#001 第壹編 沿革 一 日本料理の沿革 其乃一
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第壹編 沿革 一 日本料理の沿革
「料理」という二字は、もともと「はかりおさめる」と読み、食べ物を整えることだけを意味するものではない。料理の二字は、はかりをさむると讀て、食物を調ふる事に限らず、何にても取計らひ調ふる事をいふ、食物を調ふるを料理すると云も、右の心なり、本は食物を調ふる事をは、庖丁するとも、調味するともいふなり、と伊勢安齋が説れたるがごとくなり、叉高橋氏文に料理をツクルと訓たれば、御食料理と書きてミケツクリと稱へんかた然るべし、と思へと、古より料理と音讀にいひなれたれば其儘にてもあるへし
此の國の最古き世の料理の樣は、いかにありけむ、宗祇諸國物語に
伊勢より熊野へこゆる行程百餘里、山嶮く川深し、ある所には、山岩巖こりかたまつて一寸の土なく、家屋悉く板を壁とし石を䆴とす、ある所には、四方二三里水なくて雨を賴み用水にし雪を掛して食をかしぐ、或は一生五穀をくらはず、樫の實、おち椎を拾ためて、命の便とし、猿狸狩つくして常の糧とす云々
こゝに一生五穀を食はず樫の實おち椎をなどしるせるぞ、最ふるき世の食物の樣なるらむ、
古事記日本書紀の神代卷に、まづ筍を醜女の抜㖩こと、蒲の子を摭ひ食むこと、桃の實を以て黃泉軍を擊返し給ひしこと等見えたるを合せて思ふに、志か思はるゝなり、かく有て後料理の、次々に開けそめしは、書紀の同じ御卷に、岐、美の二神の生ませる、海神大綿津見神、水戸神速秋津日子神、速秋津比賣神、木神久久能智神、山神大山津見神、野神鹿屋野比賣神、風神志那都比古神等の各々うけ手持ませる時より開けたるなるべし、又同じ時に生ませる大宜都比賣の神の身從成れる、稻種、粟、小豆、麥、大豆、五種の穀物を神產巢日御祖の命の、取らしめて、種となし給ひしより、彌益に食物料理の事は開けたるなるべし、大氣津比賣の神に、速須佐之男命の食物を乞給ひしに、大氣津比賣の神、種々の味物を取出て、種々作備へて進りしよし見えたり、是らにて御食料理の、最古く開けたりしを志るべし、此大氣津比賣神の事は日本紀に保食神、延喜式祝詞なる廣瀬大忌祭に御食持する若宇賀の賣の神、神樂譜にとよをかひめ、後世おしなべての俗言に稻荷神等稱ふるよし、種々の書に見えたるなり、さて此神の、飯、海魚、川魚、獸類、鳥類を百机に貯て食をなし、又五穀を身よりなしたまへる等、明らかに書にとゞめられたるをもて思へは、此神そこの國の御食料理の祖なりける、實にこの國の祖のみならず、天下の國といふ國の料理の祖なりと云はんも、憚る所なきなり
【現代語訳】
「料理」という二字は、もともと「はかりおさめる」と読み、食べ物を整えることだけを意味するものではない。物事を適切に取り計らい、整えること全般を指す言葉である。
食べ物を整えることを「料理する」というのも、この意味に基づくものである。もともと、食べ物を調えることは「庖丁する」とも、「調味する」ともいった。これは、伊勢安斎が説いているとおりである。
また、『高橋氏文』では「料理」を「つくる」と訓んでいる。そのため、「御食料理」と書いて「みけつくり」と称するのがふさわしいようにも思われる。しかし、古くから「料理」と音読みすることが慣用となっているため、そのまま「りょうり」と呼んでもよいであろう。
さて、わが国の最も古い時代には、どのような料理が行われていたのであろうか。
『宗祇諸国物語』には、次のように記されている。
伊勢から熊野を越える道のりは百余里に及び、山は険しく、川は深い。
ある所では、山や岩が固く連なり、わずかな土さえなく、家々はすべて板を壁とし、石をかまどとしている。
またある所では、四方二、三里にわたって水がなく、雨水を頼りに生活用水とし、雪を溶かして食事を炊いている。
ある者は、一生の間、五穀を口にすることなく、樫の実や地面に落ちた椎の実を拾い集めて命をつなぎ、猿や狸を狩り尽くして日常の食糧としている、という。
ここに「一生の間、五穀を食べず、樫の実や落ちた椎の実などを食べる」と記されている様子こそ、わが国の最も古い時代における食生活の姿なのであろう。
『古事記』『日本書紀』の神代巻には、まず、筍を醜女が抜き取ったこと、野葡萄の類の実を拾って食べたこと、桃の実によって黄泉の軍勢を退けられたことなどが記されている。これらをあわせて考えると、わが国の最も古い時代の食物のあり方は、そのようなものであったと思われる。
その後、料理が次第に発達し始めたのは、原著によれば、『日本書紀』の神代巻に、伊弉諾・伊弉冉の二神がお生みになった神々として、海の神である大綿津見神、水の出入口をつかさどる速秋津日子神・速秋津比売神、木の神である久久能智神、山の神である大山津見神、野の神である鹿屋野比売神、風の神である志那都比古神などが挙げられており、これらの神々がそれぞれの役目を受け持たれるようになった時からであろう、としている。
また原著は、同じ時にお生まれになった大宜都比売神の御身から、稲・粟・小豆・麦・大豆という五種の穀物が生じ、神産巣日御祖命がこれらをお取りになって種とされたことを挙げ、これによって食物や料理の文化はいっそう発達したのであろう、としている。
速須佐之男命が大気津比売神に食物を求められた際、大気津比売神はさまざまな食物を取り出し、それぞれ調理して整え、差し上げたと記されている。この記述によって、御食を調える料理が、きわめて古い時代からすでに行われていたことを知ることができる。
原著は、この大気津比売神について、『日本書紀』に見える保食神、『延喜式』の祝詞「広瀬大忌祭」に御食持(みけもち)する神として現れる若宇賀能売神、『神楽譜』に見える豊岡姫、さらに後世に広く信仰された稲荷神などを挙げ、これらを食物や御食に関わる神々として相互に関連づけている。
さて、この神が、飯、海の魚、川の魚、獣類、鳥類を数多くの台に並べて食物とし、さらに五穀を御身から生じさせたことが、書物にはっきりと記されている。これを考えれば、この神こそ、わが国における御食料理の祖神なのである。
実に、わが国だけの祖神ではなく、天下のあらゆる国々における料理の祖神であるといっても、差し支えはないであろう。
【検証】
一 『宗祇諸国物語』からの引用について
本文は、伊勢から熊野へ至る土地の生活について記した一節を『宗祇諸国物語』からの引用として掲げている。しかし、現存する『宗祇諸国物語』および現在確認可能な翻刻・古典籍資料の範囲では、これと同文または明らかに対応する文章を確認できていない。書名の取り違え、別の紀行・地誌類からの引用、あるいは孫引きなどの可能性も考えられるため、現段階では出典未確認として扱う。
二 黄泉国の「蒲子」について
黄泉醜女が食べたとされる「蒲子」は、現代語の「蒲(ガマ)の実」と単純に解するより、古典ではエビカズラなど野葡萄類の実と解される語である。そのため、現代語訳では「蒲子(えびかずらの実)」などと補う方が誤解が少ない。
三 神生みの記事と『日本書紀』について
原著は、大綿津見神・速秋津日子神・速秋津比売神・久久能智神・大山津見神・鹿屋野比売神・志那都比古神らの誕生を「書紀の同じ御巻」として挙げている。しかし、この神名の並びは『古事記』の神生みの記事との対応が強い。原著が『古事記』『日本書紀』の伝承を相互に参照して整理した可能性を含め、典拠については区別して読む必要がある。
四 大宜都比売神・大気津比売神・保食神について
原著は、大宜都比売神・大気津比売神を同一の食物神として扱い、さらに『日本書紀』の保食神、『延喜式』広瀬大忌祭の若宇賀能売神、『神楽譜』の豊岡姫、後世の稲荷神などを相互に関連づけている。しかし、各史料では神名だけでなく、登場する説話や役割にも相違がある。そのため、これらを史料上まったく同一の神と断定するのではなく、食物・穀物・御食をつかさどる神々を原著者が一つの系譜として捉えたものと理解するのが適切である。
五 大宜都比売神と保食神の説話の違いについて
『古事記』の大気都比売神説話と、『日本書紀』の保食神説話には、身体から食物や穀物が生じるという共通点がある一方、物語の展開や登場する神には違いがある。原著は両者を料理・食物の起源を示す伝承として連続的に扱っているが、現代の検証では、それぞれ別の伝承として区別しておく必要がある。
六 「百机」について
原著は、飯・海魚・川魚・獣類・鳥類を「百机」に備えたとする。「百」は必ずしも厳密に百台という数量を示すとは限らず、多数・豊富であることを表す表現として読む余地がある。また、「机」は現在の机というより、食物や供物を載せる台に近い。そのため、現代語訳では「数多くの台に並べて」とするのが穏当である。
七 「料理の祖」とする評価について
原著は、大気津比売神をわが国の「御食料理の祖」とするだけでなく、「天下の国という国の料理の祖」とまで評価している。これは世界各地の料理史を比較して導かれた歴史的結論ではなく、食物を生み、調えて神に供したという神話上の働きを高く評価した、原著者独自の料理史観である。この部分は正誤を判定するよりも、明治期の原著者が食物神をどのように日本料理の起源へ位置づけたかを示す記述として読むのが適切である。
