギリだが、まだそうではない。
財布には数万円残っている。
もう何でもいいか。
とりあえず酒を飲もう。
外へ出てスナックゆうこへ向かう。
入口から中を覗き込む。
錐はいないようだ。
少しだけホッとした。
飲み屋の南が俺の姿に気付き、声を掛けてくる。
「岩上さん、いらっしゃい。この間、連れてきてくれた方たち来てるわよ」
この間連れてきた?
伊達か?
いや、伊達が一人で大久保まで飲みに来るか?
腕を掴まれ店内へ引っ張られる。
すると奥のボックス席では、内藤ノブ、吉岡、本田の三人が楽しそうに酒を飲んでいた。
「あ、赤崎さんじゃないですかー」
「結構久しぶりですね」
「一緒に飲みましょうよ」
強引にソファーへ座らせられ、目の前にグレンリベットが置かれる。
南が十八年のボトルを手に取ったので、慌てて制しした。
「え、どうしたの?」
「きょ、今日は十二年のほうを飲みたいんだ」
ラッキーハウスを辞める際、店長の橋本からもらった十八年。
今はそれを飲む気分じゃなかった。
それに橋本とツーカーの仲であるノブ。
橋本をクビに持っていったのは俺。
彼は不意に現れた俺の存在をどう思っているのか?
ノブは俺の視線など気にせず、店の女にちょっかいを出して笑っている。
「ノブさん…、橋本とはまだつるんでいるんですか?」
自然と口から出た台詞。
彼はしばらく俺の顔をジッと見てから「ええ、つるんでますよ」とだけ答えた。
不味い酒だ。
本当に嫌な場面に来てしまった。
漁夫の利を得た人間たち。
自己犠牲で何一つ得るものもなく、失っただけの俺。
俺がラッキーハウスを辞める起因になったのは、目の前にいるノブの密告から始まったのだ。
「南…、タバコ切れたから買ってくる」
「え、そんなの買いに行くからいいよ。座って飲んでて」
「そういうの好きじゃないんだ。自分で買ってくるよ……」
嘘をついてスナックゆうこを出る。
とりあえずあの席にいたくなかったのだ。
二本目のタバコに火をつけたところで、失敗したと思う。
何故出る時、会計を済ませておかなかったのだろうか。
これではまた店へ一度戻り、あいつらと顔を合わせなきゃいけない。
せめてノブたちが出るまで、こうして外にいるか?
自分が悪い訳じゃないのに、俺は一体何をしているんだ?
飲み屋通りを何往復も歩く。
もう何本目のセブンスターだろう。
小滝橋通りに面した春山記念病院前に来た時だった。
赤レンガのビルからメガネを掛けた女が出てくるのが見える。
スナックゆうこの南だった。
道路へ出ると、辺りをキョロキョロと誰かを探しているようだ。
病院近くに立つ俺に気が付くと、走ってこちらへ向かってくる。
「岩上さん! ずっと外で何をやってんの!」
「タ、タバコ吸ってたんだよ……」
「どんだけ吸うのよ。早く店へ戻ろうよ」
俺の腕に絡みつき、店へ引っ張っていこうとする南。
「あのさ、ここで会計払って帰るじゃ、駄目?」
「何でよ? 同じ職場の従業員でしょ?」
正直に店はもう辞めた事、そしてちょっとしたノブとの因縁も話した。
彼らをスナックゆうこへ連れて来たのは、自分の送別会という特別な時だからたまたま。
しかし、まさか再度あの店へノブたちが来店するとは思いもよらなかった。
「話してくれてありがとう。それじゃ一緒に飲むの辛かったね」
「だからさ、ここで金払うから帰らせてくれよ、な?」
「やーだ! 私は岩上さんがいいの。それにゆうこへ最初に来たのは岩上さんでしょ? あの人たちより、私は岩上さんのほうが大事だから」
「……」
「南…、おまえ、俺と錐の事知ってんだろ?」
「知ってるよ。あの子が岩上さんの文句を私に言っていたし」
「……」
「でも今はフリーなんでしょ?」
南はそっと目を閉じる。
キスしろという事か?
見栄えも可愛くない女。
それでもボロボロだった俺は南の唇を奪った。
久しぶりの女の感触。
路上で俺は服の上から彼女の胸を弄る。
「ちょっと! この通り、店の前なんだから! 岩上さんって、結構強引なのね」
「……」
「ね、そろそろ店へ戻ろうよ?」
「なあ……」
「ん、どうしたの?」
「明日、飯食いに行かないか?」
「いいけど、錐ちゃんはもういいの?」
「……。ああ……」
とにかく女を抱き、性欲に溺れたい気分だった。
店へ戻ると、ノブと吉岡は先に帰ってしまっていた。
残る本田一人だけが、俺を待つ形で飲んでいる。
「ダッチ、何で一人で残ってんだよ?」
「赤崎さんには本当にお世話になったんで、こうして会うのも久しぶりじゃないですか」
「……」
「今日は偶然とはいえ、会えて良かったですよ。顔見れて嬉しかったです」
「今はどこで寝泊まりしているんだ? ラッキーホステルで全然見掛けないけど」
「今はもっと安いアスクルームってところなんですよ」
「え、何それ?」
「漫画喫茶とはちょっと違うんですけど、月極で凄い安いんですよ」
「いくらぐらい?」
「一ヶ月で、今なら二万円です」
「はあ? 二万?」
「その代わり狭いですよ? 寝返りも打てないぐらいの狭さで、かろうじて足を伸ばせて眠れるぐらいですけど」
今のラッキーホステルもあと十日ぐらいで契約が終わる。
金の無い俺にとって、そこならまだ生活を凌げるかもしれない。
「ねえ、ダッチさ、ちょっとそこ案内してくれよ」
「岩上さんみたいな人が泊まるような場所じゃないですよ?」
「無職になった男捕まえて何抜かす。頼むよ」
「その前に一軒ラーメン食べに行きましょうよ。腹減っちゃって。もちろん世話になったんで、自分奢りますから」
本田に促されるような形で、大久保エリアから歌舞伎町へ向かう。
一期一会とはいうが、まさか新人だった本田とこのような縁ができるとはな。
「どこ行くんだ?」
「前に行ったたかはしでどうです? あそこの塩ラーメン好きなんですよ」
西武新宿駅前通りを歩いていると、背後から突然声を掛けられた。
「岩上さんじゃないですか。お久しぶりです」
インターネットカジノ『餓狼GARO』時代、共に働いた山本だった。
共に働いたのはあの店だけだが、彼とはちょっとしたすれ違いが多い。
確か俺が横浜時代、酒井さん系列のラーメン屋で働いていたと思ったが。
「山本さん、久しぶりですね。まだ酒井さんのラーメン屋で働いているんですか?」
「もうあそこはとっくに潰れましたよ。今は井村さんところの一番街のインカジで働いていますよ」
「あ、そうだったんですね。俺も歌舞伎町の情報すっかり疎くなりましたね」
「岩上さんは今、まだラッキーハウスですか?」
「いやいや、辞めて今じゃ無職ですよ」
「え…、岩上さんなら何でもできるから、引く手あまたなんじゃないですか?」
「それがのんびりし過ぎてしまって。あ、山本さんのインカジって、従業員募集してないんですか?」
「今はのところは…、あ! でも、うちの上の人間に岩上さんがフリーになったと言えば、多分いい反応あると思いますよ」
「山本さん! 本当に今無職なんで、お願いできませんか?」
「岩上さんがうちに来るんなら…、明日連絡しますよ」
「本当によろしくお願いします」
話が一通り終わり、帰る山本。
本田が感心したように声を掛けてくる。
「赤崎さんって、本当に顔広いんですねー。あの人、凄い赤崎さんに恐縮してたじゃないですか」
「前にちょっとだけ一緒に働いた事あるだけだよ」
山本の後ろ姿を見ながら、本当に今日は何て一日なんだと思う。
充の詐欺紛いな高知競馬で金を失い、錐にはブロックされる散々な日。
そう思って自棄になって飲みに行くと、ノブたちと鉢合わせ。
だが南と明日食事へ行く約束をして、本田からはラーメンをご馳走になりながら、アスクルームという安い宿の情報まで聞けた。
死の淵からいきなりギリギリ引っ張られたような感じがする。
あいつのニュアンス的に、新たな仕事の件は何とかなりそうだ。
そうなると明日は可愛くはないが、南をたっぷり抱いて日頃の憂さを晴らそう。
確か川越からシアリス持ってきていたよな?
あれだけの目に遭ったというのに、馬鹿な俺は目先の性欲の事で頭の中がいっぱいになっていた。
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