リルケ「マルテの手記」を楽しく読む -見ることについて-
好きな本を皆と共有したいと思いから、本の紹介を始めました。
作品の面白さを通じて、人と心を通わせられる時間にできたらと思います。
今回はリルケ「マルテの手記」を取り上げます。
【アピールポイント】
この記事を読めばリルケ「マルテの手記」をもっと楽しく読めるようになります!
本記事の目的
読者の皆さんがより深くそして自由に「マルテの手記」を楽しめるような視点をお届けしたいと思います。難しそうに見える一冊ですが、少し自分の考え方を変えるだけでリルケが描く主人公マルテの不安や孤独がより一層心に響くようになります。
前回の振り返り
前回は精神的な不安を始まりとして、恐ろしい一撃という言葉について話をしました。
言葉の順序が前後しますが、「私が今生きている世界はいったい何なのか」そのことについてひたすら考えていくと、思考する主体つまり私は言葉によって世界を表現し理解しようとしているという、酷く当たり前なことに気が付きます。目の前にある赤い果実を、りんごと呼んでいるということに驚くということです。次に、その赤い果物が、この世界に生まれた時、りんごとは呼ばれてはいなかった、つまり、このものの本質はりんごではなく、ただひたすら無意味(=言葉なしに生まれてきている)ということに気がつきます。
そうして精神的な不安に囚われてしまいます。目の前にある赤い果実、透明な流体、有機的な構造物、思考する主体、浮かぶ球体、無限に広い空間etc…全て無意味であるからです。(りんご、水、身体、私、地球、宇宙etc…)意味を持って存在していないという意味です。
話が長くなりましたが、前回はそのような不可解さが腑に落ちてしまう瞬間を恐ろしい一撃と読めば、普通に読むよりも深くこの物語を読めるよということを紹介しました。
前回の記事が気になった方はこちらからどうぞ!
見ることについて
さて、今回は”見ること”をテーマにリルケ「マルテの手記」を深ぼっていきます。普段、特に意識せずに使用している見るという言葉に対して思想を付与させることで、普通とは全く異なる読み方ができ、より楽しく深く本を読むようになること間違いなしです。作家の読みを理解しようとするのではなく、自分なりの読み方を突き詰めていく。人が、私はこう読む!こう楽しむ!ということを自然と行うようになれば、物語自体が新しく生まれ変わり続けるような気がしています。
普段忙しく動き続けている人にとって、見るということに疑問をもつことは停滞を意味します。見ているということ、思考するための前提条件に疑問をもってしまうと物事が何も進まなくなってしまう。仕事とは無関係の場所に立って初めて物を根本から考え始めることができる気がします。何が言いたいかというと、ただ記事を読んでいる今がその絶好の機会ということです。
さて、言葉に思想を付与させるということを別の言葉で言い換えると、これまでとは違った意味を知って、これまでとは違った使い方をするようになるということだと思います。
例えば、馬鹿という言葉があります。普段なら悪口にようにも聞こえますが、これも別の使い方をしてみましょう。詩人の茨木のり子さんの作品に「自分の感受性ぐらい」という詩があります。最後の詩にはこう書かれています。
『じぶんの感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ』
これは実存的人間が自分に対して出す警句のように聞こえます。考えることを放棄して感受性を養うことをおろそかにするなという戒めとして私は読みます。つまりここでは
ばかもの=生活に疲弊して考えることを放棄した実存的人間
と使用していると私は考えます。となると、馬鹿という言葉の意味と使い方が変わってきます。何かを理解できないという意味での馬鹿ではなく、疲弊した詩人と読み替えることができる。
ここで本題の’見る’という言葉に戻ります。見るという言葉も同じように書き換えてみたいのです。そう、ただ目の前のものを認識するという見るから、マルテの物の見方に変えてみたいのです。マルテが何をどう見るかについて作中で描写されています。一言でいうと、存在のありのままの姿を直視するということだと私は読んでいます。
普段の日常では、我々は物を物として認識することに何の疑問を抱きません。箪笥は箪笥、椅子は椅子、鞄は鞄、段ボールは段ボール、太陽は太陽、水は水、風は風、私は私、という風にです。目に見える物や想像できる現象と言葉を同一のものとして理解しています。つまり、箪笥(物)=箪笥(言葉)、椅子(物)=椅子(言葉)、鞄(物)=鞄(言葉)、段ボール(物)=段ボール(言葉)、太陽(物)=太陽(言葉)、水(物)は水(言葉)、風(現象)=風(言葉)、私(現象)=私(言葉)という風にです。
物と言葉、形態として全く別のものなのに、それを同じものとして認識できてしまっています。ここで言いたいことはそういうことです。
今日は、箪笥(物)=箪笥(言葉)を取り上げます。部屋の中で目を開きます。そうすると目の前に箪笥がある。そのような状況を想像します。この箪笥(物)という状態に着目します。箪笥と呼ばれている物がある、しかしそれを分解してみると、木というものが構成されて引き出しという機能がある物を箪笥と呼んでいることに気が付きます。つまり箪笥(物)=木(物)=箪笥(言葉)です。
さらにここで木と呼ばれているものの在り方に着目します。木もまた箪笥と同じような形で存在しています。木もまた、木という物を言葉と呼んでいる。木(物)=木(言葉)を無意識に受け入れて生活しています。この分解は、通常の理解では有限ですが、物理学史的には無限です。私はそう理解しています。つまり箪笥を箪笥(物)=木(物)=セルロース(物)=アミノ酸(物)=分子(物)=・・・=箪笥(言葉)と分解していった時に、今の世界では超弦理論まで行って行き詰ることになるという理解でいます。存在の本質、その最小単位は何だろうと考えていったときに、その果てはあるのだろうけれど、まだ果てに至ってはいないが、ただいったん途中までは理論化できている。それが今の状態でしょう。
今日はそこからさらに話を進めたいです。
箪笥(物)=木(物)=セルロース(物)=アミノ酸(物)=分子(物)=・・・=箪笥(言葉)
箪笥を一度分解してみました。その後で、改めて箪笥(物)を見てみます。
「果たして、これは一体、何なのか」と考えます。箪笥でもあるし、箪笥でもない。ただそう呼んでいるだけ。これは木とも呼べるし、でも別に木でもない。木は原子で構成されているはずだけれども、原子もまた観測された何かをそう呼んでいるだけで、で、結局箪笥って何?
箪笥とは木でしょう。木で組み立てられたものだ。しかし分解の果てに答えがないことは我々は既に知っています。そのため、結論を出すために思考の飛躍が必要そうです。
要は箪笥の本質って無いということでしょう。だって、我々が木を組み立てて箱にしたものをそう呼んでいるだけだから。なんなら木もそう。
つまり、
箪笥(物)=木(物)=セルロース(物)=アミノ酸(物)=分子(物)=・・・=箪笥(言葉)
これが
箪笥(物)=木(物)=無意味=箪笥(言葉)
こう!
無意味性について
今、この図式を出すところまで来ました。
箪笥(物)=木(物)=無意味=箪笥(言葉)
次は、この図式の後半に着目したいです。
箪笥というものの成り立ちを考えます。
おそらく箪笥は、箪笥というものが最初からあって、それを再現した。そういうものではないでしょう。つまりです、まず人は木を切った。その後に加工しやすいように板状に割った。そして、それを四角形に組んでみた。箱になった。その箱に物を入れるようになった。「あー、なんかこの箱、複数あれば物を分別できて便利じゃねーか」作ってみよう。下の段には下着、上の段にはホワイトTシャツを入れよう。
「なー、ちょっと見てくれよ。めっちゃ便利なものできたわ」
「なんやこのでかいの、何に使うの」
「服を整理するのにめっちゃええで。勝負下着とか、ちょっといい服を上の段とかに入れておいたらええねん。いやあ結構考えたわ」
「俺も欲しい。俺にも作ってくれよ」
「ええよ。けどこれめっちゃ手間かかるんよな。お前の持ってる酒と交換してくれよ。なんならお前の姉ちゃんも紹介してや」
「は、お前、俺の姉貴狙ってんの。やめとけってあんなずぼらなの。でも、まあ、酒ぐらいなら。今度飯でも行くか。姉貴も呼ぶか」
「いや、飯いくならお前はいらんわ。連絡先だけ教えて」
「面倒なやつやな。じゃあ、今度聞いとくから、それ頼んだで。それ、てかそれ何?」
「何やろな。箪笥や。木の容器やし」
「箪笥か。ええセンスしとるやん。じゃあ、その箪笥、頼んだで」
「おう、任せとけ」
箪笥、誕生!
こんな感じでしょうね。
何が言いたかったんだっけ。そう、箪笥(言葉)ができる前に、木の容器(いずれ箪笥と呼ばれるもの)ができている。つまり、物が先で言葉が後です。
これを踏まえて図式を書き換えるとこう。箪笥(物)=木の容器(物)=箪笥(言葉)
ここまでの内容を整理します。
【要点】
・普段使っている箪笥と呼んでいるものはただの木の容器
・箪笥は、箪笥と今呼ぶことにしたけど、別に箪笥でなくてもいい
・木の容器が生まれたときに、箪笥という言葉(意味)を所持していない
・それは木という言葉にも同じことが言える
今回色々言いすぎましたけれども、特に強調したいことは
【木の容器が生まれたときに、箪笥という言葉(意味)を所持していない】
ということです。
つまり、無意味であるということです。物は本質的に意味を持たない状態で存在しており、人が言葉を付与している。
そうして、そのような物の見方は、箪笥だけでなく、木にも、水にも、存在している物全て、あなたが使用している言葉全てに適用できる。
ここで一つ提案です。
今後、そういう目でもって物を見るということを今後”見る”ということにしてみませんか。少なくともマルテの手記を読む時ぐらいは、そのような認識を持った上で読み進めてみたいのです。
私の予想ですが、本当に一つ一つの言葉が無意味であることが腑に落ちた時、自分がどこか異なる世界にやってきてしまったような、別の世界に落っこちてしまったような感覚になると思います。
ただ物を正しく見ようとしただけなのに、日常的世界からあなたが没落してしまう体験、世界没落体験が起こりうる。
もしそれがあなたの中で発生すれば、、、
リルケ 「マルテの手記」を深く楽しく読めること間違いなしですね!
ちょこっとコラム
正しく物を見てしまう、その境地においてあふれ出してくる言葉に身を預ける、他者の言葉に酔いしれる。そのような内的体験がないから、社会人になって外の環境が変わっても大して苦しまず、資本を拡大させる営みに自分を書き換えてしまって、そのまま死ぬまで時間が経過してしまうのでしょう。
誰かを喜ばせたり、誰かの役に立ったりすることも大切で、社会の中で生活し続けるために働くことも重要だけれど、思考の主体いわゆる精神の成熟に時間をかけることも忘れてはいけないと思います。成熟というのは、社会的な用語としてではなく、つまり何かを決断したり判断したりできる社会的な大人になるということではなく、ただひたすら感受性を高めていくということでです。社会性の高いいわゆる大人から見ると、その営みは幼いものに見えるかもしれないがしかし、その営みを知っていないと根本的なところで生というものが空虚になる気がしてならない。
リルケ「マルテの手記」を読むということ。仕事をうまく進めること、要領よく進めるための手段を学ぶこと、組織の利益を最大化させること、そのような取り組みには全く訳に立たないでしょう。だが、それを実際に行う人間の精神そのものの休息と成熟に、第一級の詩人による高級な詩的言語が必要だと思います。
これを読みこなせるように全国民を引き上げていきたい。ま、独り言です。今日はこのぐらいにしておきます。
以上、リルケ「マルテの手記」第六弾でした。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
マルテの手記が気になった方、ぜひスキをお願いします。
読んでいただいた方から反応があるととても嬉しいです。
いやあ、今日はだいぶ長くなりました。着地をどうしようかとハラハラしながらでしたが、なんとか強引に切る形でひとまずまとめることができたと思っています。話の流れ等つたないところ、あったと思いますが、読んでいただいてありがとうございます。次はもっと楽しく、スムーズに読めるように心がけます。
それではまた別の記事でお話しましょう。
ありがとうございました。
