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リルケ「マルテの手記」を深く読む -形而上学的一撃-

 好きな本を皆と共有したいと思いから、本の紹介を始めました。
作品の面白さを通じて、人と心を通わせられる時間にできたらと思います。
今回は前回に引き続き、リルケ「マルテの手記」を取り上げます。

【重要】
この記事を読めばリルケ「マルテの手記」をもっと楽しく読めるようになります


本記事の目的

 読者の皆さんがより深くそして自由に「マルテの手記」を楽しめるようなヒントをお届けしたいと思います。難しそうに見える一冊ですが、少し視点を変えるだけでリルケが描く主人公マルテの不安や孤独がより一層心に響くようになります。

前回の振り返り

 さて前回は、精神な不安に関して話をしました。
 この精神的な不安というものは文学作品にいて非常に重要なモチーフになっています。その不安をどこまで読み手側が抱えているかによって主人公に対する感情移入の深さの度合いも変わってくると思います。前回の記事では、その不安に関して、物の無意味性を意識することで深い不安が発生してしまうことを具体例を使って説明しました。
 前回の記事はこちら!興味が出た方はぜひご一読ください。

恐ろしい一撃について

 今回は「恐ろしい一撃」という言葉を取り上げます。前回取り上げた精神的な不安と密接に関係しているので、その不安について前回とは異なる切り口で話をしつつ、恐ろしい一撃について解説します。

なぜ不安になるのか

  どう生きるか、という問いは自分の人生を精一杯生きようとする人間に生じるものです。しかし、どう生きるかという答えの根本を自分がどうしたいかよりも、そもそものこの世界の在り方に求める人間が一定数存在します。そうです。私です。
 何が言いたいかというと、どう生きるか考えようとした時に、そもそもこの世界はどのような在り方をしているのかという地点に立ちかえる必要があると考えるというわけです。この世界のルールや前提が分かっていないとその場でプレイを進めることができない。
 そうしてこの世界について考え始めるわけです。それを知ることができなければ、自分の人生を正しく進める気がしない。四六時中、生きているということについて考えます。ここに在るものは何なのか。煮詰まったら散歩に出かけます。もう春です。朗らかな空気、青空のした、道路を歩きます。風が吹き、肌をなで、過ぎ去っていく。これは何だと考えます。風という言葉は知っている。しかし、風という物は見たことがない。風は現象であり、それと同時に、その現象を表すただの言葉であると実感する。
「ただの言葉にすぎない」
 この言葉とそれが示す現象に恐ろしさを感じる。春も空気も青空も、道路、風、肌、それを考える私というものも、ただの言葉に過ぎないと言い切ってしまうことができる。私が乗っているこの身体、肌はただの肉であり、タンパク質とも呼べるし、アミノ酸の集合体とも呼べるし、原子であり、電子の集合であり、量子であり、紐のようでもあり、波の振動でもある。肌、すなわちこの身体を、言葉が生まれる前の世界の在り方で見ると、ただひたすらに意味がなく、ただ存在していたことに気が付く。
 この世界はいったいどういう世界なのだろうか、何も分からないし、言葉によって思考する以上はこの物の世界を理解しえない。そんな気さえする。この世界が分からなければ、自分の正しい生き方さえ分からない。
 そうして人はまるで蛇に睨まれた蛙のように、メデューサに見惚れた人間のように、思考が硬直し、不安に陥る。

 読者を置いてきてしまった気がするので一つ別の角度からの具体例を出します。最近よく話題のオープンワールドのゲームをプレイすること想像してみてください。封印された祠から起き、扉を開けてゲームを開始します。あなたはその主人公。異世界からやってくる悪魔を討伐するために旅に出かけます。途中で賢者に会いました。その賢者が言います。
「この世界は広がり続けている」
 世界の果ては常に広がり続けてる。マップを開いてみると、地図の端が伸び続けている。そうして不安になります。なぜか。このゲームの世界のように、地図に区切りがないと、世界全体に対して自分がどこにいるのか、その座標が全く分からないという事態に陥る。逆に、日常生活では地球という星があり、マップを開くと地域の区切りがある。区切りがあるから、この地区のここに私がいるということを理解でき、安心できる。だがしかし、その区切りがない場合はどうでしょう。地球の外に目を向けてください。すると、そこには先ほどのオープンワールドのゲームにように、無限遠方に宇宙は広がり続けている。さて、あなたはこの大宇宙の中の、つまり世界の何処にいるのでしょうか。
 分からないのでは?
 それが恐ろしい。どうでしょうか。この世界自体が不可解だという感触が伝わりますでしょうか。そしてあなたという存在も。

 マルテはどうでしょうか。彼はなぜ不安になるのか。
 それは、物に意味がないということに対して向き合っているからだと思います。ただひたすら、意味がない物を見つめている。
 意味が無いということについて説明します。これは目の前に水があるが、これは私が勝手に水と呼んでいるだけで、この透明な流体は水という意味がなくても存在することができる。ただの透明な流体に過ぎない。水と先ほど呼んでいたものは、ただ”それ”として、つまり水という言葉(=意味)無しに、ただ存在しているだけということです。そのような認識でもって、目に映るものを見つめる。そうすると不安になります。なぜなら、目に映るものすべて、水と同じように、ただ無意味にここに存在しているだけだということを実感するからです。この言葉を想起している私でさえも、本質的に無意味にこの世界にただ在るだけだと理解する。

 人によって不思議を直観する入口は違うだろうと思います。私は物理学徒だったので、この世界を貫く法則は何なのだろう。過去の人はどのように考えてきたのだろうと物理学の歴史を遡り、考えながら散歩していたら、ある日突然、不思議さを実感する瞬間がありました。
 異世界に迷い込んでしまったような感覚です。自分で選んでその世界に入ったのではなく、気が付いたときにはもう認識が切り替わって、切り替わったと同時にこれは物をどう見るかという認識の問題でもあるが、ここで何が起こっているのかという現象の問題でもあるということが腑に落ちました。
 その理解を恐ろしい一撃というのだろうと思います。あくまでの読みの問題ですが、私にはそう読めます。
 ですが私は池田晶子さんの読者でもあるので、恐ろしい一撃を形而上学的一撃すなわちメタフィジカル・パンチと読み替えたいです。
 みんなにもそのような読書体験が訪れることを願っています。
 リルケ「マルテの手記」この第一級の詩人によって編み込まれた精神の物語ならそれを発生させることができると確信しています。

以上、リルケ「マルテの手記」第五弾でした。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
マルテの手記が気になった方、ぜひスキをお願いします。
読んでいただいた方から反応があるととても嬉しいです。

それではまた別の記事でお話しましょう。
ありがとうございました。



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