リルケ「マルテの手記」と読む前の心構え -おすすめ本紹介-
好きな本を皆と共有したい。
作品の面白さで人と通じ合いたい一心で本紹介を始めました。
前回に続いて、リルケ「マルテの手記」です。
まだまだ話したりないです。
前回のおさらい
#1ではマルテの手記という本は第一級の詩人の内的境地の体験が詩的言語によって表現されつくしていることについて話をしました。
そして前回の#2では、産院という前半のモチーフがこの物語全体を表す比喩になっている。この物語を通して読者が新しく生まれ変わる、そういう風に読んでも良いのではないでしょうか、という紹介をしました。
嬉しいことに、この記事を読んでマルテの手記に興味をもってくれた方からコメントをいただきました。ありがとうございます。
そこで、結構なお節介だとは思うのですが、「この本を読むにあたって、このような読み方をすればもっとマルテの手記を楽しむことができるよ」という形で、読む前の心構えについて話をさせてください。
「本は好きに読んだら良いし、好きな読み方で楽しめば良い」と思っています。ただ私の父にこの本をプレゼントした際、難しくて読むことができないと言っていました。実際、二部が特に難しいと感じます。
それに社会人として会社の中で働く中で、社会人スキルが上昇していけばいくほど詩を詠めなくなるだろうなと感じています。
理解できないものを理解できないまま楽しもうとしてみる。ふいに現れる美しい風景や文体のリズム、主人公の内的体験における実存的恐怖、そういったものをモンタージュ的に味わってみる。そういったことができなくなってくるのではないかと思っています。
そこで、必死に会社員をやっている人に向けてマルテの手記を最後まで読み通すために心構えを紹介します。
読み通すコツ
初めに、マルテの手記の内容について軽く紹介します。
この本は主人公マルテの日記や思い出や詩の断片の連続で構成されています。要は日記です。
初めてこのような本を読むと「よく分からない」で心が埋めつくされて、読めなくなってしまいます。なぜかというと、エンターテインメント小説的な話の筋がはっきりと見えないからです。純文学においても、やはり話の筋はある。例えば、主人公は社会の中でうまくなじめないという欠点があるが、それでも幸せになりたいと思っている。とか。そういった問題や設定を序盤で提示して、話を転がして終盤までもっていく。エンターテインメント的には、主人公と社会との関わりはどう変化したのか、主人公は幸せになれたのかについて終盤で回収されますね。純文学では、そこまで決定的な回収をしないかもしれませんが、それでもその主人公が最後どういった内的境地に至ったのかは描かれるでしょう。
このマルテの手記はそれを読み取るのが難しいです。相当な読み手でないと一回で読み解くのは難しいのではないでしょうか。かく言う私も、十回二十回読んで、ようやくシーンが分かるようになってきました。私の物分かりが悪いだけかもしれませんがね、えへへ。でも本当に三年ぐらい読んでようやく最近、なんとなく分かってきたなーという感じです。愛される者から愛する者へ。その精神の上昇を螺旋階段を昇るように描写されている気がします。
さて、話が長くなりましたが、このマルテの手記を初めて読む際の心構えはずばり
理解しようとしない
分からないものを分からないまま読み進めるのは苦痛かもしれません。しれませんと濁したのは、私は不可解なものを不可解なままずっと見つめることができる人間だからです。美術館にいって一枚の絵、例えばモネの雪景色の絵を二、三時間ずっと見続けられる人間です。けれども、それをちょっと普通ではないのかもしれないと社会に出てから感じてきました。
もしあなたが、そのような人間ではない場合、というかそんな読書の仕方をしてきたのではないのなら、今までとは別の読み方をしてみませんか。
社会に出ると誰かに説明をしなければならなくなりますね。仕事の目的や価値、現在の進捗状況、今後の案等。どう考えるか。理解できているかいないのか。理解できていないのなら腹落ちするまで調べたり質問しないと。普段そういうことに意識を割かざるを得なくなってくる。具体と抽象を組み合わせて分かりやすく説明…とか。
どうか、本を読む時ぐらいは、もっと気を楽にして。
ビジネス書を読んだり技術に関して調べたりするなら、当然理解しようと努めなければならないと思います。あなた自身が自分の仕事を円滑に進めるために、そうしなければならない。しかし、今、読もうとしているのはそういう本ではないのです。ある一種の娯楽として、第一級の形而上詩人の内的告白の書を味わおうとしているのです。理解しようとしなくていいです。もっと気を楽にしてください。あえて強く言うと、理解できないと絵を楽しめませんか?モネの睡蓮。この絵が描かれた目的を理解できないと、この絵を楽しむことはできませんか。まさか、そんなことはないでしょう。ただこの絵の前に立って、心を開く。あるがままに感じる。それだけで十分でしょう。絵は見て楽しむものですから。読みをもっと多角的に増やしたいなら、後から調べればいい。でも、心で楽しむことは知識が全くなくてもできることです。というわけで、この本も理解しようとしなくて良いと思います。無理に主人公の目的はこうで、このようなことがこの本のテーマで、実存主義的には…宗教学的には…そんな解釈をしようとしなくていいと言っています。ただ絵を見るように、漫然と小説の言葉に身を預ける。それだけで良いと思います。
無理に理解しようとしない。
気を張らずに夜寝る前にさっと数行目を通してみる。
それだけで心が軽くなったりするものですよ。
それで充分じゃありませんか。
そう言われても分からないと不安になって、どう読めば良いのか分からない。目的がないと読めない。「読めないという問題は解決していないじゃないか」「どうしてくれるんだ」
そんなあなたに朗報です。ここでもう一つ、最後まで読むコツを紹介します。それはズバリ
主人公に対して心を開く
なんのこっちゃという感じでしょうか。詳しく話します。
主体的に理解しようとはしないが、結果的に理解してしまうというところにまでもっていく。そのような読み方です。あくまでの心がまえの問題です。
ただひたすらマルテに対して心を開いていけばいい。
マルテが感じた孤独を自分でも感じてみる。マルテの目を体現しようと努める、そのことを意識しながら読んでいくということです。自分とマルテの境界がなくなるレベルまで、言葉を通してマルテの心情や風景を自分に溶け込ませていく。その継続によって、分かろうとしなくても最終的に分かってしまうと思います。
それによって、強烈な読書体験が読者(=あなた)に訪れます。一般的には宗教体験と呼ばれるかもしれませんね。言語脱落体験。脱自体験。純粋経験。言い方は色々あるでしょうが、今回は詩人の時間と表現してみます。
リルケはひたすら物を見ることに努めた詩人だと私は感じています。物と言葉の同一性が破綻して、そのうえで物を見ることに努める。言葉という守護を失ってしまい、黒くてどろどろしたものと化した事物とひたすら向き合う。
あなたにもそのような詩人の時間が訪れるようになるかもしれません。
それが善いことなのか、悪いことなのかは分かりませんが。
でも、社会の中で生きるあなたにとっては悪いことになるかもしれませんが、あなたをやっているあなた、その純粋精神の成長にとっては間違いなく善いことだと確信しています。
それでは良い読書体験を。
今回はこれで一度締めます。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
次もこのような形で一つずつマルテの手記について話していく予定です。
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