実家の玄関をくぐると、私はまた子どもになる
もうすぐ夏季休暇。
今年も家族を車に乗せ、荷物をトランクに詰め込んで実家へ帰省する予定を立てています。
高速道路の渋滞を抜け、ようやく実家の駐車場に車を停めた瞬間、私の中でどんなスイッチが入るか、今からだいたい想像がつきます。
普段、我が家では毎日「お片付けしなさい!」「テレビは終わり!」と子どもたちに指令官のような顔で小言を言っている立場です。
ところが、実家の玄関を開け、車から降ろした大きな荷物を廊下に置いた途端、その威厳は綺麗に吹き飛びます。
子どもたちが棚の上の古い置物に「これなにー!?」と興味津々で駆け寄る横で、私も荷物を廊下に投げ出したまま、吸い寄せられるように居間の畳へ直行。
そのまま大の字にゴロンと倒れ込み、天井の蛍光灯を見上げながら叫んでしまうわけです。
「おかあさん、冷たい麦茶どこー?」
自分でも呆れるほどの、華麗なまでの転落ぶりです。
普段はローンも払い、職場で頭を下げ、家事も育児も回している立派な大人のはずなのに、実家の敷居をまたいだ瞬間に、自力で水分確保すらできなくなります。
廊下に放置された私のカバンを見かねて、親から「もう、自分の荷物くらいすぐ部屋に持っていきなさいよ」と呆れ顔で小言を言われれば、「あとでやるー」と生返事でゴロゴロ。
横でそれを見ていた子どもから「お母さん、家とぜんぜん違う……」と冷ややかな視線を送られても、全く意に介しません。
駐車場に車を停めた瞬間のスイッチ
日頃は親として過ごしている私たちの精神年齢は、なぜ実家の玄関をくぐった途端、昔の自分へと一気に巻き戻ってしまうのでしょうか。
実はこの現象、単なる怠け心ではなく、心理学でも説明がつく心の防衛メカニズムだそうです。
このような現象は、防衛機制の「退行」という概念で説明されることがあります。
人は普段、大人や親として生きる際、常に無意識の緊張や責任感を抱えています。
しかし、その緊張から心を守るため、過去の安全だった時期の感覚に戻ろうとする防衛反応が働きます。
つまり、実家という空間に入った瞬間、そこが安心できる場所だと感じ、大人としての緊張がゆるむことがあるわけです。
空間の刺激と、家族の配役
さらに面白いのは、空間が持つ記憶の働きです。
畳の匂い、居間の配置、柱の傷跡。
これら刺激をキャッチした脳は、かつてその場所で稼働していた実家用の行動パターンを自動的に呼び出します。
そこに親という存在が加わることで、家族の中では昔からの役割関係が自然と再現されることがあります。
自分が親になろうとも、実家の親の前に立てば我が子という役に自然と戻ってしまうのですから不思議なものです。
実家で私たちが甘えてしまうのは、脳が安全を確認し、環境に順応した結果と言えます。
……まあ、だからといって自分の荷物を放置して親に甘える理由にはならないのですが。
未来の帰り道に想いを馳せて
夏の夕暮れ時、西風が通り抜ける居間で、昔の記憶やどこか懐かしい静けさに包まれる瞬間があります。
私たちが子どもに戻り、思いきり羽を伸ばすことができるのは、実家という空間やそこにある思い出が、かつての安全だった時間を今も静かに覚えていてくれるからなのかもしれません。
昔の柱の傷跡や、面影の残る居間を眺める中で、確実な時間の経過を感じてハッとする瞬間もあるでしょう。
実家や思い出の場所で過ごす時間は、大人としての緊張を解きほぐす時間であると同時に、自分自身の原点にそっと触れる時間なのかもしれません。
そんな風にして過ごす数日間のあと、最終日の夕方に車のトランクに荷物を詰め込み、手を振る未来の自分を、今から少しだけ想像してみたりします。
バックミラーに映る風景が小さくなっていく中で、後部座席で気持ちよさそうに眠る子どもたちの寝息を聴きながら、ゆっくりと「お母さん」の顔に戻っていく帰り道。
実家で一瞬だけ子どもに戻れるあの現象は、めまぐるしい日常を生き抜く私たちが、過去の自分や大切な時間の温もりに逢いにいく、夏のふしぎな時間になるのだと思います。
▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ
連休の初日、日常の責任や役割を脱ぎ捨てた瞬間に訪れる、あの独特の解放感。実家で子どもに戻る感覚とどこか似ている、心が「自分」をひと休みさせる不思議な時間。
大人になった今だからこそ感じる、親との距離感や素直になれない気持ち。実家で甘えてしまう不器用さと背中合わせにある、言葉にできない温かな余韻。
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