リルケ「マルテの手記」と精神的な不安について -おすすめ本紹介-
好きな本を皆と共有したい。
作品の面白さで人と通じ合いたい一心で本紹介を始めました。
前回に引き続き、リルケ「マルテの手記」です。
前回のおさらい
前回はマルテの手記を読み通す心がまえを紹介しました。お節介な気がしましたが、父にプレゼントしたところ難しくて中々読めないと言っていたので、「理解しようとしなくていい。絵を見るように読めばいい」ということどうしても伝えたくて記事を書きました。
今日はいよいよマルテの手記の小説に関して、皆と楽しく読んでいきたいです。よろしくお願いします。
前回の記事はこちら
精神的な不安について
マルテの手記に関する記事を四つ書いてきましたがまだ一ページ目に留まっています。まあ、焦らずゆっくりこの小説を一緒に楽しみましょう。物語の序盤、主人公マルテは町から精神的な不安を感じ取ります。
今日はこの不安に関して話をさせてください。特にこの不安とは一体何なのかについて考えていきたいです。
よく言葉には力があると言われます。
アニメとか漫画とか映画、そういった創作の中でそういった言葉をお聞きになったことがあると思います。
言葉には物にラベルを貼るという効果がある。机と我々が認識しているものを例にとると、大きな一枚板の下に四本脚がついていれば、それを机を呼ぶでしょう。言葉には意味を付与する力があるのです。
といった感じです。
ここまでは何となく理解できます。
机とか椅子とか鉛筆と呼ばれるものは、実際には木の塊だったり、木と木炭を組み合わせたものだったりするわけです。まあ、それはそうだよなと納得できます。
その一種の言語脱落はもう一段階いけます。
木は、木と呼ばなくても良い。つまり木という言葉もまた、椅子という言葉と同じように認識から消去することができる、ということです。だって、そうですよね。椅子という言葉を昔の人間が作ったように、木という言葉もそうだったに違いないのだから、先ほど大きな一枚板の下に四本脚がついているものを机と呼んでいたことに気づき物と言葉に分類したように、木も同じような物の見方をすることができます。
トライしてみましょう。停滞するよりは挑戦する方が良い。
ここに一本の木があります。
立派な広葉樹が一本、太陽に向かって生えている。風が吹いて枝葉が揺れる。安楽椅子に座り、それをただぼんやりと眺めている。
これは木ではないわけです。人に理解してもらうには、木と呼ばざるを得ないが、別に木と呼ばなくてもいい。木を、木という言葉それ以上の何か、そのようなものとして見てみる。大地から養分を吸い取り太陽に向かって成長する”ただのそのようなもの”に過ぎない。
繰り返します。木は、木ではない。木(=と呼ばれていたもの)は、木(=という言葉)では表しえない。もっと別の何かとして、ただここにいる。
目の前にあるものを”そのようなもの”として直観した時、人は不安を抱きます。漠然とした不安です。木がただここにあるように、私という存在もまたこの世界にただ意味もなくあるだけなのだということを察してしまうためだと思います。意味も無く、ただ在る。そうしたことを身体全体で理解した時にとてつもない不安に襲われます。
さらに、木は木ではない。しかし今は木としか表現できない。そのような認識を自覚したとき、その見方は即座に万物に適用できることが分かります。そのようにして、風が吹き田んぼの稲が倒れていくように、雫が湖に落ち波紋が広がっていくように、認識から言葉が剥がれ、存在の足場が崩れ落ちた暗黒の世界に精神が迷い込んでします。
そのようにして人は不安に陥るのだと思います。
人によって、その感じ方は様々でしょう。その時の体験が人にどのように作用するかは、その人の感性による。
事物の無意味性に意識を向ける、すなわち、存在が意味をもって生まれていないことを自覚する。そうした時に、神から見放されたような絶望感に陥る人もいれば、何にも本質的に縛られていないのだと私の絶対的な自由へ向かって心が解放される人もいるでしょう。
ただ今は漠然とした不安の中にいる。
マルテもまた同じような不安を感じながらパリの街を歩いている。
存在が意味を持ったまま生まれてはいない。だがしかし、それでもなお、生きることが大切だと念じながら日々を必死に生きている。
そういう読み方をしても良いのではないでしょうか。少なくとも私はそのように不安と孤独を抱えながらこの小説を読んでいます。
今回はこれで一度締めます。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
次もこのような形で一つずつマルテの手記について話していく予定です。
次の候補は、迫りくるもの、静寂、恐ろしい一撃です。内容は考え中です。
最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。
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