「はい、お疲れ様です」の声はなぜ別人になるのか
まな板の上で玉ねぎを刻みながら、リビングでブロックを散らかす娘に「早く片付けなさい」と低い声で牽制していた時のこと。
エプロンのポケットの中でスマートフォンが震えました。
画面の表示は、職場の先輩からの着信。
急いで手を拭き、通話ボタンをスワイプして耳に当てた瞬間、私の喉仏は自動的に跳ね上がり、自分でも驚くほど高く澄んだ声が発射されたのです。
「はい、お疲れ様です。」
数秒前まで床の上のブロックに向けて放っていた低い声はどこへやら。
まるでプロのオペレーターのような、あるいは少し緊張した小動物のような声になっていました。
まるで知らない人を見るような娘の目
電話を切った後の、あの絶妙な気まずさといったらありません。
振り向くと、ブロックの手を止めた娘が、真顔でこちらをじっと見つめていました。
まるで「今のは誰?」とでも言いたげな、底知れぬ不信感を孕んだ瞳。
無理もありません。
直前まで般若のような低い声で怒っていた母親が、一瞬で某テーマパークのキャストのような愛想の良い別人に憑依してしまったのですから。
私はいたたまれなくなり、小さな咳払いを一つして、何事もなかったかのように再び玉ねぎを切り始めます。
しかし、一度上がってしまった声帯のギアを元に戻すのは、案外難しいものです。
「……ほら、早く片付けなさい」
先ほどと同じセリフを言ってみるものの、どこか声のトーンが迷子になっていて凄みがありません。
娘は完全に私の弱みを見たような顔をして、再びブロック遊びに戻っていきました。
なぜ私たちは、電話という姿の見えない相手に対して、ここまで見事な変身を遂げてしまうのでしょうか。
私たちは機械に気を遣っている
よく、よそ行きの声は自分を良く見せようとする社会的な顔だと言われます。
もちろんそれもあるけれど、理由はそれだけではないようです。
電話という機械は、人間の声のすべての音を相手に届けているわけではありません。
拾える音の周波数が限られていて、一定の範囲の音しか通さないように作られているそうです。
低い声やこもった声は、通話の中では少し聞き取りづらくなってしまうのだとか。
さらに言えば、「ロンバール効果」という耳慣れない現象も関係しているようです。
人間は、周囲が騒がしかったり耳元を塞がれて自分の声が聞こえにくかったりすると、無意識に声を張り上げてしまう習性があります。そして声が大きくなると、体の構造上、自然と声のピッチ(高さ)も上がってしまうのだそう。
つまり私たちは、無意識のうちに機械の性能の限界や環境を察知し、一番相手の耳に届きやすい状態に わざわざ声をチューニングしてあげている ことになります。
最新のスマートフォンを握りしめながら、実は人間側が機械の都合に合わせて健気に気を遣っているという事実に、なんだか少し滑稽な気持ちになってしまいます。
「私は無害です」という防衛本能
そしてもう一つ、もっと根本的な理由があります。
動物の世界では、声が高いことは体が小さいこと、そして若さや未熟さを意味します。
私たちは顔が見えない相手に対して、無意識に自分の体を小さく見せようとしているらしいのです。
「私は無害です、攻撃しません、だからどうか安心してください」という 生存本能のシグナル 。
立派な大人になって、社会の荒波をそれなりに泳いでいるつもりなのに電話のコール音が鳴った瞬間に、私たちは太古から続く野生の防衛本能をむき出しにしてしまうのですね。
地声の迷子と、目に染みる玉ねぎ
次から電話に出る時は、もっと自然な地声で話そう。
大人の余裕を持って、低い落ち着いた声で、ありのままの自分で。
そんな決意を胸に秘めてみるけれど、次にスマートフォンが震えた時、私はまた条件反射で喉の奥のスイッチを切り替えてしまうはずです。
「私は無害です。」
見えない相手にそう全力で主張しながら、目に染みる玉ねぎを無心で刻み続ける私。
指先にこびりついた玉ねぎの匂いと、無理に引き上げたせいで少しだけイガイガする喉の奥。
この愛すべき防衛本能と、背後から送られる娘の冷ややかな視線を、今はもう少しだけ笑っていたいと思います。
▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ
電話口のよそ行きの声のように、相手につられて意図せず「関西弁」がうつってしまったことはありませんか? 脳が勝手に相手をコピーしてしまう、もう一つの愛すべき仕組みについて。
無意識に出てしまう声といえば、立ち上がる時の「よっこいしょ」。実はあの声も、単なる加齢ではなく、身体にスイッチを入れるための見事な生存戦略でした。
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