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人の名前が思い出せない理由は? 「パン屋」には勝てない、不条理で人間味のあるパラドクス

無意識というのは、時に残酷なほど正直です。

今朝、私は洗濯機の前で、手に持っていた液体洗剤に絶望していました。

数分前に、同じ洗剤をすでに投入したことを、脳が完全に「なかったこと」にしていたからです。

泡まみれで、必要以上に清潔になる予定のシャツ。

こうした日常のささいな「こぼれ落ち」の中でも、最も不条理で、かつ私たちの人間関係を密かに脅かしているのが、「人の名前が思い出せない」という現象ではないでしょうか。


「ええと、あの、ほら!」のチキンレース

街角で、「あ! お久しぶりです!」と声をかけてきた人物がいます。

顔は100%見覚えがある。

少し前にキャンプに行っていたことも、最近ボルダリングを始めたことも。

なんなら2年前に一緒に食べたパスタがカルボナーラだったことさえ、私の脳は鮮明に出力しています。

なのに。

肝心の「名前」という4文字程度のラベルだけが、真っ暗なシュレッダーに放り込まれたかのように出てこないのです。

「ああ、お久しぶりです! 最近どうですか?」

相手の名前を一度も呼ばずに会話を完結させるという、プロの綱渡り師のようなスキルだけが上達していく。

向こうが「ねえ、〇〇さん」と私の名前を呼んでくれるたびに、こちらが「ふんわりした記憶の住人」として相手を扱っている罪悪感で、背中に変な汗が滲みます。

なぜ私たちの脳は、これほどまでに残酷な取捨選択を勝手に行うのでしょうか。


パン屋には勝てない、名前という「ボッチ」

心理学の世界には、この不条理を鮮やかに説明する ベイカーベイカーパラドクス という興味深い名前の現象があります。

ある人物の写真を二組のグループに見せ、一方には「この人は パン屋さん(baker) です」と教えます。

もう一方には「この人は ベイカー(Baker)さん という名前です」と教えます。

数日後、より記憶に残っているのは、圧倒的に前者、つまり「パン屋」だと聞いた方なのです。

「パン屋」という言葉を聞いた瞬間、私たちの脳内では焼きたての小麦の匂いや、白い帽子、早起きの習慣といったイメージが、芋づる式に絡み合って 記憶のネットワーク を構築します。

情報同士がガッチリと手をつなぎ、一箇所を引くだけでズルズルと全体が引き出されるのです。

一方で、名前としての「ベイカー」は、ただの音の羅列でしかありません。

他の記憶と一切手をつなげない、脳内における完全な「ボッチ」状態。

すると、合理主義の塊である私たちの脳は、「これ、中身のない記号だな。メモ帳の無駄だ」とポイッとします。

そして無情にもゴミ箱へ放り込むという、 認知負荷 の軽減プログラムを実行してしまうわけです。

つまり、私があなたの名前を忘れたのは、不誠実だからではありません。

私の脳が、あまりに高性能で、かつ冷徹な断捨離マスターだったからに他ならないのです。


名前チキンレースを勝ち抜く、大人の計略

かつての政治家、田中角栄氏は、名前を忘れた相手に対して「失礼だが、お名前は?」と聞き、相手が「〇〇です」と答えると「バカもん! 苗字じゃなくて下の名前だ!」と返すという、なんとも豪腕な力技を駆使したという逸話があります。

なんという力技、なんという誤魔化し。

しかし、私たちのような迷える社会人がこれを安易に真似すると、ただの「不躾で失礼な人」として世間のブラックリストに載りかねません。

そこで私たちが辿り着く、より巧妙で、かつ卑怯な現代の生存戦略が「第三者に紹介を丸投げする」というパス回しです。

たまたま近くに共通の知人が現れたら、そこはもう千載一遇のチャンス。

私は自信満々に、「あ、こちらの〇〇さんをご紹介します!」と身を乗り出します。

そして、「ふんわりした記憶の住人」に向かって「あ、紹介がまだでしたね」と、すべてを察したかのような笑顔で沈黙のバトンを渡すのです。

(どうぞ、お名乗りを。私は繋ぎ役に徹しますから)

……この時、私の顔は「名優」そのものです。

まるで「お二人の出会いを最高の瞬間として演出したい」と願う名司会者のような慈愛に満ちた表情を浮かべながら。

その実、脳内では名前の記憶を必死にスコップで掘り返しているのですから。

そんな清々しいまでの他力本願。

ただ、もし紹介先の知人も「あれ、この人誰だっけ」と名前を完全にロストしていた場合、そこには三者全員が出口を失う「沈黙のバミューダトライアングル」が爆誕します。

お互いに笑顔で、誰かが先に名乗るのを待つ死のチキンレース。

これこそが、脳の認知負荷を他人に押し付ける、究極の ソーシャル・エンジニアリング

相手から名前が聞き出せたその瞬間、私の喉の奥で滞っていたカルボナーラの味が、ようやく本来の旨みを取り戻すのです。


高性能すぎるゆえの、不器用な着地

名前を忘れるのは「老化」や「怠慢」ではなく、脳が私の平穏を守るために 認知負荷 を軽減している証拠。

あまりに合理主義的に、かつ誠実に。

明日から会う知人の名前が、どうか私の脳内で「ボッチ」にならずに、何か強引なネットワークで繋がっていることを祈ります。


……さて、必要以上に潔白になった洗濯物を取り出しに行きます。

名前は忘れても、柔軟剤の甘い香りだけは、脳のネットワークにガッチリと刻み込まれているようです。

次こそはせめて、洗剤の投入口に入れる前に気づきたいと反省しながら。

でもねぇ⋯⋯ふしぎなことに、名前を忘れた相手ほど、その時食べたパスタの味だけは、はっきりと覚えているのですよ。


▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ

トーストが焼けるまでの間に夢を忘れるのと同じように、なぜ私たちは「冷蔵庫の扉」を開けた瞬間に、目的を失ってしまうのでしょうか。そこには、脳が仕掛ける巧妙な境界線がありました。

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