見出し画像

4月の自意識を「低解像度」でやり過ごす。歯の青のりと、届かなかった会釈

新年度に入って、ちょうど2週間。

そろそろ「いい人だと思われたい」という緊張のメッキが、端の方からパリパリと剥がれ落ちてくる頃です。

先日も、やってしまいました。

駅のホームで、向かい側から歩いてくる同じ会社の、名前はまだうろ覚えの人と目が合った気がして。

私は最大限の親愛を込めて「おはようございます」の角度で深く会釈をしたんです。

でも、相手は無表情のまま私を通り過ぎていきました。

その瞬間、思考がフリーズします。

「無視された?」
「いや、気づかれなかっただけ?」
「それとも、私だと思われなかった?」
「今の私の会釈、変じゃなかったかな」

その思考のループは、オフィスに着いてからも止まりません。

パソコンを立ち上げながら、会議の資料をめくりながら、脳内では先ほどの「空振りの会釈」が高画質でリピート再生されています。

駅のホームという大きな劇場で、スポットライトを一身に浴びながら、盛大に演技をトチってしまった。

そんな絶望感に包まれながら、ふとした瞬間に、ある「違和感」に気づきました。

背中のあたりが、さっきから妙にチクチクします。朝のバタバタで裏表逆に着てしまったインナーのタグが、皮膚を優しく攻撃していました。


自分の「自分監視カメラ」は、常に4K画質

私たちは、どうしてこれほどまでに「自分の失敗」を拡大解釈してしまうのでしょう。

心理学には 「スポットライト効果」 という、なんとも華やかで、かつ残酷な名前の現象があります。

「自分という存在が、まるでスポットライトの下にいるかのように、常に他者の注目の的である」と思い込んでしまう心の癖です。

コーネル大学の心理学者、トーマス・ギロビッチらが行った有名な実験があります。

当時の大学生にとって「着て歩くのがちょっと恥ずかしい」と思われる有名人の顔写真入りTシャツを被験者に着せ、他の学生たちが作業をしている教室に送り込みました。

Tシャツを着た本人は「教室にいた人の半分くらいには、このダサいTシャツに気づかれたはずだ」と答えました。

ところが、実際に「あのTシャツ、気づいた?」と周囲の人に聞いてみると、気づいていたのはわずか2割程度だったのです。

本人の予測(50%)と、現実(23%)の大きなギャップ。

つまり、私たちの「自分監視カメラ」は常に高解像度の4Kで自分を捉えていますが、他人のカメラは、常にピンボケした背景レベルの解像度でしか私たちを見ていない。

駅のホームでの私の空振り会釈も、もしくは背中でなびいていたかもしれないクリーニングのピンクのタグも世界中の人が注目していると思っていたそれは、実は誰の記憶にも残っていない、ただの砂嵐のようなノイズに過ぎなかったわけです。


生活の不純物と、自意識の解像度

でも、わかっていても自意識はなかなか「オフ」にはなってくれません。

夕方の会社の休憩室で鏡を見て、またしても息が止まります。

前歯のど真ん中に、お昼のお弁当のちくわの磯辺揚げから脱走したであろう「一粒の青のり」が、誇らしげに鎮座していました。

昨日、スーパーの惣菜売り場で「半額」のシールが貼られるのを待って勝ち取った、あの磯辺揚げです。

「終わった……」

午後の会議で、私は熱心に「今期の目標」について語ったはず。

参加した同僚たちの視線は、私のプレゼン資料ではなく、常にこの一点の緑色に集中していたのではないか。

部長が最後にフッと笑ったのは、私のアイディアへの賛同ではなく、この青のりへの嘲笑だったのではないか。

脳内カメラが、青のりにグーッとズームします。

でも、ふと思い出そうとしてみます。

では、午後の会議で隣に座っていた同僚は、どんな色のネクタイをしていたでしょう。

向かいにいた課長の髪型に、変化はなかったでしょうか。

……何も、思い出せません。

私の記憶の中の他人は、いつだって輪郭がぼやけた「背景」でしかない。

それなのに、なぜ自分のことだけは「前歯の1ミリの不純物」までが世界中の関心事だと思い込んでしまうのか。

失意の中、カバンを探ると、ペンを探していたはずの指先が、昨日子供と拾った「少しだけ形のいい石」に触れました。

私の自意識が「前歯の緑色」に全神経を注いで絶叫している傍らで、この石はただ、昨日からずっと、無言でそこにありました。

意味も、名前も、解決策も持たないその冷たさに触れていると、沸騰していた自意識が、ふっと行き場を失って白けていくのを感じました。


青のりと、自由。

結局のところ、私たちが抱えている生きづらさの正体は、「世界からの注目」ではなく「自分からの注目」なのかもしれません。

自分の舞台を完璧に演じようとして、勝手にスポットライトを強め、影を濃くし、わずかな演技のミスで舞台裏へ逃げ込みたくなってしまう。

けれど客席を見渡せば、観客は皆、自分の舞台のセリフを覚えるのに必死で、こっちの演技なんて最初から見ていなかった。

それは少し寂しいけれど、とてつもない「自由」への招待状でもあります。

誰にも見られていない。

だったら、何度でも会釈を空振りしてもいい。

服に子供のアンパンマンシールが貼ってあっても、それが私のおしゃれだと思って歩けばいい。

もし本当に、誰も私を見ていないのなら・・・

明日からパジャマの上に薄手のスプリングコートを羽織るだけで出社したって、いいんじゃないか?

そんな極論さえ、今はなんだか『それもアリかも』と思えて、心がふっと軽くなるのです。

明日、前歯のど真ん中に青のりが付いていても地球は回るし、同僚はその日のランチを何にするかで頭がいっぱい。

自意識の4Kカメラをのぞくのを少しだけお休みして、ピンボケした世界の中に、無防備に飛び込んでみる。

4月という、まだ少し硬い空気の中では、それくらいの適当さがちょうどいい救いになる気がします。


▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ

誰も自分を見ていないという解放感の裏に、街の中に潜む「あえて見ないふりをする優しさ」というルールがあることを、以前見つけました。

脳は自分の1ミリのミスは逃さないくせに、他人の相槌に込められた「20秒に一度の熱量」には、意外と無頓着だったりするものです。

いいなと思ったら応援しよう!

いたち|ふしぎを眺める時間 記事を読んで、何か少しでも心に残るものがあったなら嬉しいです。いただいた応援は、次の「ふしぎ」を探しに行く力になります。