「よっこいしょ」の正体は、1000年前の修行僧から届いた、身も蓋もないブースト指令だった。
最近、自分の周りだけ重力が増したような気がしています。
4月も後半。
新しい環境に馴染もうと張り詰めていた糸が、ふとした瞬間に緩み、その隙間に日々の疲れがどっと流れ込んでくるような。
椅子に座る。あるいは、床から立ち上がる。
そんな当たり前の動作をする前に、数秒の沈黙が必要になる。身体が、重たい自分の質量を測り直しているような、静かな間。
そこで勝手に口から溢れ出すのが、あの音です。
よっこいしょ。
誰かに聞かせるつもりもないのに、喉の奥からひっそりと漏れ出す、あの謎の音。
言ってしまった瞬間、ああ自分もいよいよ、そっち側に行ってしまったのか、と一抹の寂しさを覚えるのは私だけでしょうか。
でも、動作の着火剤として漏れるこの音。
実はなかなかに、実戦的な呪文だったようです。
身体を動かすための、わずかな爆発
なぜ私たちは、頼まれてもいないのによっこいしょと言ってしまうのか。
その正体は、脳が身体に送るブースト(加速指令)でした。
心理学や生理学の世界ではシャウト効果と呼ばれる現象があります。
テニス選手が打ち合うときにハッ!と叫んだり、重量挙げの選手が大声を上げたりする、あれと同じ原理です。
声に出すことで脳が刺激され、筋肉の出力を一時的に高める。
いわば、脳内にある筋力の出力リミッターを一瞬だけ外すための、正規の解除キーなのです。
私たちは、ただ椅子から立つだけだと思っていますが、疲労の溜まった身体にとって、それはプロのアスリートが試合に挑むのと同レベルの難業なのかもしれません。
脳は持ち主を立たせるために、必死で呪文を唱え続けてくれているわけです。
一千年前の修行僧と、ヨガマットの埃
さらに面白いのは、その語源です。
一説には、山岳修行を行う修験者たちが唱えていた六根清浄(ろっこんしょうじょう)という言葉が由来だと言われています。
目、耳、鼻、舌、身、そして意識。
人間に備わった六つの感覚にまとわりつく、穢(けが)れを洗い流すための清めの言葉。
それが長い年月を経て、ろっこんしょうじょうからどっこいしょへ、そして私たちのよっこいしょへと変化していった。
そう、私たちは立ち上がるたびに、知らず知らずのうちに自分を清めていたのです。
掃除機もかけ終えていないリビングの真ん中で、一人だけ霊峰の頂に立っているような、あの奇妙な静寂。
一千年前の修行僧が、今の私の膝の鳴る音を聞いたら、一体どんな顔をするだろうか。
もっとも、呪文の効果は一瞬です。
呪文によって見事に立ち上がれたとしても、足元では広げっぱなしのヨガマットがすっかり埃の滑走路と化していたり、テーブルの上には身に覚えのないダイレクトメールの地層が積み上がっていたりと、現実はどこまでも無作法なのです。
呪文なしでは歩けない世界で
もし明日、世界からよっこいしょという言葉が消えてしまったら。
日本のオフィスやリビングは、蓄積した日々の重力に耐えかねて立ち上がれなくなった大人たちで、静かに埋め尽くされてしまうかもしれません。
最近では、まだ関節が新品同様のはずの三歳の娘までが、おもちゃを拾い上げるたびに「よっこいしょー」と小生意気に真似するようになりました。
君の六根(感覚)はまだピカピカで、清めるべき穢れなんて一つもないはずだろう……と心の中で突っ込みながら、その呪文のあまりの伝染力の強さに、一抹の恐怖と妙な連帯感を感じていたりします。
もはや立ち上がる時だけでなく、リモコンを手に取る時や、溜まったダイレクトメールの山を眺めるだけの時ですら、私の喉からは小さな呪文が漏れ出しています。
けれどそれは、ままならない日常をなんとか乗り切ろうとする身体が、自分に内緒で唱えてくれている、一番安上がりな自己肯定なのかもしれません。
だから明日も、堂々と唱えていいのです!膝が鳴っても、腰が重くても。
私たちは今日も、自分だけの呪文とともに、このでっかい世界をよっこいしょと持ち上げながら生きていく。
なんだかそう考えたほうが、この重力だらけの日常も、ちょっとだけ笑えるふしぎに見えてきませんか。
▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ
立ち上がるたびに唱える呪文のように、私たちの身体には、自分でも気づかない「遥か昔の記憶」が刻まれているのかもしれません。
朝の鏡の前で「よりによって今」と絶望したことはありませんか。掛け声と同じく、本人の意志を無視して身体が勝手に反応してしまう、あの不自由なメカニズムについて。
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