#002 第壹編 沿革 一 日本料理の沿革 其乃二
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同し御卷の足名搥手名搥神の御もとに、速須佐之男命の到ます條に、箸の出雲國の肥の河上より、流下りしこと、叉二人の神に八鹽折の酒を、醸、酒船に盛りて待てよと、告給ひしなむ、はやくより、箸も酒醸ことも有しなり、次に大國主神の兄弟、八十神ましゝが、皆國を大國主神に避りまつりし條、又其次條に、𧏛貝比賣、蛤貝比賣の名、醫神少彦名神の事、出雲國五十狹狹之小汀に飲食、須佐之男命の御所の條に牟久の木實を咋破し、須勢理比賣命に甚嫉妬し給ふにわびて倭の國に上り坐んとする條、其后大御酒杯をとらしてさゝげて歌ひて宇伎由比したまふよしなどしるせる。次に天孫降臨の段に、雉の額を射斃して、自ら死し天稚彦を葬する條に、乃其處に喪屋を作て河雁を岐佐理持として、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし、かく行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びたりき、岐佐理持〔死者の食を載て行人也〕御食人〔料理人を云る也〕碓女〔たむくる米を春く女人〕(是注は或人の註也)としるせり。
次に大國主神の、御國を獻りをへし段に、大國主神をいつき祭れる文に、「出雲國の多藝志之小濱に、天之御舍を造て、水戸神の孫、櫛八玉神を膳夫として、天の御饗獻る時に、禱白して、櫛八玉神鵜に成て、海底に入て、底の波邇を咋出て、天八十毘良迦を作て、海布之柄を鎌て、燧臼に作り、海蓴之柄を燧杵に作て、火を鑽出て云けらく、是我所燧火者、高天の原には、神產巢日御祖命の登陀流天の新巢之凝煙の、八拳垂まで燧擧げ、地の下者、底津石根に燒凝して、栲繩の千尋繩打延、釣せる天人之、大口之尾翼鱸、佐和佐和邇、控依騰て、打竹之登遠遠登遠遠邇、天之眞魚咋献らんと白しき、」
かく見えたる、是後世の料理人をかしはでとよぶ事の、文に見えたる始なるべし、眞魚咋は魚料理といふことなるべし、鵜となりて海底にいれるよしは、今もなほ豐前國企救郡門司村なる早鞆神社の海布刈神事に其樣のこりたり、其樣を眞目に見たりし人の書けるものあれど爰にはぶきつ、さながら古今一貫の奇事なり、此にまな咋といへるにて、獸類鳥類の料理も供りたりしを志るべし。次に、魚類料理の事につきて、大功を留めたるは、天の岩屋戸の御前にたちて神樂仕奉りしを以て志られたる、天宇受賣命なり、天孫の御さきに仕奉りし猨田毘古神を送りて「還到て、乃悉に鰭廣物鰭狹物を追聚て、汝は天神の御子に仕奉らむ耶と問ふ時に、諸の魚共皆仕奉らむと白す中に、海鼠白さず、爾天宇受賣命、海鼠に謂けらく、此口や答せぬ口といひて、紐小刀以て、其口を拆き、故今に海鼠の口拆たり、是以御世御世、島之速贄獻れる時に、猨女の君等に給ふなり」と、記せる宇受賣命なると是時從そ魚類料理は盛りになりて、鳥獸の料理は第二の物となりにけむかし。次に大山津見神の女をめしたまふ條に、石長比賣を副て、百取の机代の物を持しめてと見えたる。また海神の豐玉毘賣を婚せ奉る條にも、百取の机代の物を具へて、御饗して、と志るせる。是らをもて、つぎつぎ料理のさまの供りこしをしるべし。
【現代語訳】
同じ神代巻には、足名椎神・手名椎神のもとへ速須佐之男命がおいでになった場面で、箸が出雲国の肥河の上流から流れてきたこと、また、二神に対して、何度も繰り返して醸した八塩折の酒を造り、酒を入れる大きな器に満たして待つよう命じられたことが記されている。これによって、きわめて古い時代から、すでに箸が用いられ、酒が醸造されていたことがわかる。
次に、大国主神の兄弟である八十神たちが、皆、国を大国主神に譲った場面がある。また、その次の段には、蚶貝比売・蛤貝比売という神々の名や、医薬の神である少彦名神のことが記されている。
さらに、大己貴神が出雲国の五十狭狭の小汀に至り、そこで食事をしようとしたこと、須佐之男命の御殿で、大国主神が椋の木の実を噛み砕いたこと、須勢理比売命の激しい嫉妬に困り果て、倭国へ上ろうとしたこと、その後、大御酒杯を取って捧げ、歌を詠み交わして夫婦の契りを結ばれたことなども記されている。
次に、天孫降臨の段では、雉を射て殺した矢によって自らも命を落とした天稚彦を葬る場面がある。
そこには、喪屋を建て、河雁を「岐佐理持」とし、鷺を「掃持」とし、翡翠を「御食人」とし、雀を「碓女」とし、雉を「哭女」と定め、このような役割を設けて、八日八夜にわたって歌舞を行ったと記されている。
「岐佐理持」とは、死者に供える食物を載せて運ぶ者であり、「御食人」とは料理人をいい、「碓女」とは、供える米を臼で搗く女性をいう、と注記されている。なお、この注は、ある人物が付したものだという。
次に、大国主神が国を献上し終えた段には、大国主神を祭ったことについて、次のような記述がある。
出雲国の多芸志の小浜に天の御殿を造り、水戸神の孫である櫛八玉神を膳夫として、天の御饗を献上した。
その際、櫛八玉神は祈りの言葉を述べ、鵜の姿となって海底に入り、海底の粘土をくわえて持ち帰り、それによって多くの平たい器を作った。また、海藻の茎を用いて燧臼を作り、海蓴の茎を燧杵として火を起こす臼とし、別の海藻の茎を火を起こす杵として、火を鑽り出した。
そして、次のように申し上げた。
「私が今起こしたこの火は、高天原では、神産巣日御祖命の新しい御殿に立ちのぼる煙が、幾重にも長く垂れ下がるほど高く燃え上がり、地上では、地下深くの岩根まで焼き固めるほどに燃え広がるでしょう。
千尋にも及ぶ長い栲縄を延ばし、釣り上げた、大きな口と立派な尾鰭をもつ鱸を、ざわざわと引き寄せ、竹を打ち鳴らすような音を響かせながら、天の真魚咋を献上いたしましょう」
この記述こそ、後世に料理人を「膳夫(かしわで)」と呼ぶことが、文献上に現れる最初の例であろう。
「真魚咋」とは、魚を調理した料理のことであろう。
櫛八玉神が鵜となって海底へ潜ったという伝承は、今もなお、豊前国企救郡門司村にある早鞆神社の海布刈神事に、その形を残している。その神事を実際に見た者が記した文献もあるが、ここでは省略する。
古代から現代まで一貫して続く、まことに不思議な神事である。
ここで「真魚咋」と記されていることから考えれば、魚料理だけでなく、獣や鳥の料理も供えられていたことがわかる。
次に、魚料理の発展に大きな功績を残した神は、天の岩屋戸の前で神楽を奉仕したことで知られる天宇受売命である。
天宇受売命は、天孫の先導役を務めた猿田毘古神を送り届けた後、戻ってきて、ひれの広い魚も、ひれの狭い魚も、海のあらゆる魚を集めた。
そして、
「おまえたちは、天つ神の御子にお仕えするか」
と尋ねたところ、すべての魚が、
「お仕えいたします」
と答えた。
しかし、その中で海鼠だけは答えなかった。
そこで天宇受売命は海鼠に向かって、
「この口は、返事をしない口なのか」
と言い、小刀でその口を裂いた。そのため、今でも海鼠の口は裂けた形をしているという。
それ以来、代々、島々からの速贄を献上する時には、その一部を猿女君の一族に賜ることになった、と記されている。
この天宇受売命の時代以後、魚料理は盛んになり、鳥や獣の料理は、それに次ぐものとなったのであろう。
次に、大山津見神の娘を妻として迎えられた場面では、石長比売を添え、数多くの机に載せた贈り物を持たせた、と記されている。
また、海神の娘である豊玉毘売を妻として迎えられた場面にも、数多くの机に載せた品々を用意して、御馳走を差し上げた、と記されている。
これらの記述によって、料理の形式や供膳の方法が、時代を追って次第に整えられてきたことを知ることができる。
【検証】
一 箸と酒造の古例について
須佐之男命の説話には、肥河の上流から箸が流れてきたこと、また足名椎・手名椎に八塩折の酒を醸させたことが記されている。原著はこれを、箸の使用と酒造が古くから存在したことを示す例として捉えている。ただし、これは神話上の記述であり、実際の使用年代をそのまま示すものではない。
二 五十狭狭之小汀の飲食について
「出雲国五十狭狭之小汀に飲食」とする記事は、『古事記』本文ではなく、『日本書紀』神代巻の一書に見える伝承である。大己貴神がその地で飲食しようとした際、少彦名命が現れるという内容であり、原著は『古事記』『日本書紀』双方の伝承をまとめて扱っている。
三 「御食人」を料理人とする注について
天稚彦の葬送記事に見える「御食人」について、原著は「料理人を云る也」と注している。御食に関わる役であることは確かだが、現代の職業概念としての「料理人」と完全に同一とみるより、御食を担当する役人・奉仕者と理解する方が慎重である。
四 「膳夫(かしわで)」を文献上の初見とする点
櫛八玉神を「膳夫」とする記述は『古事記』に見える。原著はこれを、後世の料理人を「かしわで」と呼ぶことの文献上の始まりとみている。ただし、「最初」であるとの判断は原著者の見解として扱い、現代の検証では断定を避けるのが適切である。
五 「真魚咋」の意味について
原著は「真魚咋」を「魚料理」と解している。しかし、この語は単に現代的な意味での「魚料理」と限るより、魚を食物として供すること、あるいは魚を用いた御馳走・供御を指す語とみる方が幅がある。
六 早鞆神社と海布刈神事について
原著は、櫛八玉神が鵜となって海底へ入る伝承の名残として、豊前国企救郡門司村の「早鞆神社」の海布刈神事を挙げている。現在は和布刈神社の和布刈神事として知られるため、当時の社名・別称・表記の関係については、なお確認を要する。
七 「真魚咋」から獣・鳥料理まで導く点
原著は「真魚咋」の記述から、獣類・鳥類の料理も供えられていたと推論している。ただし、「真魚咋」自体は魚に関わる語であり、そこから獣類・鳥類の料理まで直接導くことは難しい。ここは原著者による料理史的な推論とみるべきである。
八 天宇受売命を魚料理発展の功労者とする点
天宇受売命が鰭広物・鰭狭物を集め、海鼠の口を裂いた説話は『古事記』に見える。しかし、「この時から魚料理が盛んになり、鳥獣料理が第二となった」という記述は神話本文にはなく、原著者独自の料理史的解釈である。
九 「百取の机代の物」について
「百取の机代の物」は、多くの品々・豊富な供物を表す古語表現とみられる。「百」を机の正確な台数と捉えるより、数多くの品々を備えたことを示す表現として読む方が自然である。そのため、現代語訳では「数多くの品々を持たせた」程度とするのが穏当である。
