#004 第壹編 沿革 一 日本料理の沿革 其乃与
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朝倉宮御世に膳臣長野、能害膾を作とて、皇太后より貢りし、又厨人兎田御戸部眞鋒田高天二人を以て貢て害人部と為、臣連伴造又隨て續て貢るとある、此前條の文に
幸(二)御馬瀨(一)命(二)、虞人(一)縱(レ)獵云云大獲(二)鳥獸(一)云云、獵塲之樂使(二)膳夫(一)割(レ)鮮何ニ與自割云云與(二)羣臣(一)割(レ)〔ヲ〕鮮(二)〔ヲ〕野饗
【読み下し文】
御馬瀬に幸し、虞人に命じて猟を縦にせしむ、云々。
鳥獣を大いに獲たり、云々。
猟場の楽しみには、膳夫をして鮮を割かしむ。何ぞ自ら割くに与らん、云々。
群臣とともに、鮮を割き、野饗す
云云とある、是を鳥獸鮮魚を大御前にて割り仕まつる事の古き例なりける、此御世より始て後世も御獵のと見えたるをしるべし、同御世新羅王の高麗軍に攻られ危かりし條に
膳臣班鳩等謂(二)新羅(一)曰汝以(二)至弱(一)〔ヲ〕當(二)〔レリ〕至强(一)〔キニ〕、官軍不(レ)救必爲所(レ)乘將(レ)〔ニ〕成(二)人地(一)
【読み下し文】
膳臣班鳩ら、新羅に謂ひて曰く、
「汝、至弱をもって至強きに当たれり。官軍救はずんば、必ず乗ずる所と為り、まさに人の地と成らんとす」
などいひし、甕栗宮御世に白髪部膳夫を置きたまひし、金箸宮御世に、珠を伊甚國に求しめし、内膳卿膳臣大麻呂、師木島宮御世に百濟に使されし時百濟の濱にて子を虎にとられ、其虎をうちて皮を剝て還こし膳臣巴提便等のをゝしかりし、同御世膳臣傾子を越に遣て高麗使に饗たまひし、倉橋宮御世の御紀に膳夫賀拖夫の名あり、小治田宮御世に、膳臣大伴を以て任那客を迎ふること、飛鳥淨御原宮御世
小錦中膳臣摩漏病遣(二)草壁皇子尊高市皇子(一)而訊(レ)病、己酉膳臣摩漏卒云云壬辰年之功を以て大紫位及祿を贈ふ
【読み下し文】
小錦中、膳臣摩漏病む。草壁皇子尊・高市皇子を遣はして、病を訊はしむ。己酉、膳臣摩漏卒す。云云。壬辰年の功を以て、大紫位及び禄を贈る。
こと、また藤原宮御世天武天皇の殯宮にいたみ仕奉る條に
奉膳乳朝臣眞人等奉(レ)奠、奠畢膳部采女等發哀
【読み下し文】
奉膳乳朝臣真人ら、奠を奉る。
奠畢りて、膳部・采女ら、哀を発す。
【現代語訳】
朝倉宮の御代には、膳臣長野が獣肉の膾を作ることに優れていたため、皇太后から天皇へ献上された。
また、厨人である兎田御戸部と真鋒田高天の二人も献上され、宍人部とされた。さらに、臣・連・伴造などの諸氏族もこれにならい、相次いで人を献上したと記されている。
その前について記したくだりには、次のような文がある。
天皇は御馬瀬へ行幸し、狩猟をつかさどる者に命じて狩りを行わせ、多くの鳥や獣を捕らえた。
そして狩場での楽しみについて、
「膳夫に新鮮な獲物を切らせるのと、自ら切るのとでは、どちらがよいか」
と問われた。
その後、天皇は群臣とともに獲物を切り分け、野外で饗宴を催されたという。
これについて本書は、鳥獣や鮮魚を天皇の御前で切り分けて奉仕した古い先例であると述べている。また、この御代に始まり、後世にも御狩の際に同様のことが行われたことを知ることができるとしている。
同じ御代、新羅王が高句麗の軍勢に攻められ、危機に陥ったことを記したくだりには、次のようにある。
膳臣班鳩らは新羅の者に、
「そなたたちは、きわめて弱い力で、きわめて強い敵に立ち向かっている。官軍が救援しなければ、必ず敵につけ込まれ、やがて他国の領土となってしまうであろう」
などと告げた。
甕栗宮の御代には、白髪部膳夫を置かれた。
金箸宮の御代には、珠を伊甚国に求めさせた。また、内膳卿として膳臣大麻呂がいた。
師木島宮の御代には、膳臣巴提便が百済への使者として派遣された。百済の海辺でその子が虎に襲われたため、巴提便はその虎を討ち、皮を剝いで持ち帰ったという。本書は、これを膳臣巴提便の勇敢さを物語る出来事として掲げている。
同じ御代には、膳臣傾子を越国へ遣わし、高句麗からの使者を饗応させた。
倉橋宮の御代を記した紀には、膳臣賀拖夫の名が見える。
小治田宮の御代には、膳臣大伴を任那からの客人を迎える役に任じた。
飛鳥浄御原宮の御代には、次のように記されている。
小錦中の位にあった膳臣摩漏が病気になった。そこで、草壁皇子尊と高市皇子を遣わし、その病状を尋ねさせた。
己酉の日、膳臣摩漏は亡くなった。
また、膳臣摩漏には、壬申の年(六七二年)の功績によって、大紫位および禄が追贈された。
さらに、藤原宮の御代、天武天皇の殯宮において哀悼の奉仕をしたことを記したくだりには、奉膳を務める乳朝臣真人らが供物を献じ、その献上が終わると、膳部や采女たちが声をあげて哀悼の意を表したことが記されている。
本書は、これらの記録も、古代の料理人のありさまを知る手掛かりとなるであろうとしている。
さて、神代から藤原宮の御代に至るまでの御食料理と料理人のありさまは、以上に掲げたさまざまな記録によって、その一端をうかがい知ることができる。
これ以後のことは、『続日本紀』をはじめとする後代の書物に次々と記されているため、ここには掲げない。
惜しいことに、上古の料理の詳しいありさまを書き留めた書物は残されておらず、それを直接知るすべはない。
しかし、後世に成立した、調味や古実を記した書物によって、そのおおよその姿を推し量ることはできるであろう。
橿原宮の御代には、天皇御自身が飴をお作りになった。
また、登美毘古を討とうとされた時の御歌には、
「うゑし薑、口響……」
と詠まれている。
さらに、天香山の埴を用いて祭器を作らせ、天神地祇を丹生川上で祭られた。その際、厳瓮を川に沈めると、大小の魚が酔ったようになって流れたという。
訶志比宮の御代には、皇后が角鹿を出発して渟田門に到着し、船上で食事をされた時、多くの海鯽魚が集まってきた。皇后がその魚に酒を注ぎかけると、海人たちがこれを捕らえたという。
同じ御代には、栗林の果実を御所に献上しなかったことも記されている。
また、明宮の御代には、丸邇之比布礼能意富美の家で大御饗を献上した際、天皇が、
「この蟹は、どこの蟹であろうか。百々伝う角鹿の蟹である」
という趣旨の御歌を詠まれ、角鹿の蟹をたたえられた。
また同じ御代、天皇が豊明の宴を催された日、髪長比売に大御酒の柏を持たせ、それを皇太子にお与えになった際の御歌には、
「さあ、子どもたちよ。野蒜を摘みに行こう。蒜を摘みに私が行く道には、かぐわしい花橘が咲いている」
という趣旨の歌がある。
このほか、菱や蓴などについての記述も見える。
また、吉野の国主たちが大御酒を献上した時には、
「白檮の生えるところに横臼を作り、その横臼に醸した大御酒を、おいしく召し上がってください、わが君よ」
という趣旨の歌を詠んだ。
さらに本書は、百済国から、酒の醸造法を知る人物が渡来したとする。その者の名は仁番、またの名を須須許理といった。
須須許理が大御酒を醸して献上すると、天皇は、
「須須許理が醸した御酒に、私は酔ってしまった」
という御歌を詠まれた。
また、新羅国主の子である天之日矛が渡来したことを記したくだりには、次のような問答がある。
「なぜ、おまえは飲食物を牛に負わせて山や谷へ入っていくのか。おまえは、きっとこの牛を殺して食べるつもりなのだろう」
これに対して、
「私は、この牛を殺そうとしているのではありません。ただ、田で働く人々の食物を運んでいるだけです」
と答えたという。
また、その女性は、常にさまざまな珍味を用意し、いつも夫に食べさせていたと記されている。
さらに、秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の兄弟が、伊豆志袁登売を妻に迎えようとして互いに競ったことを記したくだりには、兄が弟に対して、
「もし、おまえがこの娘を妻にすることができたならば、私は上下の衣服を脱いで譲り、身の丈を測って甕に酒を醸し、さらに山や川のあらゆる物をことごとく取りそろえて用意しよう」
などと言ったと記されている。
【検証】
一 「害膾」「害人部」の表記について
『日本料理法大全』は、雄略天皇の御代の記事を「膳臣長野、能害膾を作」「害人部と為」とする。しかし、『日本書紀』雄略天皇紀の該当箇所では「宍膾」「宍人部」と記されている。「宍」は肉を意味する字であるため、本書の「害」は、転写・翻刻・活字化の過程で生じた異同である可能性が高い。
二 「割鮮」を「鮮魚」とした解釈について
本書は、御馬瀬での狩猟の記事について、「鳥獸鮮魚を大御前にて割り仕まつる事の古き例」と解している。しかし、『日本書紀』本文は、狩猟によって多数の禽獣を得た後、「與群臣割鮮野饗」と記すものであり、ここでの「鮮」は、新鮮な獲物・肉を指す文脈とみるのが自然である。したがって、「鮮魚」と魚類にまで限定して読むことには注意を要する。
三 白髪部膳夫の位置づけについて
清寧天皇の御代に置かれた「白髪部膳夫」は、単に一人の料理人を任命したという記事ではない。『日本書紀』では、白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負などが並んで置かれており、天皇の名を後世に伝えるための部民組織の一部として理解する必要がある。そのうち「膳夫」は、食膳奉仕に関係する役掌を担ったものと考えられる。
四 膳臣氏の登場記事と「料理人」との関係について
膳臣斑鳩、膳臣巴提便、膳臣傾子、膳臣大伴、膳臣摩漏などは、いずれも膳臣氏に属する人物である。しかし、『日本書紀』における彼らの登場場面は、料理や御膳奉仕に限らず、軍事・外交・使節接待・政務など多方面にわたる。したがって、本書がこれらの記事を「料理人の古様」を知る材料としてまとめているのは、膳臣氏を宮廷の御食奉仕に連なる氏族として捉えた、原著者の料理史的な整理によるものとみるべきである。
五 膳臣摩漏の「壬辰年之功」について
本書は、
「壬辰年之功を以て大紫位及祿を贈ふ」
とするが、『日本書紀』天武天皇紀の該当記事では、
「以壬申年之功、贈大紫位及祿」
と記されている。ここでいう「壬申年」は、天武天皇元年(六七二)の壬申の乱を指す。膳臣摩漏への追贈は、その際の功績によるものであるため、本書の「壬辰」は「壬申」の誤記または誤植とみられる。
六 須須許理を「百済国より」とする記述について
本書は、
「百濟國より酒を釀事を知る人、仁番亦名は須々許理の參渡きて」
とする。しかし、『古事記』応神天皇段の該当本文は、仁番、またの名を須須許理という醸酒を知る者が渡来したことを記すものの、この一文自体には、その渡来元を「百済国」とは明記していない。したがって、「百済国より」という部分は、別伝・注釈・後世の理解などを踏まえて本書が補った可能性がある。現段階では、『古事記』本文そのものの記述と、本書による説明とを区別して扱うのが適切である。
