#006 第壹編 沿革 一 日本料理の沿革 其乃六
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他田宮段に船史祖王辰爾の烏羽に書し文字を飯氣にて見出たりし。小治田宮段に河内漢直贄を新羅共食者となし、錦織、首久僧を任那共食者となしゝ。出雲國神戸郡より大さ缶の如き瓜あるよし奉しゝ。雷の少魚と化て樹の枝に狹りしを取て焚しこと、近江國蒲生河より人の形せる魚を得しこと。後岡本宮段エゾ人の、肉を食ふ故に弓矢を持ちたりといひし。出雲國の雀魚のこと。又エゾ人の五穀有やと問れて、之なし肉を食て存活と答たりし。飛鳥淨御原宮段に、
詔(二)諸國(一)曰、自今以後制(二)諸漁獵者(一)、莫(レ)造(二)檻牢及施機槍等之類(一)、亦四月朔以後九月三十日以前莫(レ)置(二)比滿沙伎理梁(一)、且莫(レ)食(二)牛馬犬猿雞之宍(一)、以外不(レ)在(二)禁例(一)、若有(二)犯者(一)罪(レ)之
【読み下し文】
諸国に詔して曰く、
「今より以後、諸々の漁猟者を制す。
檻牢および機槍などの類を造ることなかれ。
また、四月朔日より以後、九月三十日より以前には、比満沙伎理梁を置くことなかれ。
かつ、牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふことなかれ。
これ以外は禁例にあらず。
もし犯す者あらば、これを罪せよ」
と見えたる。同御世に新嘗の事ありて齋忌尾張國、次丹波國と卜に食しこと。膳夫釆女等之手繈肩巾並になせそ、と詔たまひし。藤原宮御世に攝津國武庫海一千步内、紀伊國阿提郡那耆野二万頃、伊賀國伊賀郡身野二万頃に守護人を置て漁獵を禁斷む、河内國大鳥郡高脚海に准ふ云云、又次年公卿百寮の人等をして、酒宍を禁斷せよとの詔ありし、又次の年大水の灾害にて存ふを得ざる者に、山林池澤に漁採事を得せしめし、又次年、桑紵梨栗蕪菁等の草木を勸殖せしめ以て五穀を助しめよと見えたる等を引出て考ふれば、後の御世御世の料理の、生出せる基をとヾむるに足るべし最めでたき高橋家の傳書厨事類記に、干物、生物、 窪器物、追物、汁菜、燒物、干菓子、唐菓子等の料理法擧られたる、或雜錄又神事略といふ書等に載せられたる、春日社黑木机に柏御饌、白酒、酒、鹽等供へたる圖、出雲社の其等の形等を合して調へたらむには調ふる事も得べきかと思はるゝなり、前に引たる藤原宮より奈良宮を經て次々の御世にも、鳥獸料理の絶ず行はれし事は、延喜式の祝詞の神御食の稱言にて志られたり、されど飛鳥清淨原宮の頃より追次に、魚類料理を旨として、次に鳥類を用ゐられ、次に神供物にかくべき物ならねば獸類料理もすこしは用ゐられたりけむ、さありしより、中古近古近世の料理の樣の、上古と變りたる風を現はすに至れりしなり、其時に當りて力を料理の上に、添給はし、千歳を經たる現今に至るも其法式を仰しめ給ひたる、天皇出たまひ、又料理に仕奉りて、例の、高橋朝臣に計らひて、朝臣の名に次て、萬歳の後まで料理人の祖なるよしを傳る、中納言藤原山蔭卿出て、つかへまつりて紀元千五百年代より今二千五百年代に渡りて、用ゐられたる料理を定め給たりけり、志かれども、高橋朝臣子孫の仕奉れりし大御食の樣は、絶ず宮中に用ゐられて、なほ古代の樣を改めず、四條山蔭の傳る料理法は臣下に用ゐられて、世上此の傳を受ざる者は無やうになりて、種々の樣を作り出せり、此古代の樣なると、種々の樣なるとの二樣を、取すべて日本料理とは云ふにそある、今世俗言に日本料理といへるは、日本料理と取出て云ふべき物ならず、一種異樣の物と志るべし
大日本料理とは、今の世の童部らの大人びたるが、よしと思へる、西洋各國の料理法、支那料理法などの、をさなびたる物の、何千年をか重ね〳〵て、成り成れる、最古き御代より、一統に旨とせる所はたがふことなく傳はれる、料理法をいふなり、大地球上に比類なく備り備はれる料理法をいふなり、高橋の朝臣、四條山蔭卿の定めによりて 君臣の別も正しく直くなりなれる料理法をいふなり、其料理のさまは已下の條を見て知るべし
【現代語訳】
他田宮の段には、船史の祖である王辰爾が、烏の羽に書かれていた文字を、飯を蒸した湯気に当てて浮かび上がらせ、読み取ったことが記されている。
小治田宮の段には、河内漢直贄を新羅からの客人と食事をともにする役とし、錦織首久僧を任那からの客人と食事をともにする役としたことが記されている。
また、出雲国神戸郡から、大きな甕ほどもある瓜ができたとの報告があった。
原著は、雷が小さな魚に化して木の枝に挟まっていたものを取り、焼いたという記事を挙げている。また原著は、近江国の蒲生河から人の形をした魚が得られたとしている。
後岡本宮の段には、蝦夷の人々が、肉を食べるので弓矢を持っている、と答えたことが記されている。
また、出雲国の「雀魚」についての記述もある。
さらに、蝦夷の人々が、
「五穀を持っているか」
と問われたところ、
「五穀はない。肉を食べて命をつないでいる」
と答えたことも記されている。
飛鳥浄御原宮の段には、次の詔が記されている。
諸国に対し、次のような詔が出された。
「今後、漁猟を行う者に一定の制限を設ける。
獣を捕らえる檻や、仕掛け槍などの道具を作ってはならない。
また、四月一日から九月三十日までの間は、「比満沙伎理梁」と呼ばれる梁漁の仕掛けを設置してはならない。
さらに、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならない。
ただし、それ以外のものは禁制の対象とはしない。
これらの禁令に違反する者は処罰する」
同じ御代には新嘗祭が行われ、斎忌を務める国として、占いによって、まず尾張国、次に丹波国が選ばれた。
また、
「膳夫や采女たちの手繦と肩巾を、同じ形にしてはならない」
との詔も下された。
藤原宮の御代には、摂津国武庫の海の一千歩以内、紀伊国阿提郡の那耆野二万頃、伊賀国伊賀郡の身野二万頃に守護人を置き、漁猟を禁止した。
河内国大鳥郡の高脚海についても、これらの例に準じたという。
また、その後、長雨による農作物への被害を憂え、公卿や百官に酒と肉を断ち、慎んで悔過するよう命じる詔が下された。
さらにその翌年、大水による災害のため生活できなくなった者には、山林・池・沢で漁や採取をすることが許された。
また翌年には、桑・麻・梨・栗・蕪菁などの草木を積極的に植え育て、五穀の不足を補わせるよう命じたことが記されている。
これらの記述を取り出して考えてみれば、後の時代に生まれたさまざまな料理の基礎が、すでにこの頃までに形づくられていたことを知るに十分であろう。
原著が「高橋家の伝書」とする『厨事類記』には、干物・生物・窪器物・追物・汁菜・焼物・干菓子・唐菓子など、食膳や調理に関するさまざまな事項が記されている。
また、『或雑録』や『神事略』と呼ばれる書物などには、春日社の黒木の机に、柏に盛った御饌、白酒、酒、塩などを供えた図が載せられている。
さらに、出雲大社におけるそれらの供物の形などもあわせて整理すれば、原著は、これらをあわせて考察すれば、古代の料理や神饌の姿をある程度まで推し量ることができるのではないか、としている。
先に引用した藤原宮の御代から、奈良宮を経て、その後の歴代の御代においても、原著は、『延喜式』の祝詞に見える神御食の表現などから、後代にも鳥獣を用いた料理が続いていたと考えている。
しかし、原著はさらに、飛鳥浄御原宮の頃から次第に魚類料理が中心となり、これに鳥類が続き、獣類も少量ながら用いられたのであろうと推測している。
獣類の料理についても、神への供物から完全に欠くことのできないものではなかったため、少量ながら用いられていたのであろう。
このような変化を経て、中古・近古・近世の料理は、上古の料理とは異なる様式を示すようになったのである。
原著は、この時代に料理の法式を整えることに力を添えられた天皇が現れ、また、料理の職に奉仕し、従来の高橋朝臣に次いで、後世まで料理人の祖として伝えられることとなった中納言・藤原山蔭卿が現れた、としている。
さらに原著は、藤原山蔭卿が、紀元一千五百年代頃から原著成立当時の紀元二千五百年代に至るまで用いられる料理の形式を定めた、と述べている。
一方、高橋朝臣の子孫が奉仕してきた天皇の御食の様式については、絶えることなく宮中で用いられ、古代の形を大きく改めることなく伝えられてきたとしている。
これに対し、原著は、四條流の祖とされる藤原山蔭卿が伝えた料理法は臣下の間で広く用いられ、世間では、この伝承を受けていない者がいないほど普及し、そこからさまざまな料理の様式が作り出された、と述べている。
そして、こうした古代以来宮中に伝わる御食の様式と、藤原山蔭卿の伝承に連なる臣下社会のさまざまな料理の様式という二つを総合して、「日本料理」と呼ぶのである、と原著は定義している。
また原著は、当時世間で一般に「日本料理」と呼ばれているものについて、それだけを日本料理全体を代表するものとして取り上げるべきではなく、日本料理の中に生まれた一つの特別な様式として理解すべきである、としている。
さらに原著は「大日本料理」について、当時の若者たちが大人びて立派なものと考えていた西洋諸国の料理法や支那料理法を「幼稚なもの」と評し、それらとは比べものにならないほど長い年月を重ねて形成されてきた料理法である、と述べている。
それは、最も古い御代から一貫して、その根本とするところを変えることなく伝えられてきた料理法であり、また、地球上のどの国にも比べるものがないほど、あらゆるものが十分に備わった料理法である、と原著は評価している。
そして、高橋朝臣と四條山蔭卿の定めによって、君主と臣下との区別も正しく整えられた料理法である、としている。
その料理の具体的な姿については、以下に掲げる各項を見て知るべきである、と結んでいる。
【検証】
一 王辰爾と烏羽の文字
『日本書紀』敏達天皇紀には、王辰爾が烏の羽に書かれた文字を飯の湯気によって浮かび上がらせて読み取ったという記事が見える。これは料理記事そのものではなく、飯を蒸す際の蒸気を利用した逸話を、原著者が食文化に関係する例として採録したものと考えられる。
二 「人の形せる魚」について
原著は、近江国蒲生河から「人の形せる魚」を得たとする。しかし、『日本書紀』の該当記事は「人の形をした物」とするもので、必ずしも魚とは記していない。したがって、「魚」とするのは原著者による解釈または伝承上の整理とみるべきである。
三 蝦夷の食生活について
『日本書紀』には、唐の皇帝から五穀の有無を問われた際、蝦夷について「無之。食肉存活」と答えた記事がある。これは当時の倭国使節が唐側へ説明した内容であり、古代蝦夷社会全体の実際の食生活をそのまま示す客観的記録とは限らない。
四 天武天皇の肉食禁令について
飛鳥浄御原宮の詔は、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を一定期間食べることを禁じる一方、「以外不在禁例」と明記する。したがって、これは獣肉全般を禁じたものではなく、対象となる動物を限定した禁令として理解する必要がある。漁猟についても檻・仕掛けや時期を制限する内容であり、全面的な漁猟禁止ではない。
五 持統天皇代の「酒宍禁断」について
持統天皇紀の酒・肉の禁断は、長雨による作物被害を憂え、悔過・祈願を行わせた際の措置として記されている。したがって、恒常的な食生活上の禁止ではなく、災害に際した一時的・宗教的な禁忌として理解するのが適切である。
六 大水時の漁採許可と桑・紵・梨・栗・蕪菁
大水によって生活できなくなった者に山林・池沢での漁採を許した記事、また桑・紵・梨・栗・蕪菁などを植えて五穀を補うよう命じた記事はいずれも『日本書紀』持統天皇紀に確認できる。これらは料理法そのものではなく、災害時の生業・食料確保や農業政策に関する記事であり、原著はそれらを後世の料理文化を生み出す基盤として捉えている。
七 『厨事類記』を「高橋家の伝書」とする点
原著は『厨事類記』を「高橋家の伝書」とするが、現在一般に知られる『厨事類記』は、平安末期から鎌倉末期頃の宮中食饌や有職故実を伝える史料として位置づけられている。『群書類従』にも収録され、食膳の据え方、献立、器、調備などを記す重要史料であるが、「高橋家の伝書」とする由来については別途検証を要する。
八 魚料理中心への移行説について
原著は、飛鳥浄御原宮の頃から魚類料理が中心となり、次いで鳥類、さらに少量の獣類が用いられるようになったとする。しかし、このような序列の変化が同時代史料に明記されているわけではない。これは、食物禁令や神御食の記述などをもとに原著者が組み立てた料理史的推論として扱うのが適切である。
九 高橋朝臣と藤原山蔭卿について
高橋氏が宮廷の御食奉仕に深く関わった氏族であることは古代史料から確認できる。一方、藤原山蔭卿を料理人の祖、あるいは四條流料理法の創始者として位置づける伝承については、後世の料理流派の系譜・伝書との関係を含めて検討する必要がある。原著は両者を、日本料理を形づくった二つの大きな系統として捉えている。
十 「日本料理」の二様式説
原著は、宮中に古代以来伝わる高橋氏系統の御食と、藤原山蔭卿に由来するとする臣下社会の料理法という二つをあわせて「日本料理」と定義している。この分類は、近代の料理史研究によって確立された一般的定義ではなく、原著者独自の料理史観として理解する必要がある。
十一 「大日本料理」について
原著の「大日本料理」は、西洋料理・中国料理よりも日本料理を優位に置き、「地球上に比類なく備はれる料理法」と評価するものである。これは客観的な比較料理史の結論ではなく、明治期の国民国家意識や日本文化評価を背景とした原著者の価値判断である。現代語訳ではその表現を隠さず伝えつつ、現代の編者による評価とは区別して扱う必要がある。
