リルケ「マルテの手記」と産院について -おすすめ本紹介-
好きな本を皆と共有したい。
作品の面白さで人と通じ合いたい一心で本紹介を始めました。
前回に続いて、リルケ「マルテの手記」です。
まだまだ話したりないです。
前回のおさらい
前回の記事では、リルケ「マルテの手記」の面白さについて少しだけ紹介しました。一言でまとめると、この本は第一級の詩人の内的境地の体験が詩的言語によって表現されつくしている。ある体験の比喩によって全て編まれている、そのような読み方ができる本だと紹介しました。
↓この記事です。マルテの手記の紹介の他に後書きで、深みと呼んでいるものを自分なりの言葉で説明しています。
興味が出た方、ぜひご一読ください。
読みの提案~産院について~
今回から少しずつマルテの手記の内容を取り上げていこうと思います。
とはいっても、内容を引用したり詩をそのまま取り上げたりするのではなくて、一つのモチーフを取り上げて、そのモチーフは普通に読むとこうだけれども、別の角度から読むこともできるのでないでしょうか、良かったらそう読んでみてくださいという提案をしていけたらと思っています。
ちなみに、私はマルテの手記を、新潮文庫、光文社古典新訳文庫、角川文庫、未知谷、から出版されているものを二冊ずつ持っています。一冊は斜線やメモを書き込む用、もう一冊は精読用です。それをずっと順繰りに読み続けています。始めは、光文社古典新訳文庫の文体の軽さが良い、ある程度の軽さがある方が日常的人間精神に対する詩の浸透性が高いのではないかと思っていました。ただ、何度も読み込んでいくうちに、新潮文庫の訳が一番良いという結論に落ち着いています。これで一つ完成している。基本、これからも本から言葉を引用するつもりはないので読者の皆さんと本の内容に関する認識の齟齬が生まれることはないと考えていますが、一応言っておくと、これから新潮文庫のマルテの手記を読みながら、皆さんとこの本の面白さについて共有したいなと思っています。訳:大山定一のものです。
一応、ちゃんと書いておきます。
参考文献 リルケ:マルテの手記,大山定一(訳),新潮社
さて、今回取り上げたい言葉は、産院です。
マルテの手記は、主人公マルテがパリの街を歩くところから始まります。
そして塀にふれ、地図を見て、それが産院だと発見する。それだけです。
普通に読むと、白い壁の産院があったということでしょうね。何も違和感はありません。ただ、ここに産院を出したということに関して意味を付与させてみる、思い切って誤読しながら本を読むというのも楽しいものです。
ここで一つ脱線しますと、日本には神社があります。その構造は、鳥居があり参道を通って、お宮でお参りをして、また参道を通り鳥居を潜って、出ていくという風になっています。特に不自然なところはないですね。ご家庭の習慣にもよるでしょうけれど、正月家族皆でお参りにいった時に特に意識せずに体験することです。
この参道は産道と読む人もいるようです。あくまでも読みの問題です。神社という構造が女性の身体構造になぞられているという読みをしてみる。門をくぐり、産道を通って宮まで進み、お参りをして、再び産道を通って、門を出る。ある種の生まれ変わりの儀式に見えなくもない。
気持ち悪いと思われたなら、ごめんなさい。
ただ今お話したいことは、こうなっているという解説ではなくて、そう読み解くこともできるのではないかということを提案したいということです。
誤読かもしれないが、どうもそういう風に見えなくもない。あくまでも読みの問題です。
神社の構造が女性の構造と類似していることから、お参りという一連の動作は生まれ変わりの比喩表現として解釈できるのではなかろうか。このようなちょっとした飛躍的読み、誤読もできるのではないでしょうか。
とすると、このマルテの手記の序盤。産院というモチーフはどう見えるでしょうか。新しく生まれる場所を最初に提示してきている。これを飛躍的に誤読すると、産院というモチーフはこの物語そのものを表現しているという風に読めなくもない。
産院という構造が、この物語全体の比喩になっている。読み手が本を開き、このマルテの手記という物語を通過する、その行いはある種の生まれ変わりの儀式として機能する。その宣言のようにも聞こえます。
生まれ変わりとは
何が生まれ変わるか。
何が再度、生まれ直すのか。
それはあなたですね。つまり、読み手です。
読む人間がこの物語を通して新しく産まれ直す。くどいようですが、そういう風に感じ取ることもできる。
さて、その産まれ直すとはどのようなことを示しているのか。
この記事ではそれについて言及して締めたいと思います。
本題に入りたいのですが、やはりこれを説明するのは中々骨が折れますね。でも、説明のために一言で言い切ってしまうと、生まれなおすとは、物と言葉の関係性に疑問を抱き世界を見つめなおす行為の比喩だと思います。
物と言葉の関係性、正直、これが私が一番言いたいことなのですが、やっぱり説明が難しい。
今、私の目の前に、モネの絵があります。湖の絵です。日が昇り、水面に日差しが映っている。綺麗。しかし、ここに光というものが描かれていないことに気がつきます。光は表現されている。しかし、光そのものは描かれていない。光というものはない。そんなことを考える。
現実に戻ってきましょう。今、この記事を読んでいるということはどこか明るい場所にいるはずです。光の中でこの記事を読んでいる。私がここで強くどうしても言いたいことは、その光とはただの言葉に過ぎないという、そんなどうしようもないことです。ただの言葉だよ。太陽も、光も、コップに入った水も、人間も、ただの言葉だ。言葉以前、言語が形作られる前の社会を想像すると、太陽は太陽としては存在していない。あくまでも読みの問題です。太陽を太陽と呼ぶことができない、言語誕生以前の歴史を生きた人間が見た景色を想像してください。あなたと二人で荒野に立つ。私があなたの肩を叩いて呼びかけます。
「あれを何と呼びますか?」
困りませんか。太陽という言葉をあなたが知らないとしたら、あなたは太陽という言葉を使ってはいけないとしたら、天に浮かぶ丸いものを何と言いますか。
そうしてあなたは太陽という言葉を失う。
次第に同様のことがすべての言葉に適用できるということを知ります。
どうやら、先ほどまで太陽と呼んでいたものは、太陽と呼ばれていた謎の物体と太陽という言葉に分割できる。この丸くて明るいものに本質的には太陽という言葉が付与されていなかったことに気づく。
それが物と言葉の同一性に気づくということでしょう。あ、これは私が勝手に言っていることです。普通に生活しているときは、謎の存在Xと太陽という言葉を自然に同一のものとして認識していたということに気がつく。
気づくと同時にその同一性が破綻します。
「あれは、何だ?」と。
その認識で持って改めて、この世界がどうなっているか見つめ直すということ、それが生まれなおすということでしょうね。
ま、あくまでも読みの問題ですがね。
今回はこれで一度締めます。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
次もこのような形で一つずつマルテの手記について話していく予定です。
最後まで読んでくれた方、ぜひ「スキ」と「フォロー」お願いします!
