豚にズボンを履かせた人類は、なぜ秩序を信じたのか
憲法記念日の、静かな朝のことです。
この日になると、あちらこちらで「法の番人」や「秩序の安定」といった、なんだか立派で堅苦しい言葉を目にするようになります。
それを横目で見ながら、私はといえば、足元に盛大に散らばった塗り絵のクレヨンを拾い集め、昨日誰かがこぼしたお茶のシミが、フローリングの上でこれぞカオスとでも言いたげに居座っているのを眺めています。
国家の基本となるルールが語られる一方で、我が家のリビングは、いつだってルール無用の格闘技場のようなもの。
ですが、そんなアンバランスな光景の中にいると、ふと思い出してしまうのです。
今から数百年前、かつての人々が、現代の私たち以上に、このルール(秩序)というものに、取り憑かれるほど真剣だった時代の話を。
それは、豚やネズミ、さらには虫までもが、被告人として法廷に立たされていたという、あまりに妙ちきりんで、それでいて切実な劇の物語です。
豚にズボンを履かせた劇
1386年、フランスのファレーズ。
そこで一匹の豚が、人間と同じ服(ジャケットやズボン)を着せられたという、にわかには信じがたい記録さえ残っています。
お祭りでもありませんし、滑稽な見世物でもありません。これは、れっきとした死刑執行の儀式でした。
その豚は、不運にも人間の子供を死なせてしまうという大罪を犯し、数日間にわたる厳格な裁判の結果、有罪判決を受けたのです。
現代の私たちの感覚からすれば、ただの不幸な事故として殺処分して終わりの話かもしれません。
ですが、当時の人々はそうは考えませんでした。
豚に人間と同じ服を着せ、判事の前で罪を並べ立て、わざわざ法律で裁くという、とんでもなく手間のかかる手続きを踏んだのです。
彼らは、単に豚を殺したかったのではありません。
悪しき行いには罰が与えられるという世界のルールを、たとえ相手が言葉の通じない獣であっても、目の前で証明しなければ気が済まなかったのでしょう。
豚にズボンを履かせるというその滑稽な行為は、崩れかけた世界の秩序を、無理やり法という力で繋ぎ止めようとした、人間の執念そのものでした。
ネズミの弁護士が放った「最高の屁理屈」
さらに不思議なのは、家畜だけでなく害虫までが裁かれていたという事実です。
16世紀のフランス。村の農作物を食べ尽くしたとして、ネズミたちが教会法廷に訴えられました。
もちろん彼らが出廷するはずもありませんが、法廷は彼らに弁護士を選任します。
そこで代理人を務めたシャセニェという法学者は、後に語り継がれるような、最高の弁論を展開しました。
「私のクライアント(ネズミ)たちが、召喚に応じられないのには正当な理由があります」
彼は大真面目に続けました。
「村中のあらゆる穴に住む彼らに、召喚状が全員に行き渡るはずがありません。それに何より、道中には天敵である猫が徘徊しており、命の危険があります。安全が保障されない限り、強制的に連れてくることはできません!」
信じられないことに、この主張は法理として認められ、裁判は延期されました。
これを昔の人はおかしかったと笑うのは簡単です。
ですが、これほどまでの理詰めを行ってまで、自然界のトラブルさえも法律の枠内に押し込めようとする姿には、もはや一種の信仰に近い、ルールへの信頼が感じられます。
悲劇を理解可能な枠組みに収める救済
なぜ、彼らはそこまで裁判という劇にこだわったのでしょうか。
おそらく彼にとって、わけのわからないまま、いきなり子供が死ぬことや理由もなく農作物が全滅することは、耐え難いほどの悲しみや恐怖だったのだと思います。
それは世界の終わりを予感させる、圧倒的な無秩序です。
そこに、ルールを持ち込む。
加害者を犯人と定義し、手続きに則って裁く。
たとえ相手が豚であっても、ルールを破ったから、罰せられたのだという物語を作ることで、彼らはようやく、この世界は道理の通じる場所なんだという安心を手に入れられたのではないでしょうか。
名前を与え、法を与えることで、制御不能なカオスという猛獣の首に、無理やりルールという名の首輪をはめる。
それは、たとえ明日にはまた世界が荒れ狂うとしても、今この瞬間だけは「ここは自分の庭だ」と信じ込もうとした、人間のあまりに必死で、少しだけ滑稽な抵抗だったのかもしれません。
憲法記念日にちなんで秩序について考える一方で、私たちの毎日は今夜もまた、思い通りにいかないことの連続です。
洗濯が終わったあとの、あのボックスシーツ。
四隅にゴムが入った、あの、どうしても綺麗な四角にならない布を相手に、私は格闘します。
角と角を合わせ、ルール通りに畳もうとするのだけれど、布はどこまでもそれを拒み、最後には丸め込まれたような、よくわからない「塊」が出来上がるだけ。
どれだけ憲法や法律が美しく整っていても、私たちの生活には、どうしてもシワが寄り、角が合わない瞬間が潜んでいます。
それでも、中世の人々が豚に服を着せてまで秩序を求めたように、私たちもまた、明日もまた、何かのルールを信じて、少しでも綺麗な形に整えてから眠りにつこうとするのでしょう。
一息ついて、明日の天気をスマホで確認する時、「道に猫がいるので、今日は行けません」と大真面目に主張したあのネズミたちのことが、ふと羨ましくなるのです。
完璧なルール通りにはいかない、四角く収まりきらない自分。
そんなどうしようもなささえも、あの弁護士ならきっと、正当な理由として受け入れてくれるような気がして。
私はほんの少しだけ軽くなった気分で、シワの寄った塊をクローゼットに押し込み、買い物に出ることにしました。
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